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新しいパソコンで快適です!
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右側のモニターがフォトショップ画面でそのクローン画面が下のペンタブレット。これで作業します。


7月8日朝、工房の窓から見える桂川の水嵩が増しています。上流の土砂崩れで抜け落ちたと思われる大木のきれいに洗われた根っこの部分が、泥色の濁流に浮き沈みしながら流れて行きます。
10時半を過ぎますと青空が垣間見え雲間から陽光すら漏れていますが、水嵩はそのままです。
この3・4年は梅雨から秋にかけて、こんな状態が年に何度かありますが、嵐山地区に降った雨水を桂川に逃がす為の工房前の堰からの逆流で、前の道に水が溢れてきたのは、まだ一度だけですがそれも家の中にまでは入ってこない程度でした。今年は、どうなるのでしょう・・・。
今からこうでは、今年も安心して秋まで過ごせません。

ということで、久々にブログを更新しようと思います。
最近は、この間借りの無料ブログ、1ケ月たってもコマーシャルが表示されなくなったようで、無更新が続いてそのまま放置していたら、先のブログから2か月半ほど経ってしまったようです。
ある知人から、ブログが更新されないので心配していたと聞かされ、私のブログを気にかけていてくれる人がいることに、少しうれしくなりました。

実は、なぜ、更新できなかったのか・・・ですが、10年ほど使ってきたパソコンが動かなくなったのです。

私の優秀な秘書であり、辞書であり、記憶の倉庫だったパソコンの調子が悪くなったのが昨年4月の中頃、やたらファンがフル回転しだし、うるさくてたまりませんでした。
そろそろ私の人生の最終場面を共に暮らしてくれる優秀なパソコンに変えなければ、そして今のうちに膨大なファイルやデータを移動しておかないと大変なことになる・・・と思いつつ先延ばしにしてきました。

その頃から1年以上経った6月のはじめ、コロナの給付金の支給手続きが終わってすぐの頃でした。
時期は、偶然なのですが、いづれ、新しいPCにしないといけないことはわかっていましたので、思い切って新しいパソコンを注文しました。
そんなつもりではなかったのですが、たまたま妻と私の給付金20万円はこのシステムの一部になってしまいました。

CPU は、 インテル(R) Core(TM) i7-9700 プロセッサー 。メモリが16Gb。250GbのSSD。グラフィックボード AMD RADEON RX5700 /8GB。 2Tbのハードディスクの組み合わせです。
それに、今まで使っていた外付けのハードディスク7Tb分を付ければ、老いた私にとっては頼りになる最強パソコンになるはずです。

新しいパソコンが届くその日に、うまくといいますか、たまたま、今まで使っていたGatewayパソコンがクラッシュしてしまい、ついにOSすら立ち上がらなくなりました。
つまり、データが取り出せなくなったのです。

9月までに完成させないといけない、やりかけの仕事(下図)も取り出せないのです。

ということで、レスキューのお兄さんに来ていただくことになったのですが、結局パソコンは寿命ということなのです。
「10年以上も使っていたなら、通常の2倍使ったことになります。」と笑いながら言われました。
ハードディスクの寿命は通常5年だそうで、5年以上使ったハードディスの大切なデータは、別の外付けハードディスクに保存しないといけないと言われました。
ということで、内蔵ハードディスク2個を取り出してもらっただけで17600円の出張費を請求されました。

取り出した古いハードディスクから、自力で新しいパソコンにファイルやデータを移動する作業は、全部自分ですることにしたのですが、これがまた厄介な仕事で、10年分の膨大なデータから大切なデータを選んで移動するわけですから人任せにはできません。
結局、そのクラッシュから一ケ月ほどかかって、手動でデータ移動作業をする羽目になったのです。

数日前から、やっとなんとか、今までの環境に戻った感じです。

我々の仕事も、もうパソコン無くしては、仕事になりません。もちろん私の記憶力もパソコンの力を借りないとどうしようもありません

1ヶ月の仕事のブランクを取り戻すため、新しいパソコンで下図を完成させ、1ヶ月を取り戻そうと少々焦っています。

今までのパソコン環境に比べますと、すこぶる快適になってぜんぜんストレスが溜まりません。快適です。
こうしてブログを書く余裕も出てきました(^^)
パソコン大明神様に感謝!




うだうだ | 12:47:06 | Trackback(0) | Comments(0)
樹木希林と太子樹下禅那之図
村上華岳「太子樹下禅那図」1938年 何必館・京都現代美術館蔵
村上華岳「太子樹下禅那図」1938年 何必館・京都現代美術館蔵


昨日の日曜日、相変わらず一人で工房に来て、いろいろ雑用をやっていると、新型コロナで活動停止中の仏教クラブの友人からLINE。

「お早うございます。4月1日の京都新聞の村上華岳の「樹下禅那」と樹木希林の記事を読まれましたか?貴殿の絵との共通点が有ります。もし、まだなら直ぐにLineで送ります。」

とのこと、村上華岳の「樹下禅那」の図は私の好きな絵の一つで、私のiphoneの壁紙にもなったことがあります(今は、堂本印象の維摩)
樹木希林と村上華岳の「樹下禅那」、何の関係があるのかと、その記事を見逃した私は、「よろしくお願いします!」
すると、京都新聞に掲載されたその記事が、画像と共に書き起こしたテキストで2回に分けて送られてきました。

華岳の「太子樹下禅那」に魅了され、その一枚の絵の為に「何必館」という美術館を東山区に建てた梶川芳友氏と2018年に亡くなった女優、樹木希林との40年に渡る交流から、希林さんの人生観を思い書いたものでした。

ネットで「太子樹下禅那」を、検索しますと産経新聞やら朝日新聞に、ほぼ同じ内容で掲載されたことが分かります。
如何に、女優樹木希林の生き方や逝き方が清々しかったかを物語っています。

樹木希林さんは、梶川氏の人生を変えた村上華岳の遺作「太子樹下禅那」にも心を奪われ、京都を訪れるたびに「何必館」に立ち寄り、梶川氏と、お互いの人生観や仏陀の生き方、死について等、仏教的な会話を楽しまれたそうです。

1999年、出演者の心の旅を描くテレビ番組の企画で、希林さんは釈迦成道の地、インドのブッダ・ガヤを選び、訪れたそうです。
希林さんは絵に描かれた釈迦成道の地、あの絵の菩提樹の場所、ブッダガヤを選び、その絵に描かれた主題を感じようとしたのでしょうか、彼女が菩提樹の葉を拾うシーンがあったそうです。

(※絵は、装身具を身に着けた若き日の釈迦が瞑想修行する姿が描かれていて、いわゆる成道図ではありません。絵には菩提樹の葉が描かれていますが、若き釈迦の瞑想した場所は、ブッダ・ガヤの菩提樹下ではなく尼連禅河(ネーランジャーナ河)の対岸の沙羅林とされています。華岳は混同していたのかもしれませんが・・・。)

「師弟」の関係はいつしか「友」であり、「同志」に変わっていたと梶川氏は感じていたそうです 。

2018年9月、訃報の知らせを聞き、希林さんの自宅に梶川氏が駆けつけると、枕元には3年ほど前に彼女に頼まれて贈った「太子樹下禅那」の複製画が掛かっていたそうです。

22歳の梶川氏は、最初に「太子樹下禅那」に出会った時、「これが傍にあれば安心して死ねる」と思ったといいます。
希林さんは癌で死を宣告され逝くまでの間、全ての所有物を放して絶ち、人が指し出す名刺すら受け取らなかったそうですから、彼女の信念に驚かされます。
ただ一つの所有物、枕元の華岳筆の「太子樹下禅那」図の複製、希林さんも「この絵が傍らにあれば安心して死ねる」と思っっていたのでしょうか。

この記事を送っていただいた友人が、先日の私の展覧会に来ていただいた時も、LINEでその時の感想を送って来られたのですが、その時は、数ある大作をさしおいて、一番小さな絵、色紙大の絵、冊子の表紙になった勢至菩薩の絵に感動したと言ってこられたのです。
あの勢至菩薩は、日頃の仕事として描いたのではなく、描きたくて描いた唯一の絵だったのです。よく描こうとか、早く描こうとか何の邪念もなく、素直な心で描いたのです。
その友人に、むしろ、「藤野正観の仕事展」なのに仕事として描いた絵ではないと、見事に見透かされたのです。

仕事を離れ、「絵描き」として描きたい絵を描く。これが70歳を前に掲げた私の絵描き人生の最終目標です。
職人絵師を卒業し、「この絵が傍らにあれば安心して死ねる」と言わさしめる絵が描けるかどうか、この記事を読んで絵描きとして、残ったエネルギーをこれに使おうと、改めて思ったのです。




新聞記事より | 16:54:52 | Trackback(0) | Comments(0)
2020年3月27日 京都新聞 梵語より
2020-3-27京都新聞朝刊 梵語


3月27日 京都新聞 梵語より
 気品のある美人画で知られる日本画家の上村松園は、随筆『青眉抄』の中で日本初の公立美術学校京都府画学校」で明治半ばに受けた教育について書いている。
▼まず25枚つづりの花の絵の手本を渡される。
それを描いて教員に直してもらい、再度清書し、25枚全部が試験に通ると6級から5級へ進む。
さらに級が進むと鳥や虫、山水(樹木、岩石、人物と順々に挑み、3年間で卒業した。
▼そんな様子を垣間見ることができる「京都府画学校への道」展が京都市学校歴史博物館(下京区)で4月7日まで開かれており、教わることが多い。
▼手本をひたすら写して画技を磨く訓練は臨画と呼ばれ、日本絵画の伝統でもあった。
だが自由や個性が重視される大正期以降になると、次第に顧みられなくなる。
引き替えに日本画で大事にされてきた運筆を教えられる人が少なくなってきたという話をよく耳にする。
▼時代の流れといえばそれまでだが、このまま伝統の技が廃れていくのはやはり寂しい。
近年、古画を研究し、運筆を表現に生かす若手画家が出てきたと聞いた。大事にしたい動きである。
▼京都市立芸術大と銅駝美術工芸高のルーツでもある画学校ができて今年で140年になるそうだ。
京都の美術史に果たした役割を振り返り、温故知新の機会になればと思う。
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と、こんな記事がありましたので、私のお世話になった図案家の内弟子時代にも、先輩たちの描いた草花の線画を写し取るのが、仕事が終わった後の自分の課題だったことを思い出し、思うところがありましたので、この梵語の記事に補足しておこうと思います。

江戸から明治にかけて西洋画(油絵)が輸入され、それまでの絵画に対する概念が変わりました。
それまでの日本の伝統的な絵画を、油絵と区別するために日本画と呼ぶようにしました。
やがて芸術という概念を軸に作品作りを教える画学校が生まれ、それまでの私塾で勉強してきた絵師たちは、画学校の生徒もしくは職業絵師として違う道を進むことになり、その絵描きとしての立位置は大きく分かれました。

画学校で教鞭をとる師が居れば、その私塾で勉強していた弟子達がそのまま生徒として学校に移る人が居た一方で、神坂雪佳のように、すでに職業絵師として収入を得ていた人は、陶器の絵付け、塗や蒔絵の絵師、彩色師、それと私が勉強した図案家等、そのまま職業絵師として住空間を装飾する道を選び、いわゆる芸術家とは一線を画しました。

画学校が生まれるまでは、私塾において塾生(弟子)は師について師の技法を習うといったことが普通で、師や先人たちの描いたものをひたすら写し取ることでその私塾の画技を身に着けたのです。

その伝承方法は、特に私の画技の基礎を作っった染織図案家の私塾にだけに図案を専門に描く人を育てる為に、画塾の徒弟制度が受け継がれて残り、当初の画学校では、梵語の記事にあるように、日本画科では材料論を伝えるということは今もあるようですが、時が経つにつれ西洋の個性重視の芸術概念に日本画も嵌っていったようです。
その頃に、私塾から学校へ進み勉強した近代日本画の巨匠と呼ばれる人たちは、画学校ができる前の私塾での修業時代を経験していますから、日本の伝統的な美の意味や表現方法、画技を身に着けながら西洋の絵に、ほどよく影響されていったのだと思います。

しかし、今の画学校では、模写室を除くと昔のようなやり方で教え伝える先生もほとんど居なくなり、日本画も油絵もそうですが、自由に描いたり、描き手本人のメッセージ性や個性を重要視するように変化してしまいました。
今では、日本画も、描く画材だけで油絵と区別しているように思えます。
蹴鞠の鞠でサッカーをしている人が、自分は蹴鞠をしているのだと勘違いししているようなものです。やはり、それはサッカー競技でしかないのです。

今の日本画家の卵さんも、今一度、昔のように、先人の残した良い作品(古仏画や大和絵等)を写すことからはじめ、そこから生まれる「和の美」の精神、「和」の感覚を身に染みつけつつ、画技を身に着けて欲しいと心より思っています。

私の主宰する仏画工房でも、今もこの教え伝えるやり方を通して、後輩(弟子)や仏画教室の人たちにも、徹底的に東洋画の基本練習法として、線画(白描画)を使い「写仏」をして貰っています。





新聞原稿より | 15:48:12 | Trackback(0) | Comments(0)
東近江市出身の仏絵師 『藤野正観の仕事展』のこと


「東近江市出身の仏絵師 藤野正観の仕事展」も残すところ、明日一日となりました。
展覧会場で撮った写真に動きを付けただけですが、武漢ウィルス騒動で、行きたくても行けなかった方には、この動画で会場の様子を少しだけですが、お感じ頂けます。

思い返せば、昨年2019年1月、私の18歳まで育った東近江市五個荘にある「観峯館」の学芸員の古橋さんが初めてお見えになり、この「藤野正観の仕事展」の企画をお聞きしました。

現在は会社の経営者で、観峯館の外部評議員をしている従弟(阪大時代は東洋美術の研究をしていた)の紹介もあったようですが、学芸員の古橋さんは、2002年にも当時の五個荘町教育委員会主催の「藤野正観の仕事展」をご覧になっており、また、ご自分も京都市立芸術大学時代には日本画科の模写室で学び、卒業後は、米国ニューヨークのメトロポリタン美術館等の所蔵する日本の古い書画の表装・修復などにあたっておられたようで、私の仕事を少なからず理解し、仏画や古画をこよなく愛しておられ、深い思い入れを感じました。

観峯館は、公益財団法人日本習字教育財団が、書道文化の普及を目的に運営する博物館。
観峯館始まって以来の初めて、存命中の作家の展覧会を企画されたことになるそうですが、やはり、地元東近江市の文化にも貢献したいということで、この企画を発案、推進されたようです。

当然ながらありがたく、快くお引き受けしたのですが、私のお納めしたお寺さんから、納めた作品をお借りするのは、いろんな意味で大変なので、私の工房にある仏画でよかったらということで、ご承諾いただきました。

後日、数年前に新しく建てられた会場となる特別展示室を下見に訪れると、そこはやはり博物館らしいガラス張りの展示ケースが連なり天井も高く、私の工房所蔵の作品だけではちょっと場が持たないと直感しました。

そこで、私は、決心しました。
広くて天井の高い展示室の展示内容を充実させるには、どうしても、大きなサイズの絵が数点は必要なのですが、当工房所蔵の東寺所蔵の元禄時代に描かれた両部曼荼羅を元に描いた1/4サイズ両部曼荼羅、西院曼荼羅の精巧なレプリカ、観経変相図(当麻曼陀羅)の精巧なレプリカ。その他に、何かあれば・・・と考え、観覧者が最も理解しやすい「涅槃図」があれば・・・と考え、新しく大きなサイズの江戸様式の涅槃図と、その他に数点の新作を揃えようと、ほとんど無収入を覚悟し、この展覧会の成功だけを考え、作品を揃えることにしたのです。

おかげで、会場は、それらしくバランスの良い、「仏画展」らしい「聖なる空間」になり、他ではめったに観たり体験することができない特別な展示空間となりました。

また、もともと3年前から、画歴50年を機に画集を作ろうと企て、画像データを整え初めていました。でも、すべてが初めてで気持ちだけが先行し、少々焦っていたところではあったのです。
当初は、そのできた画集を、会場で販売していただくことになっていましたが、2019年6月には母が享年92歳で逝ったこともあり、葬式や法事などで開催数ヶ月前になっても、具体的な構成すら手に着かずにいました。

ところが、観峯館さんが、通常の企画展では、パンフレット的な図録冊子をお作りになっていたこともあり、その流れと手際で冊子を作るということになり、私の手持ちの作品画像データを提供し、古橋さんの要望を受け、作品の解説文や構成など着々とその編集作業が進んでいくうちに、これなら自分で出版もできるのでは、と気が付き、32ページの冊子なら肩の力を抜いて制作できるのではないか・・・と、自らが編集し出版をすることになりました。
当初は、観峯館さんが、経費を出し、入館者に無料で配布する予定でしたが、それでは、何年もかけて描き溜めた作品に申し訳ないということで、きちんと定価を付け、ややこしい手続きを経てISBN日本図書コードも取得し、一人前の書籍としてamazonでも展覧会開始と同時に販売していただくことになりました。

私は、やはり、これ等の準備をしていた1年間分の溜まった仕事を消化しないといけませんので、日曜日だけ会場に行くことに決めました。
個人情報保護法厳守ということで、私の留守中に来られた方々のメッセージは、芳名録に署名ではなく、他の人に覗かれないように設置した『箱』に入れてもらうようにし、日曜日ごとに開封、チェックをしました。

小学校、中学校、そして高校までの古~い友人がたくさん来てくれました。実際にお会いしたのはその 半分ぐらいですが、箱に入っていたメッセージで来てくれたことがわかります。
私の住む京都からも、寒い時期でもあるにもかかわらず、友人知人がたくさん来てくれ、自分で案内状やチラシをお渡ししたにもかかわらず、恐縮してしまいました。
その他、ホームページやFacebookを通じて友人となった人たちが、情報を聞いて、遠くは、仙台、東京、神奈川、愛知、岐阜、山口、島根、広島、岡山、奈良、大阪等から来ていただきました。

2月後半から、じわじわと武漢ウィルスの脅威が迫り、3月になって入場者が増えるどころか、減り続けています。
仕方ありませんが、現在、日本はおろか世界中がウイルスの脅威で経済活動がストップし、不安感が広がり続け、日本はおろか世界中が混沌としています。

その為、ギャラリートーク等イベントは取りやめになりましたが、最終日を明日に控え、なんとか最後の日まで閉館せずに予定通りの日程で無事に終えることができそうです。

お忙しい中、寒い中、遠路はるばる来ていただき、ご高覧頂いた方々には、このブログの場を借りて、心より感謝の意を申し上げ、武漢ウィルスの騒動が一日も早く終息しますよう祈念せずにはおれません。


※追記
3月15日 晴天。 会期中、日曜日には会場に行っていたのですが、すべて雪の日か雨の日で朝から青空の日はありませんでした。
最終日の15日は、朝から晴天、青空が広がっていました。さすがに9時半のオープン時には、入場者も少ないので、観峯館の広い敷地内を散策してみました。
今は木々の葉も無く芝も枯れて冬ごもり状態ですが、もうすぐ春の装いとなり木々には緑の葉、地には緑の芝がひろがると、さぞかし美しい景観になるのだろうと想像していました。
最終日には、会場内には途切れることもなく、たくさんの方々にご高覧いただけたようです。
年配のある方など、「ウィルスが怖くて、家に居ましたが、そんなこと言っていたら何もできないので、思い切って出てきました。」と笑いながら言っておられました。

武漢ウィルス、コロナウィルス、新型肺炎ウィルスなど、まだ得たいの知れない未知のウィルスの呼称さえ定まっていませんが、そのおかげで入場者数は、半減といっても良いかもしれません。少々がっかりですが、世界中が、このウィルスで不安定な生活を強いられています。
自分のことなど、うだうだと文句を言ってはおられません。

昨日、娘から、NIH(アメリカ国立衛生研究所)のNIAID (アレルギー・感染症研究所)で、 長年エイズウィルスのワクチン開発の研究をやっている旦那が、大統領の国家緊急事態宣言からか、なんと、「コロナウィルスのワクチンやる事になりました!」と連絡をして来ました。
旦那曰く、ワクチンができても、まずは動物実験、そこで効果が実証出来たとして、副作用、生産性、生産後にどれだけ保存可能な期間があるのかどうかなど、越えなければならないハードルは沢山あります。・・・ということで、時間がかかりそうですが、そんなこと、今時のAIでシュミレーションできないのかなぁ・・・・。
人類は耐えられるのか・・・。
とにもかくにも、そんな不安な状況下に、我が身を顧みずお越しいただいた皆様方には、この場をお借りして御礼を申し上げます。
ありがとうございました!! m(__)m

ユーチューブよりお気に入り | 16:21:00 | Trackback(0) | Comments(0)
仏絵師の心にある伝統美
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和の心のサイトより拝借しました


webサイト「和の心」の中国語の記事を、観峯館の職員の方が訳してくれましたので、その日本語訳をそのまま私の補足なしでご紹介します。


仏絵師である藤野正観氏は、仏画にたずさわって50年になる。近頃、藤野氏の出身地である滋賀県東近江市において、地元作家の功績を記念し、当地の博物館である観峰館が藤野正観画業50年展を開催した。筆者は、事前に氏の画集をネット購入したが、その中の「悲母観音図」に深い感銘を受け、氏の画境を理解したいと思った。そこで観覧の機会に氏を訪ね、氏も喜んで取材に応じてくれた。

 氏は幼い頃に、印象派やアカデミック美術などの西洋古典絵画に触れ、「《聖母とイエス》という作品の母親の眼差しを見て、その美しさに深い印象を受けたのです。」と、藤野氏は語り始めた。

藤野氏は高校卒業後、絵筆を使う仕事に就きたいと考え、ある縁から、京都の染織図案家に弟子入りした。そこで9年を費やして、日本古来より伝わる伝統的な色彩や文様、様式を身に付けた。これが後に仏画制作にたずさわる上での基礎となったのである。
 そして、あるとき偶然に狩野芳崖の絵を目にする機会があった。狩野芳崖は、幕末から明治の日本画家で、近代日本画の父と称される人物である。「彼の観音像が、私の幼い頃の記憶を呼び起こしてくれました。観音の慈悲がこんなにも美しく表現されている。私はこれを、自分が幼い頃に感じ取ったこの美しさを描きたいと思ったのです。」藤野氏は続けた。

 藤野氏は、自身の心の奥深くに潜んでいた、初めて見たあの慈母の眼差しの美しさを、自分の絵筆で表現したいという願望に気づき、作画の訓練を始めたのだと、その経緯を述べた。
 「どのようにあの慈悲を描き出すのか。確固たる技術が必要なのは言うまでもないが、心がどう‘慈悲’を理解し、どう美意識を認識するかがもっと重要なのです。どのような心理で描くかによって、出来ばえはまったく異なるのです。」と、氏は強調した。
 「先生は、どのようにして慈悲を感じ取っているのですか?読経ですか?座禅ですか?」筆者は問うた。

 「私は、何かに導かれて描いているのだと思うのです。仏画を描けることだけでありがたいと感じますし、いい作品を作ることが、そのことへの酬いなのです。わからないことや、技術的な未熟さなどは、ひとつひとつ乗り越えていかなければなりません。奮闘努力し、考え、悩み、眠れなくなることを繰り返す。修練はやはり修練なのです。どのように色を出すかなどの表現の問題は、課題をひとつひとつ乗り越えた経験の蓄積です。しかし、何かによって絵に導かれているという感覚は、常にあります。宗教じみているようですが、どう考えてみても、自分の技術や才能だけでは絶対に描き出せないのです。」と、氏は熱く語った。

 「描かれるときの心境は?」筆者は続けて質問した。
 「無我です。」氏は淡々と答えた。「仏画とは、仏を表現したものですから、‘我’とか‘私’とかは邪魔なのです。‘我’消し去って自分を出さないようにしなければならない。だから仏画には個人の署名や落款を入れないのです。絵の中に‘私’があってはならない。私はただ筆を動かし、心にはただ仏の優美な線や、自分が理解する慈悲などがあるだけなのです。それ以外のものは人の欲望であり、みな取り除かなければならない。」

 展示されている「悲母観音図」は、氏が狩野芳崖の原作を模写したものであり、表情や色彩は、伝統的な仏画様式を忠実に再現している。

 氏はいう。「仏画というものは、一般に先人の作を模倣したものです。この作品は狩野芳崖の傑作であり、彼自身のオリジナルです。私も70歳になろうとしています。訓練し、修行して今に至っていますが、先人や中国伝統絵画学んできたものから、生きているうちにオリジナルなものを生み出したいと思っていますし、それを楽しみにしています。」

 短いながらも奥深い取材は、和やかに終わった。筆者も、はやく藤野氏の独創作品を見たいものだ。


以上。




取材記事より | 09:18:51 | Trackback(0) | Comments(0)
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