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【映画】ロング・トレイル (老いたレッドフォードにびっくり)
P1000199.jpg
2009年10月シェナンドー米国立公園北入口にて


正月もすでに4日、1日から工房に来て雑用をこなしています。
今日も朝7時半から来て2月8日からの展覧会案内等の準備です。
少しは、正月らしいことをと、思っても今年の正月は、昨年6月に逝った母の喪中でもあり、習慣にならって神社へ初詣でというわけにいかず工房で仕事三昧です。
で、少しは正月をしようということで、アマゾンprimeビデオで、映画を観ました。
リストをチェックしていると、じじぃ二人がトレイルするという映画がありました。
「ロング・トレイル」2016年の米作品です。「再会の3500キロ、友と森を歩くロバート・レッドフォード&ニック・ノルティの、大人のための人生応援ムービー!」これがうたい文句です。
大人のための人生応援ムービー、これに魅かれました。

で、先ほど観終わったのですが、年老いたロバート・レッドフォードに違和感たっぷりでしたが、1936年生まれ。今年で84歳だそうで、私より14歳も年上です。撮影時は、80歳前でしょうか、「明日に向かって撃て!」の彼のイメージは全くないと言っても過言ではありません。老いるというのはこうなんだと、動画を一時停止にし、近くなった小便をしにトイレに立つと、思わず鏡をのぞき込み、自分の老いた姿をまじまじと見てしまいます。
でも、映画では時おり、昔のレッドフォードを偲ばせる清潔な笑顔に、なぜか安心してしまいます。

で、このロング・トレイルという映画、幼馴染の80前の男二人が、アパラチアン・トレイルと呼ばれる、全長約3500kmにもおよぶトレイルに挑戦するのを描いています。アメリカ合衆国東部をアパラチア山脈に沿って南北に縦貫する長距離自然歩道です。
著者は、レッドフォード演じるビル・ブライソン。実話です。著者の実体験の映画化だそうです。
人気作家のビル・ブライソンは、スランプだった作家活動をこの旅の経験談を書いて乗り越え復活します。

shenandoah.jpg
映画の一コマ(左が主人公のレッドフォード演ずるビル・ブライソン)

このアパラチアン・トレイルは、アメリカ東部のジョージア州からメイン州にかけての14州にまたがる約3,500kmの長距離自然歩道です。
二人はメイン州のカタディン山を目指します。
結局、途中で体力の限界を感じて踏破をあきらめるのですが、バージニア州のシェナンドー国立公園に入る時の映像の一コマで、私は思い出したのです。

もう、9年も前になりますか、娘家族の住むワシントン郊外のベセスダに行った時、皆で、ボルチモア経由で、海軍兵学校(The US Naval Academy=アメリカ海軍およびアメリカ海兵隊の士官学校)を見たくてアナポリスへドライブしたのです。
その時に通過したのが、写真の SHENANDOAH NATIONAL PARK ここでは私も少し運転しました。
これと同じ見覚えのある字体の看板が、映画に映ったので、思わず動画を一時停止してキャプチャー。
レッドフォードさんと同じように、9年前の私はまだ60歳。ちと、若い。 
さぁ、仕事にもどりましょう。
今年も健康で良い年でありますように!

映画 | 13:29:06 | Trackback(0) | Comments(0)
成道の日に想う
正観-成道図制作中
釈迦成道図を制作中の筆者(47歳頃)


昨日のお釈迦様のご成道された日4月8日(日)は、久々に長男夫婦が来てくれ、2歳4ヶ月の孫とは3か月ぶりに、半日だけですが自宅でゆっくり一緒に過ごすことができました。

一緒に近くの公園に行くと、夕暮れの広い公園を走り回ったり、鉄棒にぶら下がったり、小学生でも楽しめる大きな滑り台に何度も自力で上がり、キャッキャとはしゃぎながら滑り降りていました。
しばらく見ないうちに大きく成長している孫を見ていると、その時の流れの早さに、私自身の人生の残り時間が反比例していることに気づかされます。

お釈迦さまは、29歳でお生まれになった家を出て苦行をされますが、6年後、苦行では悟れないことにお気づきになり、35歳の時、ガヤの菩提樹下で瞑想し、「世は無常である」ことをお悟りになられます。

この世は、時と共に変化し続け、誰一人として、老、病、死 から免れ得ない。
つまり、誰の人生にも「生きるという苦」が基本にあるのですが、「苦」というものは決して自身の外側にあるのではなく、それは自身の心のあり方から生じるのだということなのです。
老、病、死、それ自体は『苦』でも『楽』でもなく、それを受けとめる自分自身の心が「苦」を生み出しているということです。

ということですので、70歳を前に、残りの人生をどう謳歌しようか・・・と、フル思考中の今の私なのです。


うだうだ | 09:43:39 | Trackback(0) | Comments(0)
10年ぶりに再会「伝教大師御影」一隅を照らす
伝教大師図2019-11


昨日届いた「中外日報」に懐かしいお軸の写真が載っていました。
私が10年ほど前に、総本山比叡山延暦寺の延暦寺会館の為に描かせていただいた「伝教大師御影」が掲げられたカラー写真です。

記事を読むと、「一隅を照らす運動」が50年を迎え、50周年記念式典が催されたようです。

 社会の一隅を照らす優れた人材育成を目的とした天台宗の「一隅を照らす運動」が50周年を迎え、記念式典が5日、大津市の総本山比叡山延暦寺の延暦寺会館で開かれたとあります。
同運動会長の大樹孝啓探題(圓教寺住職)は50周年記念行事が4日までに無事満願したことを祝い、「今後も若い力に期待したい」と述べられ、さらなる運動の発展を誓われたそうです。

既存の正面向きの図様がないので、その面相に苦労したのを覚えています。

来賓として挨拶されたサントリーホールディングスの鳥井信吾代表取締役副会長は「企業において重要な場所である『現場』は、一隅といえる。一隅に光を当てられなければ企業も国家も衰退する」とし、「伝教大師の教えは今も必要な精神」と強調されたそうです。

一隅を照らす・・・そんなお役目を仏画を通して果たすことが少しでもできれば、この仕事を生業にしている私としましては、誠に本望なのですが、今までお描きした約5000点の仏画は、たぶん、仏の後光が周囲を照らすように、慈悲の光で一隅も照らしてくれていることと思います。

「一隅を照らす」 は、 伝教大師最澄が残した有名な言葉です。
「国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚(財宝)、是れ国宝にあらず、一隅を照らす、此れ則ち国宝なりと」


新聞記事より | 12:57:24 | Trackback(0) | Comments(0)
竹島のことを考えてみました
竹島
竹島 (島根県)


日本では、韓国が島根県の竹島を占領しているということになっています。しかし、韓国ではこの「竹島」をもともと韓国領だったかのように、「独島」と呼び、今では、日本から奪回したかのように、死守しようとエスカレートしているようです。
なら、歴史的な事実はどうなっているのだろう・・・。自分の為にも、ちょっと調べてまとめてみました。

日本は、江戸時代以前から竹島を漁場として活用してきました。そのうえで日本政府は、明治38年(1905年)に国際社会に対して正式に島根県に編入しました。
その日、2月22日を今も島根県は「竹島の日」、として、国際社会に発信し続けています。

一方で韓国はどう言っているかというと、島根県への竹島編入が侵略戦争の始まりなので、この決定は無効だと言っています。
でも、そもそも、日韓併合は、その編入した5年後の1910年(明治43年)からです。ちなみに併合状態は終戦の1945年まで続きました。

そのことから日韓併合を侵略行為とするにしても、その時期が合いませんし、間違っても侵略行為ではありません。韓国は、とにもかくにも、この時すでに「自国を侵略された側、被害者側としたい」ということが先にある様子が、このことからも垣間見えます。

間違った情報を植え付けられた今の韓国民は、日本が韓国を植民地とするために侵略戦争を仕掛けたと誤解していますが、日本は、韓国と戦争をしたことはありません。西洋のいくつかの大国がしたような武力による植民地化はしていません。

むしろ、仲良く一緒にその併合(合邦)時代を生き抜こうとしていた事が事実です。参考:http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi02.htm

その時の大韓帝国政府が大日本帝国政府に一緒になろうと願い出て、お互いがそれなりの覚悟をし、それを受け入れたのですから、その国の国民ならその決定を真摯に受け入れなければなりません。

もう一度書きますが、併合、当時は合邦と呼んでいましたが、それは、西洋諸国がアジア諸国に仕掛けたいわゆる「植民地侵略戦争」によって成り立ったのではありません。
当時の大韓帝国の代表閣下と、日本の代表が、きちんと「日韓併合条約」を結んで、日韓併合時代が訪れたのです。

それは、ソ連の侵攻の脅威から韓国を守るために、日露戦争で勝利した頼りになる日本と一緒になった方(合邦)が得策だと判断して願い出たのは大韓帝国なのです。
もちろん、両国に反対した人たちも居たでしょうけど、国と国とが併合条約を結んだのです。

なのに、朝鮮戦争後の全ての韓国政府は、「併合時代において、日本は韓国人に対して、むごい統治をした。」と教え伝えています。

しかし、事実は全く逆で、大規模なインフラ工事は元より、今のソウルに東京帝国大学や京都帝国大学と同等の京城帝国大学(現ソウル大学)を作りました。
大阪帝国大学より先にです。
それは、大英帝国がインドを武力で植民地にしていた時には、インドにケンブリッジやオックスフォード大学のようなりっぱな大学を作りませんでした。かのガンジーさんもイギリスに留学をせざるを得ませんでしたし、帰国後にイギリスから酷い仕打ちを受けている祖国の事を考えて独立運動に入って行ったということがあります。

当時の大韓帝国の人々の識字率がとっても低くて、そのことを当時の日本帝国がむしろ憂いて、小学校においては当時の5校から4271校まで増やし、漢字より簡単なハングル文字の普及に力を注ぎ、高度な教育による朝鮮民族のエリート育成や、庶民がハングルを使えるような『新しい韓国』の下地を作りました。これ等の教育はもとよりインフラにも多大な労力とお金をかけて整備しました。これ等はすべて日韓併合の時代なのです。

的確な視点と情勢分析による鋭い提言をされる青山繁晴参議院議員曰く、「この歴史的事実は、日本の立場を良くしようと言っているので はありません、これをアメリカとかイギリスとかフランスでお話しても、この歴史的事実に反論できる歴史学者はありません。」
また、「実は、ソウルでこのことをしゃべると、ワーとなって大騒ぎになるのですが、歴史学者や現役韓国軍将校等に落ち着いて話をし、きちんと歴史を調べてもらうと納得してもらえるのですが、この話は「内緒で」ということになります。」と、いうことです。

1945年8月15日、第二次世界大戦で日本が敗れ、台湾や朝鮮半島は日本から切り離されました。これは、その通りで、歴史上の事実です。
しかし、その年の8月9日、終戦の直前に日ソ中立条約を無視し参戦してきたソ連(今のロシア)が南樺太・千島列島および満州国・朝鮮半島北部等へ侵攻したのですが、そのために、アメリカはソ連に分割占領を提案し、朝鮮半島は、アメリカ陸軍のラスクさんたちに、わずか30分で策定された38度線で北と南に分断されて決着。ソ連はたいして戦うこともなく戦勝国となりますが、日本が統治していた朝鮮半島は、北朝鮮と大韓民国という二つの国になりました。
日本降伏による日本統治からの突然の「解放」は、あくまで連合国軍により「与えられた解放」といえます。

日本の降伏、敗戦から5年が経過する頃、「朝鮮戦争」が勃発します。
この朝鮮戦争を境にして韓国の日本に対する態度ががらりと変わるのです。

韓国は、事実上の国境の38度線を越えて韓国に侵入してきた北朝鮮軍をアメリカに頼んで一緒に戦い、三か月後には北朝鮮軍を38度線まで押し戻します。
しかし、戦いの終わったその後も、韓国軍は当時の李承晩の命令で38度線を越えて北に侵攻しますが、当初から「韓国側が38度線を越えたら参戦する」と宣言していた北側についた直接介入を避けるソ連の代わりの中国軍が参戦し、結局、アメリカ、中国を巻き込んで、休戦までに三年もかかります。
その三年間の被害はアメリカ軍が5万、中国軍が100万の死傷者を出すはめになります。
当時のアメリカ軍人の手記に「気が付いたら韓国軍が居なくなり、我々だけで戦っていた」と言っているそうです。
笑い話ではありません。

結局、この朝鮮戦争休戦も、アメリカ、中国、北朝鮮が休戦条約を交わしだけで、かんじんの韓国の李承晩は調印しなかったのですが・・・。
このように、元寇(高麗がそそのかした元の日本進攻)や日清戦争(清の属国として成り立っていた李氏朝鮮の内紛解決に清に助けを求めた為、日本が清と戦うことになり勝利する。→李氏朝鮮は、清の属国から解放され、大韓帝国が生まれる。)等、東アジアの紛争や戦争の源がすべて朝鮮半島にあるのはなぜでしょう・・・。
韓国は、自分たちだけでは一度も戦争をしていません。必ず大国を巻き込む形にしています。

朝鮮戦争当時のアメリカはと言いますと、敗戦後、日本軍が無くなった日本の治安を維持するための駐日アメリカ軍が朝鮮半島に駆り出されてお留守状態ですから、日本の治安維持から鑑みても、このまま日本国を敗戦国として、がんじがらめにして腑抜け状態(被占領国)にしておくのは得策ではないと判断し、1951年サンフランシスコ講和会議を開き、もう日本を独立国と認めて、アメリカ寄りの日本軍(自衛隊)を作って、元々優秀な日本人の戦力や真面目な人間性を利用しようとします。
それが効してやがては、アメリカと日本は信頼関係で結ばれるのですが、アジアでアメリカの力を不動のものにします。

その時、李承晩率いる韓国政府は、アメリカと韓国は戦友になった。同盟国なのだから。と、かつてのソ連のしたことに影響を受けたのか、その勢いで、サンフランシスコ講和条約自体に反対し、「日本に独立を回復させるな!被占領国のままにしておけ!」と進言します。
しかし、これを言い続けてもアメリカに相手にされませんでした。
また、アメリカに、『第2次世界大戦の連合国の一員だったことにしてくれ!そうすれば、日本の領土の一部を自分の国にすることができるはずだ。』と、まるで李氏朝鮮時代の韓国ドラマの1シーンのような、そんなずるいことまで進言します。

それに対して、アメリカ国務省の幹部だったダレスさんという方が、韓国の大使に言った言葉が公文書で残っているのですが、「韓国は連合国ではありませし、その大戦当時、大韓民国は存在していませんでした。従って戦勝国側ではありません!」と韓国の大使にはっきり通告しています。
また、当時のアメリカ国務次官補ディーン・ラスクさん、そのラスクさんが韓国に出した公式な書簡ですが、その「ラスク書簡」がアメリカ・ワシントンDCの公文書館に現物が保存されています。
その書簡の中に、「そもそも竹島は日本領」と明記されていて、その背景にある問題点として韓国政府に対して、「韓国は戦勝国では無い」とはっきり書かれています。

しかし、当時の韓国政府は、これでも納得せず、ずっとアメリカに要求し続け、「竹島と波浪島が韓国領として認めてくれ」と言い続けますが、アメリカが調べますと、この波浪島が実在していないし、未だに見つかっていない。
このことから韓国のそれまでの日本海に対しての無関心さや無知さがわかります。つまり、それまで竹島を韓国領土として認識していなかったことが容易に推測できます。
後にアメリカ政府は、ラスク書簡にて竹島と共に波浪島に対するこの韓国政府の要望を却下していますし、当時のジョージ・アチソン国務長官も、韓国に実在しない島を認めろとはどういうことか?と書簡で聞いているそうです。
また、最近の情報では、オーストラリアで、見つかった当時の書簡に、竹島は日本の領土であると記載されていたこともあり、アメリカだけでなく、連合国内でこの部分の情報を共有し、了解済みであったことがうかがわれます。

で、その当時、当時の韓国の大統領、李承晩さんが、そのうえでどうしたかといいますと、日本海に領土領海のライン(李承晩ライン)を勝手に引いたのです。

この線は、実はマッカーサーラインと言って、領土や領海を決めたものではなくて、戦後とりあえず日本が治権を回復するまでの間、日本の漁民の生活権を守るために「おむねこんなところでよいのかな」という感じでGHQが引いた線でしたが、その線を「李承晩ライン」としてそのまま引いたのです。
このマッカーサーラインは、講和条約発効とともに廃止になったのですが・・・。李承晩が勝手に引いたその線が、韓国の領土だと韓国民は間違った認識をしていました。今でもそうなのかな・・・。

これ以上、日本と韓国の間で争っていても仕方がない。
前向きに考え、お互いの両国が、これで全部無かったことにしようと、1965年に14年の歳月をかけて作った日韓請求権並びに経済協力協定(日韓基本条約)を結びます。
日本が朝鮮半島に残したインフラ・資産・権利を放棄し、総額8億ドル(無償3億ドル、政府借款2億ドル、民間借款3億ドル)の援助資金と引き換えに、韓国側も国交正常化を望み一切の請求権を放棄し、その時、当然ながら「理不尽な李承晩ライン」があったとしても完全に無くなります。・・・そのはずでした。

にもかかわらず、日韓基本条約を無視し続け、韓国はそのまま、竹島を領土だと言い続けていますし、今では建造物などを設置し軍事訓練もしています。
過去には約4000人の日本人を不法に抑留し、そのうち8人を死亡させています。

こんなことがあっても、GHQに作って貰った平和憲法を宝物のように維持してきた歴代日本政府は韓国政府に対し「遺憾です」と言い続けるしか手は無く、韓国に対して大した責任追及ができていないのです・・・。
これで、主権国家と言えるのかな・・・。
サンフランシスコ講和条約では、主権を回復してもらっているんですがね。

一昨日でしたか、例の北方領土問題で、酒の席で「戦争」という発言をした若い国会議員さんが、竹島問題も「戦争」でしか取り戻せないのではと発言したそうですが、「本当に、そうだよね・・・。」と、ほとんどの日本国民は、韓国政府のやり方にあきれ返り溜息をつくしかありません。
日本政府も「遺憾だ、遺憾だ」と言い続けるしかないのかなぁ・・・。

そうそう・・・良いことを思いつきました。
島根県は、韓国に竹島を借地物件として、過去に遡って賃貸料を請求したらどうでしょう。(^o^)



知っておこう! | 08:45:27 | Trackback(0) | Comments(0)
「新・美の巨人たち」にちょっとだけ出演しましたが・・・
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テロップの文字が間違って表示された「新・美の巨人たち」


テレビ東京系列で放送中の「新・美の巨人たち」 仁和寺 観音堂壁画 に出演し、17日に放送がありました。その後、BS等でも何度か放送されたようで、今のところ知人2名より「観たよ!」という連絡がありました。

7月10日、東京から番組制作会社のディレクターとカメラ、音声の3名が来訪し3時間ほど、涅槃図を制作中の工房で撮りました。今日、そのディレクターからお礼の手紙と番組を収録したDVDが送られてきました。

ディレクターの番組制作に対する想いは観音堂の壁画を描いた木村徳応という今まで、誰も研究したことのない名もなき絵仏師にスポットを当てたいのだと言われます。
「名もなき絵師」というフレーズは、私が、私自身の事を説明する時によく使いましたから、お聞きした瞬間に木村徳応という絵師に親しみが湧き、私に何を求めているのか良く分からないまま出演を引き受けました。

ディレクターは、私に観音図のお顔を再現描画させ、その掛かった時間を観音堂に描かれた仏たちの数をかけると、観音堂の壁画を完成させた時間が、おおよそ分かるのでは・・・と考えたようで、私に観音図の胸から上を描くところを撮りたいので、完成図を撮影日までに用意しておいてくれと宿題を与えました。
また、岩の描き方でどうも描き忘れのような部分があるので、それも完成していればこうなるということで、撮影当日に描いて欲しいということでした。

また、今回の大きなテーマとして、壁画は徳応一人が描いたのではなく、何人かが描いたのでは?ということでしたが、職人絵師の私からすれば、当然、弟子たちと数人で描いたに違いないと思っているわけですから、今更何を疑ってるのか?という程度のことでしたし、壁画の描き方にしても、観音堂が完成してから足場を組み立てて描いたと、同番組に出演されていた、仁和寺の学芸員さんも慶応大の林温先生も、そして、文化財の修復を手掛ける(有)川面美術研究所の所長さんもそう言ってるということでした。

ところが、私はと言いますと、壁画の現状を見るにおいて、板を嵌める前に描かれたことに疑いを持ちませんでした。
私の推測は、現場近くに設けた仮設の画室に、壁となる板を計算(設計図)通り順番にきちんと並べ、全体に白土を塗って数人の絵師が描画したと思われます。
それは、それぞれの壁板による絵の ずれ でわかります。彩色の完成後に板を嵌めた時すでに微妙に合わなかったのだと思われます、それを裏付けるのは、その後の雨の吹き込みによる内側への雨の滲の垂れ跡。その垂れ跡は板を嵌めた後の垂れ跡ですから、当然、ズレがありません。
それと、堂内が暗かったので私もはっきりと確認できたわけではありませんが、盛り上げ胡粉は垂直の板での作業は無理だと思います。盛り上げ胡粉が乾くまで時間がかかりますし垂直の面では、流れ落ちてくるはずですから。
それらの物理的な状況でも分かるはずですが、何といっても、上部は足場で描けなくもないのですが、床近くの最下部に細密な図が描いてあるのですが、それが描き手として無理なのです。床が邪魔をして描けないのです。このことからも壁画は、板が嵌められる前に描かれていたと判断するわけです。

で、撮影日には、こんな内容のことを熱をもってお話ししていたのですが、結局、今、DVDを観ると、私の出番の内容と言いますと、当初の意図とは違い、観光案内的な内容になっており、内容の流れからして、専門的であまり必要ではない部分、手を抜いたのか、描き忘れかわかりませんが、その線だけで描かれた「垂直にそびえたつ岩山の表現」を実演した部分と、徳応さん一人が描いたのではないかもしれない。というコメント部分を採用していました。
ディレクターの当初の目的、多少専門的だったのか、彼の言う一番興味深い部分、主題が無くなっていました・・・。
たぶん、若いディレクターの想いは、作家やプロデューサーに無視されたのでしょう。

私のセリフで、『京都中から(絵師を)集めたとすると、それぞれの班を作ってその対象に責任を持たせたと思う。人物を描く人は人物、雲は雲担当が、木は木担当。みたいなことがあったのかもしれませんね。』
残念ながらテロップが間違っていました。「対象」は、「大将」という意味で言ったのです。大将、すなわちそのグループのリーダー責任者の事です。こんなところで、関西弁が災いとなりました。(笑)


TV出演 | 14:52:33 | Trackback(0) | Comments(0)
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