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夏の慌ただしい出来事
2019-8-13.jpg
母の初盆。慌ただしかった夏のつかの間のひと時、琵琶湖畔の大水車前の広場で。


今朝、4時に起こされ、孫たちと寝床でお別れのハグをしました。
そうです、娘と孫2人が、79日間の日本滞在を終え、アメリカに帰ります。妻が3時に起きて車で送って行きました。
私はといいますと、早く目が覚めたので、一人で朝食を済ませ、6時前には工房に来て、賑やかで慌ただしく過ぎ去った今年の夏を思い出しています。

何といっても、娘たちがワシントンDCから日本に帰ってきて6日後には、故郷の施設でお世話になって居る私の母とお互いが元気に再会し、にこやかに話をし、その3日後にはその母が脳幹出血で倒れ、その4日後の早朝には享年92歳で、この時を待っていたように人生の幕を閉じました。
学生時代の友人の関係する葬儀場に無理をお願いして、亡くなったその日の夜に通夜、家族と親戚だけの濃厚な葬儀、49日までの古い佇まいの実家での一週間ごとの追善法要、それと初盆。
通夜の日には、仕事とビザの手続きなどで10日間の滞在予定の娘の婿までが遅れて帰国しており、母の通夜や葬儀にも参列できました。

私の保育園時代から一緒の同級生の和尚に通夜からすべてお世話になりました。
台風接近の為、寺での施餓鬼会には行けませんでしたが、その次の日の16日、京都五山の送り火のある日、その猛暑の中、娘と息子と3人で鳥居本まで出かけ、母の初盆供と、家内安全等の護摩木を奉納し、その夜の鳥居形の送り火のひとつにして頂きました。

また夜には、昼間の暑さで疲れた私を除く家族全員で嵐山の灯篭流しにも参加し、亡き母の成仏をと、願いを込めました。
会うたび、別れ際に「これで最後やぁ・・・。」と涙ながらに言い続けてきた母も、まさかこんな見事な形で米国在住の孫や曽孫たちに見送ってもらえると思っていなかったことでしょうし、我々も誰も想像していませんでした。

そんな、何ともピッタリなタイミングで母を送り、孫たちは夏休みまで計画通り公立の小学校にも通いました。
そんな「日本の夏」を過ごし、ワシントンDCへ帰ります。
孫たちにとって、どんな夏だったのでしょう。おそらく、思い出深い、忘れられない日本の夏になったことと思います。
今日の7時50分のNH-2176で成田に向かい、7時間後には例の食事のまずいユナイテッド航空(UAL 804)で直ワシントン、ダレス空港まで帰ります。 ケチケチ旅行は大変です・・・。
今頃、伊丹空港で出国手続きを済ませ、搭乗ゲートで待っていることでしょう。

うだうだ | 07:32:21 | Trackback(0) | Comments(0)
追善供養って仏教かい?
地獄図部分
地獄図 部分 2007年制作『地獄図』より


6月17日に、享年92歳で母が亡くなって3週間が過ぎました。

7月5日、今や誰も住んでいない実家に、7日ごとに遺影と位牌等法具セットを持ち歩き、母の曽孫までの血縁縁者が集まり、前倒しで四七日を済ませました。

こういう言い方、表現をすると誤解されそうですが、亡くなった母が亡者となり、堕ちた六道の関所を無事通過できるように目印となるようにと、線香を絶やさないように気を付けたり、電気ローソクを灯したり、水や、膳を用意し母の遺影と位牌の前に供えたりと、24時間、バーチャルな世界にどっぷり浸かり、私はゲームはしないのですが、法要の日など、まるで集団でゲームをしているような不思議な気分です。亡き母の冥福(死後の幸せ)を祈り供養する我々が善根を修める(貪らない、憤らない、愚かでない、等徳を積む)のだそうです。

葬儀までは、その不思議な気分はなかったのですが、それ以降、初七日、二七日、三七日・・・七七日、と追善供養が続きます。
父親の時は、何も疑問に感じず、素直にその中陰の時期を過ごしたと記憶しています。
【※中陰とは、人が亡くなってから次の新しい世界へ向かうまでの四十九日間(七七日)のことを指します。
中陰の間に7日間ごとに故人の生前の罪に関する裁きが行われ、縁者が供養することで滅罪され、生まれ変わる死後の世界(六道=地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)が決められるとされています。】

私は、十三仏図や地獄絵図や六道絵図も描いていますので、お勤めをしてくれる和尚が中陰和讃を唱える時、どうしてもその映像がはっきり頭に浮かぶのです。

ところで、追善供養は仏教の教えにあるのでしようか?

神通力では弟子の中でも一番と言われる目連尊者が、「亡くなった母が、餓鬼道に堕ち苦しんでいるのが見える、お釈迦様、私はどうすれば母を救ってあげることが出来るのでしょうか?」と仏陀にたずねます。

目連を慈しみ、育てた母は、その我が子への愛が妄執(まちがった執着)となって慳貪(貪欲なこと)の罪を犯したとされますが、私には、なぜ、慈愛の心が慳貪の罪なのか疑問だったのですが、次のような解説がありました。

目連の母は、出家した我が子が、他の修行僧たちとともに托鉢のために村に来た時、他の僧の鉢には何も施さず、我が子目連の鉢には、たくさんの食物を盛ったことがありました。
それは、母の愛としては自然なことであったかもしれませんが、出家者に対する布施の行いとしては誤りでした。
何故なら托鉢の乞食行(こつじきぎょう)は、修行者にとっての徳行となるばかりでなく、実は分け隔てなく執着を離れて施与するという布施の徳を積ませてもらう意味があるからです。
つまり、布施する側にも「徳を積む修行」となるものですから、目連の母は、母の愛を布施の徳を積むことで一層深めていくべきところを「我が子だけ」という慳貪に陥ってしまったのです。
この行いの報いによって、母は今や飢えと、乾きに苛まれる餓鬼道に堕ちているのでした。

こう聞くと、世の母親のほとんどは、餓鬼道に堕ちていることになります。私の母親も同じくそうかもしれません。

目連は、嘆き悲しみ、神通力で餓鬼道に堕ちた母に食物を送るのですが、母の目の前に届くと、灼熱の炎や刃物に変わり、かえって母を傷つけることになってしまったのです。

仏陀は憐れむ目連に、「夏安居の最後の日にすべての比丘に食べ物やきれいな水を施せば、母親にもその施しの一端が口に入るだろう」。と、アドバイスをするのです。
これは、孟蘭盆経にあるそうです。つまりこれが、お盆のはじまりだとされています。死者に対する廻向の思想はパーリ語経典『餓鬼事経』にもあるそうです。

私は、仏教は、生きる人のための教えだから、施餓鬼も追善供養もお盆も直接、「仏の教え」とは関係がないのではと思っていたのですが、この施餓鬼供養や追善供養という行為は、仏陀の教えでもあるのだそうです・・・。
いや、仏陀がそう言ったことにしたのかもしれませんが。

この教え、勘繰ると、僧の集団も次第に膨れ上がる仏教教団の台所事情を考えざるを得なくなった。比丘(僧・修行者)への施しを衆生(一般信者)に、どう納得して布施させることができるか・・・。と考えた挙句、この目連の母の話(お経)を創作したのでしょうか・・・。
「孟蘭盆経」は、梵語の原典はなく、中国生まれの偽経(ぎきょう)ともいわれていますので、この辺が、たぶん妥当な成り立ちだと思われます。

仏教教団のような大きな集団を運営・管理するということは、会費制では、真の仏の教えにそぐわないし、衆生信者の布施なしには、他に収入が考えられないから、故人や祖先への供養をしなければ故人が浮かばれないとすることで、少なからず強迫観念を植え付けたのではと思われます。
真の仏教を伝え説く為には、仕方ないと言えば仕方がないお話です。

ですから、現在では、真の仏の教えより、こういった在家と同じように、妻も子も財産もあり、ともすれば在家、衆生よりも裕福な職業僧や仏教者の懐を肥やしたり、寺の維持費そのものを捻出する手段としての追善供養や施餓鬼会が存在していることになっています。
また、今の老人の大半を占める団塊の世代や若い人たちには、葬式仏教が、ほんとうの仏教なのかな?と、疑問を持ち始めています。

やはり、盂蘭盆の行事や十三仏信仰のような追善供養の起こりの背景は、中国の道教や民俗信仰と祖先祭祀を背景に仏教的な追福の思想が加わって成立した儀礼・習俗である。ともいわれていますし・・・。よくわかりませんね。

私は、今、来年の展覧会に出品する為、涅槃図を描いています。
涅槃とは、痛みや不安、そしてすべての煩惱が、ローソクの火を吹き消すように、スーっと消え、魂が楽になることを言います。仏教徒の目指すべき最高の境智、状態です。仏教でいう死とは、おどろおどろしいものではなく、解放を意味します。
仏教徒の死は、涅槃を意味します。また、浄土宗や真言宗に阿弥陀来迎図も描いています。 阿弥陀と共に観音・勢至菩薩が来迎し、観音菩薩が故人が乗る蓮台を持参してくれます。蓮台に乗ってそのまま西方浄土へ旅立つことになっているのです。その条件は「南無阿弥陀仏」と、弥陀を信じることです。弥陀に全てを任せるのです。霊鷲山で仏陀が「無量寿経」を説いています。「観無量寿経」(当麻曼荼羅)にも同じことが描かれています。私は、こちらをもともとの真の仏の教えと理解しています。

今や、葬儀や追善供養等、それを執り行う在家は、一種の義務感や、もっと極端な言い方をすれば脅迫観念でそれ等供養をしています。仏陀の居た頃のような、本当の意味での出家した比丘や修行者は、今の日本には、ほぼ居ないのに・・・。

などと、母の死に際し、こんなことを、うだうだ考えています。


うだうだ | 16:44:02 | Trackback(0) | Comments(0)
ワシントンDCから、孫たちが一年ぶりに帰ってきました。
2019-6-3大阪国際空港にて
2019年6月3日午後8時頃、大阪国際空港到着ロビーにて


昨日、自宅を午後6時に出て、大阪国際空港まで、ワシントンDCの郊外、ベセスダに住む孫と長女を、妻と二人で迎えに行ってきました。ちょうど、一年ぶりです。

成田で入国手続きを済ませ、午後7時半に、到着したわけですが、成田には3時半ごろに到着していたそうで、成田で2時間ほど待っていたことになります。
その間、日本食に飢えていた孫たちはコンビニでおにぎりや海苔巻きなどを買い求め、貪り食ったそうです。
というのも、ワシントンDCのダレス空港~成田間の14時間30分のフライトでお世話になったユナイテッドエアライン(UA7941)の食事が信じられないほどまずくて、喉を通らなかったのだそうです。

孫たちと一年ぶりに会った、その開口一番が「ユナイテッドエアラインの食事が信じられないほどまずかった」なので、よほど酷かったのでしょう。
成田から大阪までのANA(NH2179)の食事には触れませんでした。可でも不可でもない並の軽食は出たのかな・・・。

で、いつものように、空港定番の「551の豚まん」と「たこ焼」きを買って、たまたま名神高速道路が、午後8時より夜間集中工事中で通れないので、下の176号線から171号線経由で自宅まで、ゆっくり、賑やかに帰って参りました。
渋滞は覚悟していたのですが、9時半頃には着きましたので、まあまあ順調に帰って来れました。

昼夜逆転で当分の間、体内時計が元に戻るまで大変ですが、今は3人共、疲れて眠っていることでしょう。
孫たちは、夏休みまでは、一年ぶりにお母さんの卒業した公立の小学校に通うことになっています。
その父親も、ビザの関係で2週間後にはやって来ます。

妻と二人だけの静かだった我が家は、今日から8月20日まで賑やかになります。
だいじょうぶかな・・・。


うだうだ | 09:25:13 | Trackback(0) | Comments(0)
令和元年、五月一日に想う
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令和元年五月一日、
今から思えば、平成元年は、仏画工房 楽詩舎が絵師集団として手探りで動き出した時です。
それまでの私一人だけの自由業で はなく、絵師集団として活動を始めて4、5ヶ月経った頃でした。

仏画の制作を生業にし出して4年ほど経った頃、仕事が忙しくなって一人では対応できなくなり、仕方なく仏画が描ける人を募集したのですが、描ける人は誰も来なくて、どうしても勉強したいという人だけが集まり、その中から最初は無給でも良いという人を向かい入れ、手ほどきをしながら、年上2名、同世代1名、それに年下2名の計5名の弟子たちと手探りで仕事を始めた頃です。
私が38歳の頃です。

その頃は、大原野の自宅の2階の12畳の洋室と8畳の座敷を利用して仕事をしていました。いづれも京間ですので結構広いのです。
自宅ですから、リビングや台所、それに冷蔵庫も共有スペースとなり、私が、桂の本澤先生のご自宅に内弟子として家族と同じように住み込んだ時の状態と同じです。

新しい元号の発表の当日、弟子たちと興味津々といったところでしょうか、一緒にテレビの前で発表を待っていたのをはっきり覚えています。
当時の官房長官だった小渕さんが「平成」と書かれたカードを掲げていた、あのシーンを思い出します。

今、新時代の幕開けだからということには意識はないのですが、私の体力と気力の衰えを鑑み、仏画工房 楽詩舎の中身を変えようといろいろ画策中です。
ですので、今までの仏画工房 楽詩舎の有り様を変えてみよう。つまり、今のこの時期を節目としようとしていますから、
平成時代は、仏画工房 楽詩舎の主なる部分の歴史でもあることになります。

今、我が工房で勉強をしている弟子の1人は平成生まれ。もう1人は仏画工房 楽詩舎が生まれた時に生まれ、仏画工房 楽詩舎とまったく同じ歴史を歩んでいます。

昨晩の私は22時には床につきましたから、わかりませんが、テレビではどこの局も、「平成の終わり」と「令和の始まり」を祝う番組で賑わっていたようです。
平成の大晦日といったところなのでしょうか・・・。
今朝も、数人から、年賀状のような挨拶のメールが届いています。

私は仕事でバタバタしていて新しい時代、「令和」が始まろうとしていることに対して、あまり意識していませんでしたが、改めて平成を思い出し、令和を想う時、一番に思い浮かぶのは、たぶん、この「令和」の時代に、私は、あちらの世界へ逝くことになるんでしょうね・・・(-_-;) 

「令和」、残された人生を目一杯楽しみたいのですが、なぜか、この先、「何か不穏な感じ」がするのです。
令和の時代、日本人が希望に満ちて、前に向かって揚々と歩んでいる様子がイメージできないのです。
私が朽ちていくこととは関係が無いように思うのですが、いづれにせよ、令和は、AIの出現で今までの価値観が通用しない、とんでもない時代になることは確かだと思っています。
AI時代への期待と不安が、ますますリアルに本格的になっていくのでしょう---。



うだうだ | 11:18:32 | Trackback(0) | Comments(0)
いろいろ思い出しています
ジープと楽詩舎の看板
大原野北春日時代の工房と、今は朽ち果てた手作り看板(2003年頃)


年頭に今年こそ仏画の本を作ろうと、意気込んでいたのですが、「はじめに」の序文を書き始めてもう3か月が過ぎようとしています。
どんな紙の本にするかは、だいたいイメージが固まりつつあるのですが、やはり、仏画工房・楽詩舎の備忘録的な本になりそうです。
文章を書くのは早い方だったのですが、最近、年のせいか集中力に欠け、思考があちこちバラバラになってしまいます。
キーボードもなんだかうまく打てなくなっています。左右の人差し指二本での入力は、よく他のキーにひっかかるのです。
年のせいかな・・・?いや、これはやはり、キーボードが古いせいかもしれません。またアマゾンでポチらないといけません。
書き始めると、乗ってるときはスムーズに書けるのですが、あれもこれもと、書きたいことが次から次へと頭に浮かんできます。
とりあえず、思いついたことを書きなぐっているのですが、仏画工房・楽詩舎の初期から今までの出来事・・・。いっぱいあります。
楽詩舎の名前の由来は、当時、工房にしていた自宅に大きな柿の木があったので柿が落ちる舎ということで嵯峨の「落柿舎」の音に倣ったわけです。
やはり仕事を楽しくしたいということから、いつも楽しい詩が生まれるような、そんなイメージでつけたのです。
昔を振り返えろうとしますと、楽しかったことはほとんど頭に浮かばず、「楽」の字からは程遠い、苦しかったことや辛かったこと、眠れなかったこと等が思い出されます。
仏画がうまく描けなくて悩むというより、その原因のほとんどが、弟子として向かい入れた若者の「人としての業」との付き合いだったように思います。
心変わりや気づきで辞める人は仕方ないとしても、私から辞めろと言って辞めさせたのが4人。そして、志半ばで泣く泣く辞めなくてはならなくなった弟子が6人ほど・・・。その一人一人の顔が浮かんできます。
そして、私にはその若者の苦しみが、未だに理解できず、また自分の内で処理出来ずに心の奥にひっかかっています。
志をあきらめ、中途で辞める弟子の気持ちは、私には経験がないので、わかりません。
私の弟子生活の中で辞めたいと思ったことが一度もなかったし、仕事も来るものはすべて引き受けてきました。ただ、ただ、突っ走て来たように思います。
だから、辞めた彼らを理解できないのかもしれません。
途中で辞めた人は、とうの昔に忘れているのかもしれませんが、彼らに真剣に向かい合ってきた私はその時の弟子の疲れた様子を忘れていません。
この本に書くかどうかは、まだわかりませんが、仏画工房・楽詩舎の歴史を振り返る時、今もこうして思い出しています。
このまま、墓場まで持って行くのか・・・、私も年のせいか、今頃になって疲れが出てきたようです。
今度は、私の辞める番かもしれません。ホームページにも今年から弟子は募集しないことを宣言しました。
弟子やスタッフを受け入れないということ。これは、このまま行きますと今までの形態での「仏画工房・楽詩舎」が、近い将来、幕を閉じることを意味します。
仏画工房 楽詩舎を立ち上げた時に自分で作った杉板の表札と案内看板。これが、自然に朽ち果てる頃までこの仕事を続けよう。これが当初の目的でしたから、二つの手作り看板のうち、一つはもうとうの昔に朽ち果てていますし、今の仏画館の外に吊るしてあった道しるべの看板も紐をひっかける穴が風化する寸前で、今いる弟子が育つまでもう少し続けようか・・・と、去年、現在の工房のある仏画館の玄関の中に吊るしています。
こんなことから、いろいろ思い出に耽りながら執筆していますので、最初で最後の出版になる「本」の序文に、あれこれ手間取っているのです。

うだうだ | 10:55:09 | Trackback(0) | Comments(0)
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