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鉛筆
鉛筆
画学生時代から使っていたのであろう修業中の弟子の私物。大量の濃度の鉛筆


朝、工房に来ると、弟子の私有物である大量の濃度の鉛筆が目に入りました。
その鉛筆で昔を思い出しました。
染織図案家の卵として、18歳から27歳までの内弟子修行中のことですが、その頃も、下図を制作する時には、木炭や鉛筆を使っていました。
何度も、何度も描き直して、先生にチェックを入れて貰うのですが、その時に使う鉛筆は、数週間で尽きて無くなります。
その頃には鉛筆ホルダー(補助軸)という真鍮でできた便利なものがあり、短くなった鉛筆を固定して最後の最後まど使い切るわけです。木の部分が5mmぐらいになるまで使っっていました。
そのちびりにちびった鉛筆の残骸を大量に貯めていたことを思い出したのです。
修業時代の思い出にと、とっておいたのですが、今ではどこにいったのかわかりません。

そういえば、今の私は、ほとんど鉛筆を使わなくなっています。
その代わりに、PCのペンタブレットで描くことが増え、そのデジタル画像をプリントアウトし、毛筆で清書するのです。
鉛筆画の魅力を忘れてしまいそうですが、やはり、あの頃の右手の小指の側面が真っ黒に汚れた感触は、忘れられません。

https://www.yodobashi.com/product/100000001003801585/ に同じもの(デビカ DEBIKA43303 [真鍮製 補助軸])が販売されていました。
今も現役であるんですね。 20年ほど昔、この便利グッズ、いづれ無くなるだろうと思い、大量に買っておいたホルダーなんですが、写真をよく見ると弟子も使っていました・・・。




うだうだ | 08:53:49 | Trackback(0) | Comments(0)
2月15日は、お釈迦様が入滅した日『涅槃会』
涅槃図
江戸様式の涅槃図(仏画工房 楽詩舎制作)


長い間、このブログを更新していません。
かつては、更新作業をしないと、コマーシャルが、罰のように表示され、それを回避するために、何か書かなくては、と、頭の冴えている朝、一人で工房に来て、書いていたのですが、最近は放っておいても、そのコマーシャルが表示されなくなったので、ほったらかし状態となっていました。

今、前の記事の日付を見ると、昨年の8月5日から何も書かなったことになります。
コロナ禍において、いろいろ思うことはあるのですが、さて、何か書こうとなると、年のせいか、二の足を踏んでしまうのです。
何をするにも面倒くささが、先に立ち、結局、後回し状態が続いています。 億劫なのです。面倒くさいのです。

さて、久々に何か書こうかなと、春を感じさせる陽気の日曜日の朝。 工房の裏の庭で汚れていた車も洗いました。

けっこう、書く気になっています。

と、キーボードを叩き出したら、電話のベル。 

私の唯一所属する「仏教クラブ」の運営委員のメンバーからでした。明後日の運営委員会にはコロナ自粛で欠席と返事をしたのですが、この会、いろいろ課題を抱えており、本来なら出席をして発言しないといけないところでしたが、そのこともあり、ついつい、2時間も長電話になってしまいました。

で、気を取り直して・・・、

明日、2月15日は涅槃会(ねはんえ)といって、涅槃図で有名な、お釈迦様が入滅された日で、その涅槃を祝う日でもあります。
悟りを開いたお釈迦様でも、生きていると、「生きる」というだけで、食欲や、睡眠欲など、生きていくうえでやむを得ない煩惱が残っています。 そんな煩惱からも解放された日ということになります。
ローソクの火を吹き消した時のように、『スーッと煩惱が消える』。

仏教徒なら誰でも目指すべき涅槃の境智。

そういう意味で考えますと、『死』とは、あらゆる煩惱から解き放たれる、ものすごく気持ちの良いスカ~ッとした瞬間なのかもしれませんね。

ちなみに、上の「涅槃図は、昨年の、今の次期(2月8日から3月15日)に、生まれ故郷の東近江市の観峯館で開催された藤野正観の仕事展に出品する為に描いた「江戸様式の涅槃図」の部分写真です。

この図の全容は、「よみがえる祈りの絵画」に、精細に掲載されています。
お買い求めやすい11000円で設定しています。 
仏画工房 楽詩舎出版部の初めての出版です。
自費出版と同じことですが、ちっとも宣伝しないせいか、なかなか在庫が減りません・・・。(^o^)
2冊目の編集が、ほぼできているのですが、在庫が減らないと、保管しておく場所がありません・・・。

買ってやろうという奇特な方は、ぜひとも、amazonでお買い求めください。




仏画 | 15:59:45 | Trackback(0) | Comments(0)
ウンギョ 青い蜜
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映画「ウンギョ 青い蜜」より ウンギョが老詩人の豪邸の庭に入り込んで無防備に眠っているシーン


amazonプライムビデオで、楽しみにしていた米アカデミー賞で、英語以外の映画として初の作品賞を受賞した話題作、韓国映画「パラサイト半地下の家族」を500円レンタルで観ました。
内容は、半地下室で生きる家族を描いているのですが、最後まで楽しく観終わることができれば、私にとっては満点だったのですが、最後が今一つ血生臭くて嫌な後味でした。
この映画、とりあえずは、一応、満足して観終わることができたのですが、今日はこの映画のことを書くわけではありません。

で、この映画を、一人で工房に居る日曜日一日かかって、少し観ては、時間を空けてまた観るといった描画作業の合間に観ることになるのですが、プライムビデオで視聴途中のリストにこの映画のタイトルが出てこない為に、その都度検索していると、どうも、この半地下に住む家族の一人、最後には刺されて死んでしまう妹役の女優さんが出演している映画なのでしょうか、今日、これから書こうと思っている「ウンギョ ・青い蜜」というタイトルの映画もリストに上がっていました。

この映画の紹介文に「文壇から尊敬されている70歳の詩人と彼の天才的な才能に嫉妬した30歳代の弟子の間に、初々しい若さと不思議な色気を持つ17歳の女子高生が現れる~。」とあり、この主人公が70歳ということで、この年齢にあと2か月という私は、この紹介分が気になり、夜、自宅に戻り、いつものように就寝前に、この会員用の無料映画「ウンギョ ・青い蜜」を何日かかけて観ようと観始めました。
観始めますと、老詩人という立場が少し今の私の立場や心境に嵌まっていて、ついつい眠るの忘れて2時間余りを観てしまいました。
夢の中では、この物語の主人公は私でした。そうです、私は単純なのです。
余談ですが、若い頃、映画館でブルースリーの映画を観終わり、「アチョー!!」と叫びカンフーの真似をしながら帰ったのを思い出します(-_-;)

今、このブログを書くためにこの映画を調べていますと、この女優さんは別人なのだそうで、パラサイトはパクソダムさん、ウンギョは、キムゴウンさんだそうです。
https://www.youtube.com/watch?v=VdyOccL7Xeo のコメントにありました。
このリンクのページに、あらすじ動画がありますので、読者は大まかに内容を知ることができます。


身体の成長に心が追い付いていない女子高生 ハン・ウンギョが、一人で住む老いた国民的老詩人といっても70歳の設定なのですが、先に書いたように私とほぼ同じ年ということになります。
その老詩人の役の俳優は35歳だそうですが、やはり、メイクだけで70歳を演じるのには無理があります。
監督はこの特殊メイクに自信があったのでしょうか・・・。

その近所に住む17歳の女子高生ウンギョは、その高名な詩人の豪邸の庭に無断で入り込み、玄関前の揺り椅子で無防備に眠って居ます。
そんなところへ、老詩人と身の回りの世話を買って出ている30歳代の弟子の男性が帰ってきます。
彼女は、すぐさま無断で入りこんだことを謝り、林に面した広大な敷地から出て行きますが、老詩人には、初々しい女子高生の眠っていたあの無防備で若々しい白い肌が目に焼き付きます。

しばらくして、身の回りの世話するその弟子が、原稿を頼まれ創作に集中したいと師に願い出ます。
弟子は、高校近くで、偶然あの彼女を見つけ、家事のアルバイトがしたいと言っていたと、師に告げます。
老詩人は彼女をアルバイトのハウスメイドとして週に何日かを向かい入れます。

こうして、アルバイトの女子高生ウンギョは、老詩人を「おじいさん」と呼び、身の回りの世話を親身になってすることになります。
彼女は次第に、教科書にも作品が載る国民的老詩人の物の見方、感じ方や知識や言動に尊敬と親しみを感じるようになっていきます。
その一方で、老詩人も彼女のくったくのない性格とテキパキと仕事をするふるまいを通して、彼女の若くて瑞々しい細胞に眩しさを覚えます。

身近に居る彼女の存在は、老詩人の肉体の老いを忘れさせ、魂の若返りを感じさせてくれるのです。
いつしか、老詩人は、彼女との性的な妄想を抱くようになります。

肉体は老いても、魂は老いていないのです。そうなのです。
女性の場合はわかりませんが、70歳を前にした絵を描くことを生業とする男性の私には老詩人の美しい妄想やその心境に共感できるのです。

肉体は老化していても、本体の“魂”は老いてはいない。
老化と魂の成長は反比例し、肉体の消滅と共に魂が昇華する。死とはこういうことではないのかと・・・。

公開当初は、日本語のタイトルもどうなのかなぁ・・・と首をかしげるのですが、この映画、R15指定だったそうです。その必要があるかどうかは、観る人の感性次第だと思うのです。
妄想シーンの描写が結構過激だったりするのですが、その過激な妄想を小説に書くことで、その老詩人は気持ちを整えます。
詩人の私小説です。

この老詩人に、あこがれ、心から尊敬している30歳半ばの工学部出身の弟子、師ほど才能が無いのですが、それを哀れんだ老詩人は、弟子のためなのか、自身のお遊びなのか、初めて大衆小説を書きます。
その小説がベストセラーになるのです。でも、師は黙ってそれを「良かった」と受け入れてやるのです。師とはそういうものです。

この弟子、師が日々書き綴り大切に隠していた私小説「ウンギョ」を、師の書斎を整理している時に偶然見つけ、その美しい文体に感動し、勝手に自分の名前でその原稿を応募します。味を覚えた才能のない弟子の甘えです。
「名のある師がこんな破廉恥な内容の私小説を世に出せるはずがない・・・でも、文体があまりに美しい・・・。世に出さなくてはと、この弟子は思ったのです。この時には、彼に私利私欲はなかったのかもしれません。

この短編小説が賞をとり、弟子の最高傑作として話題となり、これもベストセラーになります。
国民的老詩人の渾心の作品です。当たり前です。
自分の名前で掲載されたことが、後にどういうことになるのか分かっていたとは思うのですが、この弟子も、この小説によって文壇に才能を認められるのです。
この辺から映画を観る人は、この弟子の尊敬する師を思い慕うという立場にありながら、人としての大切な温かい感性がないことに気付くのですが・・・。

実は、私の元にも、私の立場(技術や知識、コネクション等)を利用する目的で来る人が何人か居ました。もしかしたら、その類が多かったかもしれません。

自分だけの大切なメモリー、発表する気など、もうとうない短編私小説です。自分の妄想、恥部、心の襞までせきららに書き写しています。

編集者からこの事実を聞き、書店に駆けつけその賞を取った小説を確認します。常に寛大で穏やかだった老詩人は激怒し、弟子を破門します。
この怒りは、老詩人にとっては大切な心の抒情詩。心のあるがままに書き綴った文章を、自分の下で詩を勉強する弟子が、この私小説の内容を“事実”として受け取っていること…なぜ、分からないのか・・・苛立ち。そして、おまけに、師の作品を私利私欲で利用しようとしていること。

そんな弟子を受け入れていた自分に対しても腹立たしいのです。(※映画は老詩人の怒りをここまで描こうとしていたのかどうか分かりませんが、よく似た経験のある私の感じ方で書いています。

この青年の才能以前の人間性に見切りをつけたのだと思います。

それでも、破門したとはいえ、前途ある弟子の為に公の場に出ることを嫌う老詩人は、なぜか弟子だった青年の授賞式に出席します。
その場で急遽挨拶を求められ、このことを公の場で言いたかったのか、こんな挨拶をします。

「私は老いました。“老いるということは今まで着たことのない鉛の服を着ることだ”と、ある詩人は言いました。“君たちの若さ”は、“君たちの努力で得た賞”ではない。“私の老い”も“私の過ちに対する罪ではない”
この小説「ウンギョ」は、乾いた大地に降る恵みの雨のような小説でした。これほど美しく真摯で満ち足りた小説は(今後)書けないでしょう。」
っと、まるで、自分が書いたかの内容でしたが、会場の聴衆は、弟子の作品に対する師の“評”と捉えたのでしょう。

それほど、アルバイト女子学生との二人だけの他愛もないひと時は、老詩人にとって美しい時間だったのかもしれません。

人間には いろいろな種類があります。根本的な価値観とか、感性の違う人があります。
ちょっとした何かで勘違いや錯覚はあっても同じ人間どうしです。
でも、どこまでもどこまでも、お互いに理解し合えない遠い遠い存在でしかない人も居ます。

不思議なことですが、この老詩人は、女子学生の感性に無条件で心惹かれ、女子学生も老詩人の感性にただただ惹かれたのです。

そういう意味で、老詩人と女子学生は、年齢の離れた異性という関係ではなく“魂”のランクで触れ合ったと言えるのかもしれません。

こういった状況は、世にたまにあるようですが、私たちのコミニュティでは、こういった事態をなかなか受け入れることはできません。

ほとんどの人が、この才能無しの青年の感性なのだろうと思います。

近い将来、本体(魂)が機械の中に入り、自由にその命をコントロールできるようになると、老いも若いも関係なくなるのかもしれませんが、このお話、最後には何やら悲惨なことになります。

女子高生ウンギョが、才能の無い弟子が書いたとするベストセラー小説を読み、そのタイトルが自分の名前「ウンギョ」であることから、その青年の心の中の自分が美しく描かれていることに、若く純真なウンギョの心が動きます。

老詩人の誕生日の夜、ウンギョは、老詩人を訪ね、お祝いの品と花を持参します。庭で二人で食事をしていると、高級車で乗り付けたかつての弟子が、師であった老詩人の誕生日を祝う為に訪ねてきます。
破門されているわけですから、追い返せばよいのですが、師は、「まぁ、ここに座って一緒に食事をしよう」と、今やベストセラー作家の仲間入りをした青年とウンギョと3人で誕生日を祝います。

夜も遅くなって、飲みつかれた老詩人は、部屋の戻り床に着きます。
映画は、床に着いた老詩人の眠るベッドから帰宅をしようと、うす暗い玄関に向かうウンギョにカメラを振ります。
でも、帰ろうと思った彼女は、出るのを思いとどまり、青年の居る二階の奥の部屋に引き返します。

青年は、師の書いた妄想小説から、ウンギョの性的な魅力を感じています。ウンギョはといいますと、その妄想の物語は青年の心の中にあり、自分を美しく見てくれているという確信があります。

若者にありがちな、お互いが“寂しい”という若い二人は、膨大な書籍が積まれた、老詩人の書斎で、体を求め合います。
映画は、そこまでやるか!?というほどR15指定の原因となった過激なシーンを描写するのですが、純真なはずのウンギョの乱れぶりが気になり、この演出にはちょっと残念な気がします。
韓国の今どきの女子高生は、だいたいこんなものなのかぁ・・・とか、韓国映画のヒットする原因を感じます。

こんな、過激なシーンに、ただならぬ気配を感じたのか老詩人は眠りから覚め、わざわざ真夜中の庭に出て、梯子ををかけて二階の窓からその過激なシーンを覗き見ます。

自分が主人公のはずの、大切にしていた美しい妄想が、この生々しい現実の前でガラガラと崩れていきます・・・。

老詩人は、ウンギョが、こそこそと夜の庭を抜けて帰っていくのを見届けると、彼の乗ってきた高級車をパンクさせ、使えないようにし、彼が師の車のキーの在りかを知っているので乗って帰るであろう自分の愛車に細工をして、事故が起こるようにします。この時には、もう、老詩人は、ただの鬼畜です。

運転中に車の異常を感じた青年は修理工場に立ち寄り、この車の異常は意図的な細工によるものだと指摘され気づきます。

師が、意図的に自分を殺そうと思っていると知った青年は、興奮して運転をあやまり、崖から落ち、死にます。このシーンも血だらけで死ぬ青年を映し出します。パラサイトもそうでしたが韓国映画の常なのでしょうか…私は数を観ていないのでわかりませんが・・・。

てっきり、自分が殺したと思い込んだ老詩人は、ウンギョに電話をし、「私が殺した・・・。」と告げます。ウンギョの大切な人を殺してしまったという懺悔だったのでしょうか・・・。

時が、少し過ぎたのでしょうか、映画は、学校生活を送るウンギョが、何を思って気づいたのか、図書館に出向き、ほんとうは、老詩人が書いたあの「ウンギョ」を読み直しています。そして、「ウンギョ」は、老詩人の作品だったと確信します。

彼女は、カスミソウの花束を持って、老詩人の家を訪ねます。暗い家の中は、食べた後と思われる蓋の開いたままの缶詰等が散らかったままの食卓、その下にはたくさんの空の酒ビンが転がっています。

暗い部屋の奥の壁際には、薄い布団にくるまった老詩人が死んだように横たわっています。いや、私は死んでいるのかと思ったのですが、壁の方を向き、人の気配を感じていたのです。彼女が老詩人の横たわる傍らに座り、そして、いつかの雨の日のように添い寝し、酒臭い老詩人の背中に静かに話しかけます。

私が、雨の日、ずぶ濡れになって、お母さんにぶたれ、家を出てきた時、おじいさんのところに来た時を覚えてる? あの時の空気、湿気、温もり、言葉で説明しても感じることはできない・・・。
おじいさんが(弟子に)話したとしても、他の人が(あの小説を)代わりに書くことはできない・・・。(ましてや)工学部生に・・・。
人の心の温かみが分からない彼に書けるはずがない・・・あれは、おじいさんのものよね。「ウンギョ」はおじいさんが書いたのよね。」と、泣きながら語り掛けます。

「ありがとう・・・可愛く書いてくれて・・・私ね、(私が)あんなに可愛い子だと思わなかった。全然知らなかったの・・・何もわかっていなかった。何も知らずにただ、うれしく思ってた・・・。バカみたい・・・。 」
「 ・・・さようなら・・・。」と、言ってゆっくり身を起こし、持ってきたカスミソウの束を老詩人の傍らにそっと置いて涙を浮かべながら静かに出ていきます。

彼女が去った後、ずっと脊を向けて話を聞いていた老詩人の閉じた目から一筋の涙がこぼれます。

「元気でな・・・ウンギョ。」と、小さく口元が動きます。




映画 | 11:15:06 | Trackback(0) | Comments(0)
安楽死
1涅槃図
仏画工房 楽詩舎 制作:応徳仏涅槃図(部分)アレンジ


70歳を直前にして、安楽死のことを時々考えます。
今回も、医師二人がSNSを通じて知り合った京都の51歳のALSの女性に依頼され薬物投与で、ご本人が希望の安楽死を実行した事件があったようです。
こういった事例、事件があるたびに、安楽死、自死の・・・権利という言葉はあまり好きではありませんが、自分の命、自分の人生という観点から、自分のこととしていろいろ考えさせられます。

不治の病気になれば、生きる希望、気力が無くなり、「身内や他人に面倒をかけたくない。」と、思うことは人である以上誰にでもあります。
誰でもそういった心境になり得ます。
それは、どんなに福祉が整えられても、たとえ、ロボットが介護してくれても、生きる意味を失った人にとっては、ただ生きること自体に執着することは無くなると思います。
老いて、その先の人生に希望が持てない、生きる気力が無くなる。こんな時が、私の目の前にも迫っています。

司法も、安楽死を絶対に認めないといった厳格な立場ではなく、肉体的苦痛の緩和・除去のための安楽死を認めなければならないとする社会的背景もあって、以前のそれに対する考えも大きく変化しています。

釈迦の説いた僧団における「律」には、自死は罪であるとはどこにも書いていないのだそうです。
つまり、仏教では、自死、自殺を罪とか悪とは説いていないのです。
それは、生きている人も、自死した人も皆平等に捉えることこそが、「仏教の平等の精神であり考え方」だと思えるのです。

この今回の事件も、51歳の女性の不治の病から生じる「苦痛」から逃れる為に、信頼できる理解ある人に嘱託(お願い)して自死したという意味合いに過ぎませんから、仏教的に考えますとやはり、今回の件も、生まれてきた以上、誰でもが逃れることができない「死のパターン」の一つであることに気付かなくてはなりません。

生きている人は、遅かれ早かれ、これから迎える「死」に対して、できるだけ苦痛や不安を取り除いた状態で逝きたいと願います。

そこで、この機会に最後まで快適な生活を続けてるには、何が必要か、考えてみようと思います。

苦痛と言っても、それなりに人生を70年も経験すると精神的には悟りに近い心境にはなっています。多分・・・。
でも、やはり、老いによる肉体の劣化と、どう付き合うかです。
今は、その劣化を自然にそのまま受け入れることができない社会構造になっています。
現実は、人生の最終場面では病院でお世話になることになるのです。
怖くて、気持ちの悪い、嫌な検査を何度も受けながら劣化した肉体を持続さそうとすることは、明るい先のある人への治療なら良いのですが、治ったところで、あと数年・・・、しかも不快感を抱えながら過ごすといったことになるだけのことではないでしょうか。
それにもまして運が悪いと、結局、苦痛を伴う不快感を抱えて最後をむかえるということになります。

そういう意味で、老後の自分を想像すると、普通に死なせてもらえない・・・。

と、いう何やら治療とは、まったく正反対の死の直前に地獄の攻めにあわなければならい・・・と、いったことが大多数の死を迎える現代人の最後のように思えます。

今は、こういったお釈迦様の時代には無かった「死のパターン」が存在します。

こんな時代ですが、楽しい気分で逝けないものだろうか・・・。もし、それが実現できたら、死もさほど怖くなくなり、老後が楽しいものに変わるはずです。仏教のおかげで、「死」そのもに対しては恐れを抱くことはないし、過去に死に逝く人に対して抱いた気持ちは「ご苦労さまでした。むこうで待っててね。」そんな気分で手を合わせていました。

しかし、私の臆病でめんどうくさがりな性格からかもしれませんが、痛みや苦痛に挑むことはただただ辛いのです。
不安と恐怖しかない老後では、あまりに情けない。私たちはこんな社会を構築してきたのでしょうか。

もし、いつでもこの世を去る時期を自分で選べたら・・・。

もし、安楽死できる薬があれば・・・。

今回のような薬剤による死。薬剤による延命があるのなら、それもあっても良いのではないかと思ってしまいます。

そのまま眠りに落ち、楽しい夢でも見ながら逝ける薬があるのなら、その人の人生で一度だけでもそのチャンスが与えられたら、どんなに老後の人生が生き生きしてくるか・・・と考えてしまいます。
一生懸命生きて、「自分はここまで!」と思ったら、その時にその手段を選べたら。

老後を迎えた人だけではなく、誰にでも等しくその機会が与えられるとしたら、いろいろ繊細な課題も問題もありますが、皆で考えてみてはどうなんでしょう・・・。



ご意見 | 09:43:43 | Trackback(0) | Comments(0)
激痛
katsura.png


今朝、5時に起床し6時ごろに朝食を済ませトイレに行こうとしたその時、びしッと腰の右後ろあたりに電撃が走りました。
上半身が保てません。思わずトイレの壁に手をつき、壁沿いにゆっくり、そ~っと、居間のマッサージチェアに行き、腰掛けようとしましたが、動くと激痛が走ります。
腕をマッサージチェアのひじ掛けに掛けたまま座ることもできず、30秒ぐらい、そのままの姿勢で居ました。

「お~い!」妻を呼びます。
「助けてくれぇ~!」
声のトーンに尋常ではないと悟った妻が「どうしたの!?」と何処に居たのか駆け寄ってくれました。
「腰が・・・」
それでも、なんとか腰を屈めながらソファーまで歩き、静かに身を置きました。
5分ほど冷や汗と痛みが続いたでしょうか、妻が「顔が青い!」だの「黄色い!」だの「どっちやねん!」と言いたくなるようなことを真顔で言います。

しばらく痛みに耐え安静を保ち、寝そべっていると、そのうち、徐々に痛みが消えていきます。
15分後には、すっかり元に戻りました。

私は、いつもの尿管結石と確信しましたが、でもいつもの痛み方とはちょっと種類が違います。
鈍痛ではないのです。電気が走ったような痛みの激痛なのです。

痛みが治まりましたので、救急で行こうかどうか迷っていますと、妻が桂病院の救急に電話をします。

「今(7時前)は、救急の医師しかいませんので、現在痛みが治まっているのなら診療受付時間の8時15分に外来受付を済ませ泌尿器科受付に来てください。もし、その間に痛みが出たらその辺に居る看護師に言ってください。」と、そんな返事でしたので、少し自宅で待機、久々にいつもの外来受付けの時間に妻の運転で、行くことにしました。7時30分病院到着。

予約ではありませんでしたので、「待ち時間が1時間以上かかる」と言われましたが9時40分頃には診てもらえました。
それから、医師自らの超音波エコー検査、検尿、CT検査、血液検査、レントゲン検査すべてを終えたのは12時前。

12時15分頃、やっと2回目の診察。
検査結果です。

CT画像を見ながら、「藤野さん、結石が見つかりませんねぇ・・・。その時に出たのかなぁ。でも尿に血液が混じっていますので、2週間後に再度、診ましょう」ということで、痛み止のロキソンニンと座薬をお守り代わりに貰って帰ってきました。

それと、私にとってうれしいおまけ情報なのですが、妻がずっと気にしていた、私の糖尿病予備軍状態が長年続いていた件です。実は、その数値が進んでいないか、本当に糖尿病予備軍か、それを医師に聞きたくて私に付き添ってきたようです。

今まで私がかかった呼吸器科や心臓血管科で受けた血液検査で、医師から特に「糖尿病予備軍」と指摘を受けたことはないのですが、その数値からなぜか妻は予備軍と決めつけていました。
お腹の出具合や運動不足から判断しているのですが、今日の血液検査では、血糖数値が107。
ぎりぎりですが基準値内です。不思議です。
過去十年以上も、110~130前後ぐらいはあったのですが、特に運動もしていないのに数値が正常値内になっていたのです。 

他人様の血液検査結果と間違っているのかなぁ・・・??

これに安心した妻は、桂で仕事の用事を済ませると言って、阪急桂駅まで往復している12時40分発の病院バスに飛び乗り、自宅に戻りました。
なので、正面玄関前の薬屋で痛み止めの薬を貰い、そのまま、私は車を運転して工房に向かいました。

工房に着いたのは、もう1時前でした。

そんなことで、朝からずっと緊張していましたので、さすがにちょっと疲れましたが、なんとなく気分は明るいのです。
今日は、夕刻から久々に京都ホテルで仏教クラブの特別委員会があります。
断ろうとおもっていましたが、行けそうです。



病気 | 16:01:27 | Trackback(0) | Comments(0)
新しいパソコンで快適です!
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右側のモニターがフォトショップ画面でそのクローン画面が下のペンタブレット。これで作業します。


7月8日朝、工房の窓から見える桂川の水嵩が増しています。上流の土砂崩れで抜け落ちたと思われる大木のきれいに洗われた根っこの部分が、泥色の濁流に浮き沈みしながら流れて行きます。
10時半を過ぎますと青空が垣間見え雲間から陽光すら漏れていますが、水嵩はそのままです。
この3・4年は梅雨から秋にかけて、こんな状態が年に何度かありますが、嵐山地区に降った雨水を桂川に逃がす為の工房前の堰からの逆流で、前の道に水が溢れてきたのは、まだ一度だけですがそれも家の中にまでは入ってこない程度でした。今年は、どうなるのでしょう・・・。
今からこうでは、今年も安心して秋まで過ごせません。

ということで、久々にブログを更新しようと思います。
最近は、この間借りの無料ブログ、1ケ月たってもコマーシャルが表示されなくなったようで、無更新が続いてそのまま放置していたら、先のブログから2か月半ほど経ってしまったようです。
ある知人から、ブログが更新されないので心配していたと聞かされ、私のブログを気にかけていてくれる人がいることに、少しうれしくなりました。

実は、なぜ、更新できなかったのか・・・ですが、10年ほど使ってきたパソコンが動かなくなったのです。

私の優秀な秘書であり、辞書であり、記憶の倉庫だったパソコンの調子が悪くなったのが昨年4月の中頃、やたらファンがフル回転しだし、うるさくてたまりませんでした。
そろそろ私の人生の最終場面を共に暮らしてくれる優秀なパソコンに変えなければ、そして今のうちに膨大なファイルやデータを移動しておかないと大変なことになる・・・と思いつつ先延ばしにしてきました。

その頃から1年以上経った6月のはじめ、コロナの給付金の支給手続きが終わってすぐの頃でした。
時期は、偶然なのですが、いづれ、新しいPCにしないといけないことはわかっていましたので、思い切って新しいパソコンを注文しました。
そんなつもりではなかったのですが、たまたま妻と私の給付金20万円はこのシステムの一部になってしまいました。

CPU は、 インテル(R) Core(TM) i7-9700 プロセッサー 。メモリが16Gb。250GbのSSD。グラフィックボード AMD RADEON RX5700 /8GB。 2Tbのハードディスクの組み合わせです。
それに、今まで使っていた外付けのハードディスク7Tb分を付ければ、老いた私にとっては頼りになる最強パソコンになるはずです。

新しいパソコンが届くその日に、うまくといいますか、たまたま、今まで使っていたGatewayパソコンがクラッシュしてしまい、ついにOSすら立ち上がらなくなりました。
つまり、データが取り出せなくなったのです。

9月までに完成させないといけない、やりかけの仕事(下図)も取り出せないのです。

ということで、レスキューのお兄さんに来ていただくことになったのですが、結局パソコンは寿命ということなのです。
「10年以上も使っていたなら、通常の2倍使ったことになります。」と笑いながら言われました。
ハードディスクの寿命は通常5年だそうで、5年以上使ったハードディスの大切なデータは、別の外付けハードディスクに保存しないといけないと言われました。
ということで、内蔵ハードディスク2個を取り出してもらっただけで17600円の出張費を請求されました。

取り出した古いハードディスクから、自力で新しいパソコンにファイルやデータを移動する作業は、全部自分ですることにしたのですが、これがまた厄介な仕事で、10年分の膨大なデータから大切なデータを選んで移動するわけですから人任せにはできません。
結局、そのクラッシュから一ケ月ほどかかって、手動でデータ移動作業をする羽目になったのです。

数日前から、やっとなんとか、今までの環境に戻った感じです。

我々の仕事も、もうパソコン無くしては、仕事になりません。もちろん私の記憶力もパソコンの力を借りないとどうしようもありません

1ヶ月の仕事のブランクを取り戻すため、新しいパソコンで下図を完成させ、1ヶ月を取り戻そうと少々焦っています。

今までのパソコン環境に比べますと、すこぶる快適になってぜんぜんストレスが溜まりません。快適です。
こうしてブログを書く余裕も出てきました(^^)
パソコン大明神様に感謝!




うだうだ | 12:47:06 | Trackback(0) | Comments(0)
樹木希林と太子樹下禅那之図
村上華岳「太子樹下禅那図」1938年 何必館・京都現代美術館蔵
村上華岳「太子樹下禅那図」1938年 何必館・京都現代美術館蔵


昨日の日曜日、相変わらず一人で工房に来て、いろいろ雑用をやっていると、新型コロナで活動停止中の仏教クラブの友人からLINE。

「お早うございます。4月1日の京都新聞の村上華岳の「樹下禅那」と樹木希林の記事を読まれましたか?貴殿の絵との共通点が有ります。もし、まだなら直ぐにLineで送ります。」

とのこと、村上華岳の「樹下禅那」の図は私の好きな絵の一つで、私のiphoneの壁紙にもなったことがあります(今は、堂本印象の維摩)
樹木希林と村上華岳の「樹下禅那」、何の関係があるのかと、その記事を見逃した私は、「よろしくお願いします!」
すると、京都新聞に掲載されたその記事が、画像と共に書き起こしたテキストで2回に分けて送られてきました。

華岳の「太子樹下禅那」に魅了され、その一枚の絵の為に「何必館」という美術館を東山区に建てた梶川芳友氏と2018年に亡くなった女優、樹木希林との40年に渡る交流から、希林さんの人生観を思い書いたものでした。

ネットで「太子樹下禅那」を、検索しますと産経新聞やら朝日新聞に、ほぼ同じ内容で掲載されたことが分かります。
如何に、女優樹木希林の生き方や逝き方が清々しかったかを物語っています。

樹木希林さんは、梶川氏の人生を変えた村上華岳の遺作「太子樹下禅那」にも心を奪われ、京都を訪れるたびに「何必館」に立ち寄り、梶川氏と、お互いの人生観や仏陀の生き方、死について等、仏教的な会話を楽しまれたそうです。

1999年、出演者の心の旅を描くテレビ番組の企画で、希林さんは釈迦成道の地、インドのブッダ・ガヤを選び、訪れたそうです。
希林さんは絵に描かれた釈迦成道の地、あの絵の菩提樹の場所、ブッダガヤを選び、その絵に描かれた主題を感じようとしたのでしょうか、彼女が菩提樹の葉を拾うシーンがあったそうです。

(※絵は、装身具を身に着けた若き日の釈迦が瞑想修行する姿が描かれていて、いわゆる成道図ではありません。絵には菩提樹の葉が描かれていますが、若き釈迦の瞑想した場所は、ブッダ・ガヤの菩提樹下ではなく尼連禅河(ネーランジャーナ河)の対岸の沙羅林とされています。華岳は混同していたのかもしれませんが・・・。)

「師弟」の関係はいつしか「友」であり、「同志」に変わっていたと梶川氏は感じていたそうです 。

2018年9月、訃報の知らせを聞き、希林さんの自宅に梶川氏が駆けつけると、枕元には3年ほど前に彼女に頼まれて贈った「太子樹下禅那」の複製画が掛かっていたそうです。

22歳の梶川氏は、最初に「太子樹下禅那」に出会った時、「これが傍にあれば安心して死ねる」と思ったといいます。
希林さんは癌で死を宣告され逝くまでの間、全ての所有物を放して絶ち、人が指し出す名刺すら受け取らなかったそうですから、彼女の信念に驚かされます。
ただ一つの所有物、枕元の華岳筆の「太子樹下禅那」図の複製、希林さんも「この絵が傍らにあれば安心して死ねる」と思っっていたのでしょうか。

この記事を送っていただいた友人が、先日の私の展覧会に来ていただいた時も、LINEでその時の感想を送って来られたのですが、その時は、数ある大作をさしおいて、一番小さな絵、色紙大の絵、冊子の表紙になった勢至菩薩の絵に感動したと言ってこられたのです。
あの勢至菩薩は、日頃の仕事として描いたのではなく、描きたくて描いた唯一の絵だったのです。よく描こうとか、早く描こうとか何の邪念もなく、素直な心で描いたのです。
その友人に、むしろ、「藤野正観の仕事展」なのに仕事として描いた絵ではないと、見事に見透かされたのです。

仕事を離れ、「絵描き」として描きたい絵を描く。これが70歳を前に掲げた私の絵描き人生の最終目標です。
職人絵師を卒業し、「この絵が傍らにあれば安心して死ねる」と言わさしめる絵が描けるかどうか、この記事を読んで絵描きとして、残ったエネルギーをこれに使おうと、改めて思ったのです。




新聞記事より | 16:54:52 | Trackback(0) | Comments(0)
2020年3月27日 京都新聞 梵語より
2020-3-27京都新聞朝刊 梵語


3月27日 京都新聞 梵語より
 気品のある美人画で知られる日本画家の上村松園は、随筆『青眉抄』の中で日本初の公立美術学校京都府画学校」で明治半ばに受けた教育について書いている。
▼まず25枚つづりの花の絵の手本を渡される。
それを描いて教員に直してもらい、再度清書し、25枚全部が試験に通ると6級から5級へ進む。
さらに級が進むと鳥や虫、山水(樹木、岩石、人物と順々に挑み、3年間で卒業した。
▼そんな様子を垣間見ることができる「京都府画学校への道」展が京都市学校歴史博物館(下京区)で4月7日まで開かれており、教わることが多い。
▼手本をひたすら写して画技を磨く訓練は臨画と呼ばれ、日本絵画の伝統でもあった。
だが自由や個性が重視される大正期以降になると、次第に顧みられなくなる。
引き替えに日本画で大事にされてきた運筆を教えられる人が少なくなってきたという話をよく耳にする。
▼時代の流れといえばそれまでだが、このまま伝統の技が廃れていくのはやはり寂しい。
近年、古画を研究し、運筆を表現に生かす若手画家が出てきたと聞いた。大事にしたい動きである。
▼京都市立芸術大と銅駝美術工芸高のルーツでもある画学校ができて今年で140年になるそうだ。
京都の美術史に果たした役割を振り返り、温故知新の機会になればと思う。
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と、こんな記事がありましたので、私のお世話になった図案家の内弟子時代にも、先輩たちの描いた草花の線画を写し取るのが、仕事が終わった後の自分の課題だったことを思い出し、思うところがありましたので、この梵語の記事に補足しておこうと思います。

江戸から明治にかけて西洋画(油絵)が輸入され、それまでの絵画に対する概念が変わりました。
それまでの日本の伝統的な絵画を、油絵と区別するために日本画と呼ぶようにしました。
やがて芸術という概念を軸に作品作りを教える画学校が生まれ、それまでの私塾で勉強してきた絵師たちは、画学校の生徒もしくは職業絵師として違う道を進むことになり、その絵描きとしての立位置は大きく分かれました。

画学校で教鞭をとる師が居れば、その私塾で勉強していた弟子達がそのまま生徒として学校に移る人が居た一方で、神坂雪佳のように、すでに職業絵師として収入を得ていた人は、陶器の絵付け、塗や蒔絵の絵師、彩色師、それと私が勉強した図案家等、そのまま職業絵師として住空間を装飾する道を選び、いわゆる芸術家とは一線を画しました。

画学校が生まれるまでは、私塾において塾生(弟子)は師について師の技法を習うといったことが普通で、師や先人たちの描いたものをひたすら写し取ることでその私塾の画技を身に着けたのです。

その伝承方法は、特に私の画技の基礎を作っった染織図案家の私塾にだけに図案を専門に描く人を育てる為に、画塾の徒弟制度が受け継がれて残り、当初の画学校では、梵語の記事にあるように、日本画科では材料論を伝えるということは今もあるようですが、時が経つにつれ西洋の個性重視の芸術概念に日本画も嵌っていったようです。
その頃に、私塾から学校へ進み勉強した近代日本画の巨匠と呼ばれる人たちは、画学校ができる前の私塾での修業時代を経験していますから、日本の伝統的な美の意味や表現方法、画技を身に着けながら西洋の絵に、ほどよく影響されていったのだと思います。

しかし、今の画学校では、模写室を除くと昔のようなやり方で教え伝える先生もほとんど居なくなり、日本画も油絵もそうですが、自由に描いたり、描き手本人のメッセージ性や個性を重要視するように変化してしまいました。
今では、日本画も、描く画材だけで油絵と区別しているように思えます。
蹴鞠の鞠でサッカーをしている人が、自分は蹴鞠をしているのだと勘違いししているようなものです。やはり、それはサッカー競技でしかないのです。

今の日本画家の卵さんも、今一度、昔のように、先人の残した良い作品(古仏画や大和絵等)を写すことからはじめ、そこから生まれる「和の美」の精神、「和」の感覚を身に染みつけつつ、画技を身に着けて欲しいと心より思っています。

私の主宰する仏画工房でも、今もこの教え伝えるやり方を通して、後輩(弟子)や仏画教室の人たちにも、徹底的に東洋画の基本練習法として、線画(白描画)を使い「写仏」をして貰っています。





新聞原稿より | 15:48:12 | Trackback(0) | Comments(0)
東近江市出身の仏絵師 『藤野正観の仕事展』のこと


「東近江市出身の仏絵師 藤野正観の仕事展」も残すところ、明日一日となりました。
展覧会場で撮った写真に動きを付けただけですが、武漢ウィルス騒動で、行きたくても行けなかった方には、この動画で会場の様子を少しだけですが、お感じ頂けます。

思い返せば、昨年2019年1月、私の18歳まで育った東近江市五個荘にある「観峯館」の学芸員の古橋さんが初めてお見えになり、この「藤野正観の仕事展」の企画をお聞きしました。

現在は会社の経営者で、観峯館の外部評議員をしている従弟(阪大時代は東洋美術の研究をしていた)の紹介もあったようですが、学芸員の古橋さんは、2002年にも当時の五個荘町教育委員会主催の「藤野正観の仕事展」をご覧になっており、また、ご自分も京都市立芸術大学時代には日本画科の模写室で学び、卒業後は、米国ニューヨークのメトロポリタン美術館等の所蔵する日本の古い書画の表装・修復などにあたっておられたようで、私の仕事を少なからず理解し、仏画や古画をこよなく愛しておられ、深い思い入れを感じました。

観峯館は、公益財団法人日本習字教育財団が、書道文化の普及を目的に運営する博物館。
観峯館始まって以来の初めて、存命中の作家の展覧会を企画されたことになるそうですが、やはり、地元東近江市の文化にも貢献したいということで、この企画を発案、推進されたようです。

当然ながらありがたく、快くお引き受けしたのですが、私のお納めしたお寺さんから、納めた作品をお借りするのは、いろんな意味で大変なので、私の工房にある仏画でよかったらということで、ご承諾いただきました。

後日、数年前に新しく建てられた会場となる特別展示室を下見に訪れると、そこはやはり博物館らしいガラス張りの展示ケースが連なり天井も高く、私の工房所蔵の作品だけではちょっと場が持たないと直感しました。

そこで、私は、決心しました。
広くて天井の高い展示室の展示内容を充実させるには、どうしても、大きなサイズの絵が数点は必要なのですが、当工房所蔵の東寺所蔵の元禄時代に描かれた両部曼荼羅を元に描いた1/4サイズ両部曼荼羅、西院曼荼羅の精巧なレプリカ、観経変相図(当麻曼陀羅)の精巧なレプリカ。その他に、何かあれば・・・と考え、観覧者が最も理解しやすい「涅槃図」があれば・・・と考え、新しく大きなサイズの江戸様式の涅槃図と、その他に数点の新作を揃えようと、ほとんど無収入を覚悟し、この展覧会の成功だけを考え、作品を揃えることにしたのです。

おかげで、会場は、それらしくバランスの良い、「仏画展」らしい「聖なる空間」になり、他ではめったに観たり体験することができない特別な展示空間となりました。

また、もともと3年前から、画歴50年を機に画集を作ろうと企て、画像データを整え初めていました。でも、すべてが初めてで気持ちだけが先行し、少々焦っていたところではあったのです。
当初は、そのできた画集を、会場で販売していただくことになっていましたが、2019年6月には母が享年92歳で逝ったこともあり、葬式や法事などで開催数ヶ月前になっても、具体的な構成すら手に着かずにいました。

ところが、観峯館さんが、通常の企画展では、パンフレット的な図録冊子をお作りになっていたこともあり、その流れと手際で冊子を作るということになり、私の手持ちの作品画像データを提供し、古橋さんの要望を受け、作品の解説文や構成など着々とその編集作業が進んでいくうちに、これなら自分で出版もできるのでは、と気が付き、32ページの冊子なら肩の力を抜いて制作できるのではないか・・・と、自らが編集し出版をすることになりました。
当初は、観峯館さんが、経費を出し、入館者に無料で配布する予定でしたが、それでは、何年もかけて描き溜めた作品に申し訳ないということで、きちんと定価を付け、ややこしい手続きを経てISBN日本図書コードも取得し、一人前の書籍としてamazonでも展覧会開始と同時に販売していただくことになりました。

私は、やはり、これ等の準備をしていた1年間分の溜まった仕事を消化しないといけませんので、日曜日だけ会場に行くことに決めました。
個人情報保護法厳守ということで、私の留守中に来られた方々のメッセージは、芳名録に署名ではなく、他の人に覗かれないように設置した『箱』に入れてもらうようにし、日曜日ごとに開封、チェックをしました。

小学校、中学校、そして高校までの古~い友人がたくさん来てくれました。実際にお会いしたのはその 半分ぐらいですが、箱に入っていたメッセージで来てくれたことがわかります。
私の住む京都からも、寒い時期でもあるにもかかわらず、友人知人がたくさん来てくれ、自分で案内状やチラシをお渡ししたにもかかわらず、恐縮してしまいました。
その他、ホームページやFacebookを通じて友人となった人たちが、情報を聞いて、遠くは、仙台、東京、神奈川、愛知、岐阜、山口、島根、広島、岡山、奈良、大阪等から来ていただきました。

2月後半から、じわじわと武漢ウィルスの脅威が迫り、3月になって入場者が増えるどころか、減り続けています。
仕方ありませんが、現在、日本はおろか世界中がウイルスの脅威で経済活動がストップし、不安感が広がり続け、日本はおろか世界中が混沌としています。

その為、ギャラリートーク等イベントは取りやめになりましたが、最終日を明日に控え、なんとか最後の日まで閉館せずに予定通りの日程で無事に終えることができそうです。

お忙しい中、寒い中、遠路はるばる来ていただき、ご高覧頂いた方々には、このブログの場を借りて、心より感謝の意を申し上げ、武漢ウィルスの騒動が一日も早く終息しますよう祈念せずにはおれません。


※追記
3月15日 晴天。 会期中、日曜日には会場に行っていたのですが、すべて雪の日か雨の日で朝から青空の日はありませんでした。
最終日の15日は、朝から晴天、青空が広がっていました。さすがに9時半のオープン時には、入場者も少ないので、観峯館の広い敷地内を散策してみました。
今は木々の葉も無く芝も枯れて冬ごもり状態ですが、もうすぐ春の装いとなり木々には緑の葉、地には緑の芝がひろがると、さぞかし美しい景観になるのだろうと想像していました。
最終日には、会場内には途切れることもなく、たくさんの方々にご高覧いただけたようです。
年配のある方など、「ウィルスが怖くて、家に居ましたが、そんなこと言っていたら何もできないので、思い切って出てきました。」と笑いながら言っておられました。

武漢ウィルス、コロナウィルス、新型肺炎ウィルスなど、まだ得たいの知れない未知のウィルスの呼称さえ定まっていませんが、そのおかげで入場者数は、半減といっても良いかもしれません。少々がっかりですが、世界中が、このウィルスで不安定な生活を強いられています。
自分のことなど、うだうだと文句を言ってはおられません。

昨日、娘から、NIH(アメリカ国立衛生研究所)のNIAID (アレルギー・感染症研究所)で、 長年エイズウィルスのワクチン開発の研究をやっている旦那が、大統領の国家緊急事態宣言からか、なんと、「コロナウィルスのワクチンやる事になりました!」と連絡をして来ました。
旦那曰く、ワクチンができても、まずは動物実験、そこで効果が実証出来たとして、副作用、生産性、生産後にどれだけ保存可能な期間があるのかどうかなど、越えなければならないハードルは沢山あります。・・・ということで、時間がかかりそうですが、そんなこと、今時のAIでシュミレーションできないのかなぁ・・・・。
人類は耐えられるのか・・・。
とにもかくにも、そんな不安な状況下に、我が身を顧みずお越しいただいた皆様方には、この場をお借りして御礼を申し上げます。
ありがとうございました!! m(__)m

ユーチューブよりお気に入り | 16:21:00 | Trackback(0) | Comments(0)
仏絵師の心にある伝統美
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和の心のサイトより拝借しました


webサイト「和の心」の中国語の記事を、観峯館の職員の方が訳してくれましたので、その日本語訳をそのまま私の補足なしでご紹介します。


仏絵師である藤野正観氏は、仏画にたずさわって50年になる。近頃、藤野氏の出身地である滋賀県東近江市において、地元作家の功績を記念し、当地の博物館である観峰館が藤野正観画業50年展を開催した。筆者は、事前に氏の画集をネット購入したが、その中の「悲母観音図」に深い感銘を受け、氏の画境を理解したいと思った。そこで観覧の機会に氏を訪ね、氏も喜んで取材に応じてくれた。

 氏は幼い頃に、印象派やアカデミック美術などの西洋古典絵画に触れ、「《聖母とイエス》という作品の母親の眼差しを見て、その美しさに深い印象を受けたのです。」と、藤野氏は語り始めた。

藤野氏は高校卒業後、絵筆を使う仕事に就きたいと考え、ある縁から、京都の染織図案家に弟子入りした。そこで9年を費やして、日本古来より伝わる伝統的な色彩や文様、様式を身に付けた。これが後に仏画制作にたずさわる上での基礎となったのである。
 そして、あるとき偶然に狩野芳崖の絵を目にする機会があった。狩野芳崖は、幕末から明治の日本画家で、近代日本画の父と称される人物である。「彼の観音像が、私の幼い頃の記憶を呼び起こしてくれました。観音の慈悲がこんなにも美しく表現されている。私はこれを、自分が幼い頃に感じ取ったこの美しさを描きたいと思ったのです。」藤野氏は続けた。

 藤野氏は、自身の心の奥深くに潜んでいた、初めて見たあの慈母の眼差しの美しさを、自分の絵筆で表現したいという願望に気づき、作画の訓練を始めたのだと、その経緯を述べた。
 「どのようにあの慈悲を描き出すのか。確固たる技術が必要なのは言うまでもないが、心がどう‘慈悲’を理解し、どう美意識を認識するかがもっと重要なのです。どのような心理で描くかによって、出来ばえはまったく異なるのです。」と、氏は強調した。
 「先生は、どのようにして慈悲を感じ取っているのですか?読経ですか?座禅ですか?」筆者は問うた。

 「私は、何かに導かれて描いているのだと思うのです。仏画を描けることだけでありがたいと感じますし、いい作品を作ることが、そのことへの酬いなのです。わからないことや、技術的な未熟さなどは、ひとつひとつ乗り越えていかなければなりません。奮闘努力し、考え、悩み、眠れなくなることを繰り返す。修練はやはり修練なのです。どのように色を出すかなどの表現の問題は、課題をひとつひとつ乗り越えた経験の蓄積です。しかし、何かによって絵に導かれているという感覚は、常にあります。宗教じみているようですが、どう考えてみても、自分の技術や才能だけでは絶対に描き出せないのです。」と、氏は熱く語った。

 「描かれるときの心境は?」筆者は続けて質問した。
 「無我です。」氏は淡々と答えた。「仏画とは、仏を表現したものですから、‘我’とか‘私’とかは邪魔なのです。‘我’消し去って自分を出さないようにしなければならない。だから仏画には個人の署名や落款を入れないのです。絵の中に‘私’があってはならない。私はただ筆を動かし、心にはただ仏の優美な線や、自分が理解する慈悲などがあるだけなのです。それ以外のものは人の欲望であり、みな取り除かなければならない。」

 展示されている「悲母観音図」は、氏が狩野芳崖の原作を模写したものであり、表情や色彩は、伝統的な仏画様式を忠実に再現している。

 氏はいう。「仏画というものは、一般に先人の作を模倣したものです。この作品は狩野芳崖の傑作であり、彼自身のオリジナルです。私も70歳になろうとしています。訓練し、修行して今に至っていますが、先人や中国伝統絵画学んできたものから、生きているうちにオリジナルなものを生み出したいと思っていますし、それを楽しみにしています。」

 短いながらも奥深い取材は、和やかに終わった。筆者も、はやく藤野氏の独創作品を見たいものだ。


以上。




取材記事より | 09:18:51 | Trackback(0) | Comments(0)
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