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癌は10年間、再発しなかったら完治
桂病院
桂病院正面玄関 自転車通勤の時は、この前の道を通ります


半年ぶりに、桂病院の呼吸器科に検診に行きました。
本日8時半に、呼吸器科を通してCT撮影に予約を入れておいたにも関わらず、うっかり今日が検診日というのを忘れていて、自宅を6時50分頃に自転車で工房に向け出発。
7時半には到着し、どうも明日からまた雨のようなので、爽やかな風を入れようとあちこちの窓を開放し、パソコンの電源を入れると、立ち上がりと共に今日の予定がピョコンと出てきます。

今日は、『桂病院、8時半検診』半年ぶりの検診日だったのです。

自転車で少し汗が滲んだTシャツを慌てて気替え、洗濯済の作務衣に気替えて桂病院へ向かいました。
もうすぐ、弟子たちが来ますので、窓は開けっぱなしでしたが、LINEでその旨を伝えておきました。
病院には8時過ぎに到着、受付はまだ始まっていません。たくさんの患者がロビーに溢れています。

ロビーの大型テレビでは、また、北朝鮮がミサイルを発射したとニュースが流れています。6時57分頃に発射したとのことですから、ちょうどその頃、私は、耳にイヤフォンを差し込み大音響で好きな音楽を聴きながら自転車で工房に向かっていたことになります・・・。
ロビーに待っている患者さんたちは一様に、テレビの画面を観ておられるようですが、「またかぁ・・・。」といった感じで、しょせん、遠くの地域での出来事だからでしょうか、北海道のはるか上空を通過したとのことで、よけいに無関心なのかもしれません・・・。かく言う私も一旦はテレビの前に陣取りましたが、遠い北海道の出来事と、すぐにテレビの前を離れました。 
慣れは、こうして危機感を希薄にして行くのでしょうか・・・。

受付開始は、8時15分に始まり、整理券の番号順に点呼により受付機の前に並ぶことになります。
今日の私の整理番号は77番でした。77人目ということになります。
やはり、いつもよりは少し遅めですが、ほぼいつも通りの時間配分で診ていただけることになりました。

8時半、呼吸器科窓口では診察受付をせず、そのまま地下のCT撮影室へ行くと、もうすでに何人かの患者さんが待っています。
15分程度でCT撮影を終え、次は採血、レントゲン。その三つの検査を終わると呼吸器科の窓口に行って、診察を受け付けてもらいます。
30分も待ったでしょうか、検査結果が出たらしく私の名前が呼び出され、4月から玉里Drという新しい医師に変わったこともあり、半年に一回の検診だけでお会いするその若い医師のお顔は完全に忘れていました。2度目ですから無理はありません。

しかし、モニターを見ながら、質問に応えてくれるその話し方で思い出しました。米国のNIH(アメリカ国立衛生研究所)に勤める我が娘の旦那とその話し方がそっくりなんです。
確か、前にも書いたはずですが、若いそのドクターは、いかにも聡明そうで、ちょっとした私の疑問にも分かりやすく、単的に説明してくれました。
「これ等の検査データからは、異常は見当たりません。」ということで、安堵したのですが、その説明の中で、ひとつ「えぇ~!」ということがありましたので、これをお読みになった皆さんに耳寄りかどうかわかりませんが、そんな新しい情報を一つお伝えしておきます。

今まで、癌患者は、運よく癌細胞の切除や抗癌剤或いは放射線治療によって消滅した時から、5年間再発しなかったら、完治ということでしたが、なんと、5年では完治でではなく、これからは、10年間に渡って、半年に一度の検診を経て、再発がなかったら完治ということになるそうです。

ですので、私の場合、半年後の検診で5年が経過し、異常がなければ、これで『完治』というところでしたが、その後、まるまる5年間は、この桂病院の呼吸器科に半年に一度、検診に通うことになったわけであります・・・。
ということで、運よく早期発見で癌細胞が見つかっても、治療終了時点で以後10年間は、病院とお付き合いすることになるわけですね・・・。



肺癌 | 17:29:05 | Trackback(0) | Comments(0)
北村富三という洋画家と私の関係・・・。
北村富蔵画-あいとこい-水彩色紙1949
北村富三画 「あいとこい」1949色紙水彩 父と母の結婚祝いに頂いた絵


日曜日の朝、妻が近々来客があるので、日頃物置状態になっている自宅の座敷の縁側を整理していたところ、「懐かしい絵が出てきたよ!」と前の庭を掃除する私に言いました。
その絵は、父と母が結婚する時にこの絵の作者から頂いた貴重な絵、時々思い出しては探すのですが見つからなかったのです。
久々のご対面です。

「あいとこい」・・・数十年前に、その作者の娘さんが企画して回顧展をされた時に貸し出した時に付けられたタイトルらしい。その額の中にその時の新聞記事やら略歴などが仕舞われています。
その絵は、色紙に水彩で描かれ、青い染付の大皿に並べた鮎と鯉の絵。私の生まれた時から家の座敷の天井と長押の間の壁に、肖像写真と同じ要領で掛けてありました。

そうそう、それともうひとつ、ボールキャンバスに描かれた渋い花瓶に入れた百合の油絵もありました。どこかにあるはずです。
そして、もうひとつ、「ミレーの晩鐘」を印刷した絵が、安物の額に入れて、同じく当時で築50年ぐらいの古い座敷の壁にありました。

今から思うと幼い私の絵心は、この三つの絵が育んでくれたような気がしています。

「あいとこい」は、北村富三という、私の故郷、今の東近江市宮荘町で生まれた洋画家の作品で、父と母の仲人をしてくれた人です。
その時にお祝いの品として頂いたと聞いています。
私の生まれる1年前の1949年に、32歳の父がシベリア抑留から解放され祖国に帰って来て、この北村氏が仲に入りすぐに10歳年下の母と結婚したことになります。
私は、その頃の詳しいことは知らないのですが、たぶん、後に会社を興すことになる絵描きになりたかった父の兄、藤野重蔵 繋がりだったのでしょう。私は、その1年後に生まれます。

『この北村富三という画家は、明治36年(1903)、現在の滋賀県東近江市宮荘町に生まれました。病弱で闘病生活を送っていましたが、23歳の時に京都に出て、寺松国太郎の門下生となり油彩画を基本から学びました。その後東京に出て、後に一水会を結成する二科会の安井曾太郎に師事し、堅実な写実的作風で認められました。戦禍が厳しくなり、昭和20年(1945)、東京から滋賀県に一家疎開。画家にとって厳しい時代でしたが、昭和31年(1956)、53歳の生涯を閉じるまで、常に画家として模索と研鑽を重ね、画の求道者として多くの作品を残しました。
生まれつき病弱な身体を持ちながら、自らの命を移行するかのように描き続けた富三の作品とその生涯にせまります。』(内容追加修正)
ということで、私の67歳の誕生日10月9日まで、東近江市近江商人博物館・中路融人記念館で開催されているようです。

この画家が、いくら良い絵を描いても貧乏のどん底で、ついには結核で死んでいったという現実を、近くで見ていた私の父は、長男の私の画家になりたいという17歳の激しい思いに、息子の将来を案じ真っ向から反対し、逆上したのです。
そのために、美術系の大学には行けないと、高校3年生の時には父を恨みましたが、結局、母の勧めで京都の叔父に紹介してもらった職業としての絵描き、堅実な職人絵描きとしてならいいだろうということで、やっと染織図案家の内弟子となることには目を瞑ってくれました。
いろいろあって仏絵師という職業に至るのですが、後に画家の道を猛反対した父親から、私を大学に行かせる為に貯めた資金600万円を、私が最初に買った家の資金の一部にしろとくれたことが、後々の仏絵師としての活動の本拠地となったのですから、父の想いとその三つの絵のパワーが形になったとも言えなくもないのです。

『百合』の絵もたぶん、その北村富三氏の描いた絵だと思われますが、無残にも、父が手持ちの額に納める為か、大き過ぎた為かわかりませんが、その描かれたボールキャンバスの上下左右をカットしています。
そのため、サインの部分が欠落しています。油絵の為にガラスでカバーされていませんので、その画面を何度か拭いたのでしょうか、ところどころ絵具が剥落していました・・・。 自宅か、工房、どちらかにあるはずです。そううち見つかると思います。

ミレーの『晩鐘』は、有名な名画ですので、皆さんご存知のはず。父が、どこかで気に入って買ってきたのでしょう。
フランスの田舎バルビゾンのじゃがいも畑で農作業をする夫婦が、教会から聞こえる夕刻のアンジェラスの鐘に合わせて祈りを捧げる様子が描かれています。幼い頃から18歳までずーっと生活の傍らにあった名画。
私は、本当は、今でも、このバルビゾン派の描く人と自然のおごそかで謙虚な関わりの表現が大好きなのです。
祈ることの美しさは、この絵で感じたのが最初かもしれません。




うだうだ | 11:15:10 | Trackback(0) | Comments(0)
福沢諭吉「脱亜論」 現代語訳
福沢諭吉
Facebookで誰かがアップしていた画像を拝借


今から130年以上も前の明治18年に、1万円札でお馴染みの福沢諭吉が、すでにこんなことを言っていたのですね。
この問題を、今も引きずり、手こずる日本。
どうすればいいのでしょう・・・? この『脱亜論』、参考になりますでしょうか?

以下、1882年に福沢諭吉が創刊した日刊新聞、『時事新報』に掲載された「脱亜論」 の現代語訳です。
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世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、到るところ、草も木もこの風になびかないことはない。
西洋の人物は古代と現在に大した違いはないのだが、その活動が古代は遅鈍、今は活発なのは、ただ交通の機関を利用し、勢いに乗じるがためである。
ゆえに最近、東洋の我が国民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。

しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世間と共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。

文明は、いまだ麻疹(はしか)の流行のようなものだ。
目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。

この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、果してその手段はあるだろうか? 
筆者は断じて、その手段はないものとする。

有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できない。
いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。
これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが智者の課題である。

近代西洋文明がわが日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。
国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる時代遅れの幕府というものがあり、これはいかんともできなかった。 

幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。
なぜかというと、近代の文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。

だからといって、文明をふせいてその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。
なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。 

ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てた。
政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。
アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。

わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習慣を脱し、西洋の文明に移っている。

しかしここに不幸なのは、隣国があり、そのひとつを支那といい、もうひとつを朝鮮という。

この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことについては、わが日本国民と異ならないのである。

だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・朝の三国を並べ、日本と比較する時、支那と朝鮮はよく似ているのである。

この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。

交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。

現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。

そればかりか、道徳さえ地面を這うように残酷破廉恥を極め、なおふんぞり返って反省の念など持たない者のようだ。

筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。

われらの明治維新のように、幸い国の中に志士が現れ、進歩の手始めとして政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。

もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。
なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・朝鮮の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に引きこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。

「輔車唇歯(ほしゃしんし)」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那、朝鮮は、わが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。

のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・朝鮮の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。 

例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制であり、法律に従うことがなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。

支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。

支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。 

事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。

その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の大不幸というべきである。

そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。

むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別扱いするに及ばず、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。

悪友と親しく交わる者も、また悪名をまぬかれない。

筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。

明治18年(1885年)3月16日

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と、こんな記事をアップした数日後の今日28日の産経ニュースに、韓国を「諭吉が匙を投げた国」として『脱亜論』の記事が掲載されました。誰の想いも同じなのでしょうね・・・・。
その記事をリンクしておきます。
http://www.sankei.com/premium/news/170828/prm1708280005-n1.html


うんちくひけらかし | 10:05:09 | Trackback(0) | Comments(0)
防衛大臣は、いつまで「裸の王様」を演じるの?
海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」(1万9500トン)
海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」(1万9500トン)
※大戦初中期のアメリカ海軍主力空母であったヨークタウン級航空母艦と同規模


 防衛大臣は、アメリカ合衆国の国防長官に当たり、日本国の防衛の最高責任者です。
アメリカ合衆国は、軍人が任命されることもありますが、日本の防衛大臣は、日本国憲法第66条の規定により、文民統制の観点から文民が任命されます。
この、シビリアン・コントロール。どういったことかといいますと、『軍に対し文民の政治が優先して軍部を統制するという原則』なのですが、国によってその意味するところは一様ではないようです。

 日本の場合は、「天皇による統帥権」の名の下に軍部の独走を許した第2次世界大戦前の歴史を踏まえて、文官(背広組)が軍人(制服組)を統制する仕組みを取っていて、別名「文官統制」とも呼ばれています。

 しかし、憲法第九条では、根本的に「軍隊」どころか「交戦」すら認めていません。日本人がそう宣言していることになっているんですね。

 その為に、憲法作成当初から、「軍隊ではありませんので・・・」と、憲法さんに取り入り、「軍隊」を「自衛隊」と呼んで、軍隊の存在を曖昧にしてきました。
なのに、なぜか今も憲法そのものを崇め奉てまつろうとする人たちが居ます。

 このなぜか・・・という?の部分は、また後日考えることにしますが、国民誰でも、自国の防衛の必要性を否定する人は居ないはずですので、憲法の強引な解釈として、自衛隊は軍隊ではないことにしています。

 なのに、憲法第66条では、文民が最高責任者でないとダメよと、わざわざ明記しているところから鑑みますと、自衛隊のことを憲法下でも「軍隊」と認識して作成されていることになります。

だって、自衛隊が軍隊でないのなら、自衛隊員は文民ですのでわざわざ文民と軍人との違いを明記する必要はありませんね。

そろそろ、ごまかしはやめて、矛盾だらけの憲法を改憲し、矛盾のないようにする必要があります。

 そうでなければ、防衛大臣を誰がやったって「軍隊」ではない「自衛隊」を、大きな矛盾を抱えたまま指揮することになり、「防衛という本筋」を全うできません。
 今回の稲田防衛大臣の辞任劇もこの根本的な事が原因になっています。
自衛隊が単なるお役所なら機密文書などあり得なく、開示できないという事はないはずですが、自衛隊を軍隊とするなら、軍事機密は当然ありますから、全てを開示することなどあり得ませんね。

 野党は、自衛隊を文民の機関としてお役所と同じ感覚で追及していますが、実際に軍隊を指揮する側(政府)は開示できることとできないことを両方重ね持っています。実は、これ、誰でも理解できることだったんですが、憲法論を振りかざし、議論すると、自衛隊の紛争地域での現場仕事は認められないことになってしまいます。

 このままでは、日本の防衛大臣は、誰がなっても、矛盾だらけの憲法という衣服をまとった裸の王様でしかありません。

「自衛隊」は、誰がどう見ても「軍隊」であり、「国防軍」です。

 自衛隊を認めるなら「軍隊」を認めているのと同じですので、自衛隊という名前を「日本国防軍」とすれば良いのではないでしょうか。

 これで、矛盾がなくなり、国防という真の意味での「日本国の平安を護る」ということがどういうことか、はっきり見えてきますね。

この件、前にも詳しく書いていますので、よろしかったらどうぞ。







うだうだ | 09:04:50 | Trackback(0) | Comments(0)
夏の日
P1080348.jpg
工房前の横溝公園の色鮮やかに満開の百日紅の樹(フェンスの向こうが桂川サイクリングロード)


 梅雨が明けて一週間ほど経つのに、時々雨が降る湿気の多い日が続いていましたが、今日は朝から、久々に空気がカラっと乾き明るい真夏の太陽の輝きと真っ青な空と爽やかな風が通り抜けています。
といっても私の仕事をする工房の大きな北向きのはめ殺しの窓越の景色ですので、ほんとうに爽やかかどうかはわかりませんので、確認をしにベランダに出てみますと、やはり暑いですが部屋の中から見た目通り、爽やかです。

 そのベランダの今は一個だけ小さな実の残る鉢植えのゴーヤですが、昨日、今夏2度目の収穫をしました。
その吐き出しの窓枠の上から手擦りまで張った園芸用のネットのゴーヤの葉の下から桂川の方を見ますと、向かいの公園に植えられた百日紅(さるすべり)の花が満開。いかにも真夏です。
大きなセミの声と、夏休みなので、数人の子供たちの遊ぶ声も公園の向こうから聞こえてきます。

 堤の桜の木の枝や雑草が、風に吹かれて上下左右に大きく揺れ、昨今のシャワーのような「瞬間豪雨」できれいに洗い拭われたのか緑の葉がキラキラ輝いて目に入ってきます。まるで亜熱帯の東南アジアのようです。

 そのはめ殺しの大きな窓から座卓仕様の仕事机越しに見える桂川の堤は、サイクリングロードとして舗装整備されています。
その机の前に座った目線でその路面が見えるか見えないか、ちょうど目線と同じ高さにロードが通り、夕暮れの時など、そこを歩く人や自転車がまるで、演劇の舞台を見るように明るく照らし出され浮き上がります。

 今、若い父親と8歳ぐらいの女の子と6歳くらいの男の子がそれぞれの体に合った自転車で一列になって、嵐山の方向に走って行きます。
 先頭を走る父親らしき男の握る自転車のハンドルの先には、魚獲りの網でしょうか、緑色の網が揺れています。
その次に走る女の子は麦わら帽子でしょうか、少し大きめのそんな帽子を被りピンクのリボンが風にたなびいでいます。
すでに小麦色に焼けた腕が覗くノースリーブの白いワンピースのスカートをひるがえしながらペダルを忙しく漕いでいます。
 その次に、ハンドルを不安定に左右に揺らしながら必死にペダルを漕いで着いていく野球帽を被った男の子が前の二人に付いて行きます。

私の家族構成と同じなので、昔を思い出し、思わず笑みがこぼれます。

私の幼かった、60年前のあの夏休みの日々と、何ら変っていないことに、なんとなく安心するのでした。


うだうだ | 15:23:08 | Trackback(0) | Comments(0)
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