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LGBT問題 を考えてみたが・・・
abema.jpg

世の中には、自分が理解できないことがいっぱいあると思うのですが、 このLGBTという私が最も理解しにくい問題について、この動画(番組)を観たことによって一視聴者である私も、しっかり考える機会を得ることができましたし、その意味で、私は良い動画を観たと思っています。(※リンクしておいた動画が削除されたようですので、その動画のキャプチャー画像を張り付けなおしておきます。)


 この問題を、私の中で整理するにおいてこの動画中で、文芸評論家の小川榮太郎氏も言っておられたように、杉田水脈さんの言う、人口問題や日本民族の文化、習慣である政治的文化的な視点と、今まで私が意識しなかった根源的な現代人の性の問題について、別々に思考しないと意味がないような気がします 。つまり話がこんがらがり、分かりにくくなると思います 。

この問題の本質は、いったい何なのだろう・・・。

なぜ、杉田氏の論文やそれを掲載した新潮45が、ヘイトなのでしょうか? マスコミの反対派へのインタビューで、よく聞く「謝罪しろ!」要求など、疑問は自分の中で沸騰し出します。

LGBTの人たちを理解できないことが、差別なのだろうか・・・。

でも、理解できない人を責めることはできないはずだし、もしかしたら逆差別という論法にも陥るし、泥沼喧嘩状態となります。
この番組中でも、多少その傾向があったように思います。

で、まずは政治的な問題として、また日本の文化の問題として、事の発端となった国会議員の杉田水脈さんが書いた全文を読んでみることにします。

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新潮45 2018年08月号 [雑誌] 新潮社  

杉田水脈著『「LGBT」支援の度が過ぎる』

 この1年間で「LGBT」(L=レズビアン、G=ゲイ、B=バイセクシャル、T=トランスジェンダー)がどれだけ報道されてきたのか。新聞検索で調べてみますと、朝日新聞が260件、読売新聞が159件、毎日新聞が300件、産経新聞が73件ありました(7月8日現在)。キーワード検索ですから、その全てがLGBTの詳しい報道ではないにしても、おおよその傾向が分かるのではないでしょうか。
 朝日新聞や毎日新聞といったリベラルなメディアは「LGBT」の権利を認め、彼らを支援する動きを報道することが好きなようですが、違和感を覚えざるをません。発行部数から言ったら、朝日新聞の影響の大きさは否めないでしょう。
 最近の報道の背後にうかがわれるのは、彼ら彼女らの権利を守ることに加えて、LGBTへの差別をなくし、その生きづらさを解消してあげよう、そして多様な生き方を認めてあげようという考え方です。
 しかし、LGBTだからと言って、実際そんなに差別されているものでしょうか。もし自分の男友達がゲイだったり、女友達がレズビアンだったりしても、私自身は気にせず付き合えます。職場でも仕事さえできれば問題ありません。多くの人にとっても同じではないでしょうか。
 そもそも日本には、同性愛の人たちに対して、「非国民だ!」という風潮はありません。一方で、キリスト教社会やイスラム教社会では、同性愛が禁止されてきたので、白い目で見られてきました。時には迫害され、命に関わるようなこともありました。それに比べて、日本の社会では歴史を紐解いても、そのような迫害の歴史はありませんでした。むしろ、寛容な社会だったことが窺えます。
 どうしても日本のマスメディアは、欧米がこうしているから日本も見習うべきだ、という論調が目立つのですが、欧米と日本とでは、そもそも社会構造が違うのです。
 LGBTの当事者たちの方から聞いた話によれば、生きづらさという観点でいえば、社会的な差別云々よりも、自分たちの親が理解してくれないことのほうがつらいと言います。親は自分たちの子供が、自分たちと同じように結婚して、やがて子供をもうけてくれると信じています。だから、子供が同性愛者だと分かると、すごいショックを受ける。
 これは制度を変えることで、どうにかなるものではありません。LGBTの両親が、彼ら彼女らの性的指向を受け入れてくれるかどうかこそが、生きづらさに関わっています。そこさえクリアできれば、LGBTの方々にとって、日本はかなり生きやすい社会ではないでしょうか。
 リベラルなメディアは「生きづらさ」を社会制度のせいにして、その解消をうたいますが、そもそも世の中は生きづらく、理不尽なものです。それを自分の力で乗り越える力をつけさせることが教育の目的のはず。「生きづらさ」を行政が解決してあげることが悪いとは言いません。しかし、行政が動くということは税金を使うということです。
 例えば、子育て支援や子供ができなカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。にもかかわらず、行政がLGBTに関する条例や要項を発表するたびにもてはやすマスコミがいるから、政治家が人気とり政策になると勘違いしてしまうのです。

 LGBとTを一緒にするな

 ここまで私もLGBTという表現を使ってきましたが、そもそもLGBTと一括りにすることが自体がおかしいと思っています。T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させて行くのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。
 一方、LGBは性的嗜好の話です。以前にも書いたことがありますが、私は中高一貫の女子校で、まわりに男性はいませんでした。女子校では、同級生や先輩といった女性が疑似恋愛の対象になります。ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。
 朝日新聞の記事で「高校生、1割が性的少数者」という記事がありました(3月17日付、大阪朝刊)。三重県の男女共同参画センターが高校生1万人を調査したところ、LGBTは281人で、自分は男女いずれでもないと感じているXジェンダーが508人。Q(クエスチョニング=性的指向の定まっていない人)が214人いて、合わせて1003人の性的少数者がいたというものです。それこそ世の中やメディアがLGBTと騒ぐから、「男か女かわかりません」という高校生が出てくる。調査の対象は思春期の不安定な時期ですから、社会の枠組みへの抵抗もあるでしょう。
 最近の報道でよく目にするのは、学校の制服問題です。例えば、「多様性、選べる制服」(3月25日づけ、大阪朝刊)。多様な性に対応するために、LGBT向けに自由に制服が選択できるというものです。女子向けのスラックスを採用している学校もあるようです。こうした試みも「自分が認識した性に合った制服を着るのはいいこと」として報道されています。では、トイレはどうなるのでしょうか。自分が認識した性に合ったトイレを使用することがいいことになるのでしょうか。
 実際にオバマ政権下では2016年に、「公立学校においてトランスジェンダーの子供や児童が“心の性”に応じてトイレや更衣室を使えるようにする」という通達を出しました。先ほども触れたように、トランスジェンダーは障害ですが、保守的なアメリカでは大混乱になりました。
 トランプ政権になって、この通達は撤回されています。しかし、保守派とリベラル派の間で激しい論争が続いているようです。Tに適用されたら、LやGにも適用される可能性だってあります。自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です。
 最近はLGBTに加えて、Qとか、I(インターセクシャル=性の未分化の人や両性具有の人)とか、P(パンセクシャル=全性愛者、性別の認識なしに人を愛する人)とか、もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。
 オーストラリアやニュージーランド、ドイツ、デンマークなどでは、パスポートの性別欄を男性でも女性でもない「X」とすることができます。LGBT先進国のタイでは18種類の性別があると言いますし、SNSのフェイスブック・アメリカ版では58種類の性別が用意されています。もう冗談のようなことが本当に起きているのです。
 多様性を受けいれて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、親子婚を認めろ、それどころか、ペット婚、機械と結婚させろという声が出てくるかもしれません。現実に海外では、そういう人たちが出てきています。どんどん例外を認めてあげようとなると、歯止めが効かなくなります。
 「LGBT」を取り上げる報道は、こうした傾向を助長させることにもなりかねません。朝日新聞が「LGBT」を報道する意味があるのでしょうか。むしろ冷静に批判してしかるべきではないかと思います。
 「常識」や「普通であること」を見失っていく社会は「秩序」がなくなり、いずれ崩壊していくことにもなりかねません。私は日本をそうした社会にしたくありません。

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弱者を盾にする欺瞞
杉田水脈氏の『「LGBT」支援の度が過ぎる』は、騒がれ始めたころに読んだ。が、どこが問題なのか・・・。先入観なしの一読では、私には率直なところ、何が問題なのかわからなかった。
読んだ後に、ネットでいろいろ調べてみると、文中で使われている生産性という言葉が 論われています。
もちろん、税金は生産性という観点では救えない弱者に 割り当てられる機能もありますし、そんなことを杉田氏が否定したり知らないはずはないだろうし、杉田氏は概して 弱者の名のもとにおけるマスコミの異常な同調圧力それらと連動しながら強化されてきた戦後の様々な 弱者利権が、しばしば外国による日本侵略工作と繋がっている事の深刻な外力と戦ってきた人です 。
杉田氏は、弱者に一言、必ず 阿らねば発言も許されないような、マスコミの戦略的抑圧の危険な裏を暴き続けて来た人でもあります。
平和ボケで日本人としてのアイデンティティを失いかけた 今の日本人には必要な人でもあります。
その人があえて、世に問う文章が辛口になるのは当然でありましょう。
『弱者』を縦にして人を黙らせるという風潮に対して 、政治家も言論人も、皆非常に臆病になっています。
朝日新聞を叩く、嫌韓本を書くとなれば 一定のメンバーが喜び勇んでその言論戦に馳せ参ずる。手堅いマーケット=支持層があり安全地帯から どれだけ敵を、悪し様に語っても許せる構図が確立しているからだ。
こうした構図のできている 「プロレス型言論」と本当に同調圧力を跳ね返してでも、言うべきことを言うことは似て非なることです。
孤立してでも同調圧力と戦う政治家や言論人となれば、微々たるものです。
その中で杉田氏には、多くの人が内心共感しつつも黙らせられているテーマについて果敢に発言する珍しい蛮勇が居ます 。
そして、今の同調抑圧社会では、私は政治的にスマートな政治家よりも真の政治的蛮勇を持つ政治家の方が はるかに貴重だと思う。(概略)

と、番組中の、小川榮太郎氏の書かれた杉田氏の思いを擁護する文面もネット動画の中のテロップにありました。
私の感想もまったく氏と同じです。

杉田氏やその擁護記事を載せたということで、「新潮45」という雑誌も休刊(廃刊?)に追い込まれたそうです。
言論を擁護する立場の出版社が、記事掲載1週間で、休刊・・・?。

なんだか、強引に日本人の価値観をゆがめようとする空恐ろしい力を感じてしまいます。

https://www.youtube.com/watch?v=D7piJT4YiFc この動画、視聴回数を更新しますと、ものすごい勢いで視聴されていることが分かりますが、やはり、この一連の「新潮45」杉田論文掲載から休刊までの動きに不信感を抱いている鋭い感覚をお持ちの人がいるのでしょう。
 
LGB(T)など今まで表に出てこなかった秘められた性そのもについて、たぶん、私は今後も理解できないと思います。
でも、理解できないから受け入れられないということでありません。少数派または、弱者の孤独感は理解できますが、だからといってそういった類の人たちを差別する感覚も持ちあわせておりません。
個人はそれぞれ違って当たり前。その違いを認め合って、はじめて平和なコミニュティが維持できるのではと思います。

少数派や弱者を理解できないことを、少数派や弱者が支援者(今回の場合は反日左派勢力)と一緒に徒党を組んで声を揃えて「ヘイトだ!」と言われれば、これはもう暴力です。
どうも、今回の件も、反日左派勢力の支援の存在、小川氏の言われる、「弱者を盾にする欺瞞」、やはりこれが問題の本質のような気がします。
少数弱者を盾に、党員を増やす手法は、左派のやり方。
今回も、立憲民主党の党首はLGBTの人から議員候補者を選ぶとLGBT擁護団体の前で公言しています。
もともと日本の文化には、LGBTに対して差別感はなく、秘め事として認め合っていたのに、わざわざ波風をたてて、LGBTを理解できない人は悪。LGBTを理解し彼らの人権を認める人は善。という構図を無理やり作って選挙戦を戦い、善が悪に勝ったように自画自賛する構図。
杉田氏は、こういった意味のない不毛の現象に対して国庫が使われることを懸念したのでしょう。
沖縄の基地移設反対のデモ、安倍政権批判のデモ等と同じように、こういった印象を持ちました。

ただ、少子高齢化が進むこの日本の危機状態を、どうやって切り抜けるのか、これは国の施策、システムの問題なので政治のやり方、方法論です。
その政治を受け持つ国会議員が、数百万人居るとされるLGB(T)の方たちの存在に問題があるのならば、その問題点を深く掘り下げ考えるのは当然のことで、深く考えない国会議員が居ることのほうが、むしろ問題であるように思うのです。

人口問題は、いづれAIの進歩で何とかなると楽観視していますが、近い将来、ロボットと一緒に夫婦のように、仲良く暮らせる時代が来ると思います。子どもは産めませんが、ロボットは生産ラインで次から次へと生産されますから、今回のLGB(T)問題など、どうでもよいことになります。(^o^)

https://www.youtube.com/watch?v=AmCZeXNgGVc にも、若い世代に私の気づきとは、少し違う種類の分析がなされているようです。


うだうだ | 16:00:15 | Trackback(0) | Comments(0)
今日から、また老いた夫婦二人だけの生活が始まります・・・・。
2018-08-01from TRONT
エアカナダの食事が合わないからと、伊丹空港で買っていった柿の葉すしを食べるのかな


6月4日より昨日7月31日まで帰省していた、長女とその子供たちが、昨日の午後3時、半日休暇をとり大阪から直接空港に来た長男家族と我々夫婦に送られ、大阪国際(伊丹)空港を飛び立ち羽田国際空港からエアカナダで飛び、先ほどカナダのトロントに着いたようです。 写真付きラインで知らせて来ました。

あと一時間ほどでワシントンのレーガンナショナル国際空港に向かい、現地時間の22:30(日本時間10:30)に到着するそうです。
そこに先に帰った旦那が車で迎えに来ていますので30分~40分で家に到着ということになります。
日本時間では、今日の11時~12時に自宅に到着することになります。
京都の私の自宅を車で送って出たのが、昨日の11時ですから、京都の家からワシントンの家までの所要時間は24時間必要ということになります。
たぶん、長女は、たくさんの日本食の詰め込み荷物と幼い子供二人を抱えて、くたくただと思いますが、ご苦労さん!

で、私の家はといいますと、嵐の後・・・・。
子供たちの服が忘れて洗濯物に混ざっていたり、放してあげましたが、カブトムシの籠がそのままだったり、食べ散らかした食事の後など、まだ、孫たちがどこかの部屋に居るような気配がしています。
昨晩は、さすがの妻も、夕食後ソファーで爆睡して、その長い孫たちの滞在期間の疲れを癒していました。

今日から、また老いた夫婦二人だけの生活が始まります・・・・。

いや、今年からは、大阪から長男家族が一歳になった孫を抱え、毎土曜日来てくれることになっていますので、二人だけの生活といった寂しいものではありません。
家族皆、無事に生かされていることに、感謝せねばなりません。



うだうだ | 09:44:30 | Trackback(0) | Comments(0)
日本の原風景を忘れないで
2018-06-24大原野にて
自宅近くの大原野の夕暮れ この日本の原風景を忘れないで欲しい


今月の4日からワシントンDCに住む長女家族が帰って来て、妻と二人だけの家が2年ぶりに、にぎやかになっています。
長女の旦那さんは仕事の都合で1週間ほど後に来て、23日には帰りました。
長女と子供二人は7月31日まで居るそうです。

一週間に一度、大阪に住む長男家族も来るのですが、その時は、我が家のリビングは、もう足の踏み場もなくなります。
9歳と6歳の孫たちは、長女の、「子供たちが日本を忘れないないで」という願いを込めて、帰国前に、近くの公立小学校へ通わせる手続きをしました。
2年ぶりで、しかも短期ですが、長女の通った小学校にお世話になっています。
文科省は、日本人の愛国心を育てるように短期帰国子女にも受け入れをしているそうです。

その孫たちは、日本のテレビを観るのは良いのですが、やはり、NHKのEテレでほとんど毎日放送しているアメリカの中学校の学園コメディ、「ゲームシェイカーズ」を喜んで観ています。
日本語放送をわざわざ英語に戻して楽しんでいます。
今や、孫たちは英語のセリフの方が、その内容がリアルに伝わるということのようです。

そういう意味でも、2年に一度ですが、短期の日本の小学校留学は有意義なのかもしれませんが、なんだか、これで良いのかなぁ・・・。
と、我が孫の行く末をちょっぴり心配する私なのです・・・。


うだうだ | 17:07:07 | Trackback(0) | Comments(0)
四万十~いのちの仕舞い


2010年にNHK教育の長寿番組「心の時代」に出させていただいたことがあります。
その時に、2週間ほどだったでしょうか私の仕事や日常の一コマを撮っていただいたて、古い写真等を挿入して私のそれまでの半生を、「仏を描く 祈りを描く」という1時間番組の為にすべての編集を担当されたのが、溝渕雅幸監督です。

先日、私の唯一所属する団体「仏教クラブ」の例会で「いのちの講演家」といわれる岩崎順子さんに講演していただきました。
クラブのホームページの管理人でもある私は、お話の全てを書き起こして、いつものようにそのホームページにアップしたのです。
そのページが、Facebookの岩崎さんのページにリンクされると、お友達の多い岩崎さんですから、その仏教クラブの講演をまとめたページへのアクセス数が通常ではあり得ない数字をたたき出しました。
Facebookでは、その話題で盛り上がっている様子が伝わってきます。
そんなおり、岩崎さんのお友達である溝渕雅幸監督が発言され、「書きお越しをされた藤野正観さんを撮ったことがある」とのこと。
その発言に思わず、私も懐かしさのあまりお話の中に入りました。
岩崎さんと同じように監督とお友達のご縁を結んだのですが、やはり、ネットは、忘れかけていた人を再び繋いでくれるんですね。

友人関係になると、岩崎さんや溝渕監督の動きが手に取るように分かるようになるのがFacebookです。
岩崎さんが、溝渕監督の最新作、映画「四万十~いのちの仕舞い」の上映で、監督とトークショウをされるようです。
うん?どういう関係?と疑問があったのですが、何れにせよ、溝渕監督の最新作が、「いのち」や「看取り」「人生の終末」にスポットを当て、四万十で在宅介護で看取りを支援する内科医小笠原望先生の日常と美しい四万十の四季折々の景色をふんだんにとりいれて作られた映画のようです。即座に観たいと思いました。
私を撮ってもらった時はわずか2週間ほどのお付き合いだったのですが彼の映画に対する思いを聞いたことがあります。
「お釈迦さんの映画、作ってよ」と本気半分冗談半分で言っていたことを思い出しました。

その彼が、撮った映画を、先日の日曜日、京都シネマまで観に行ってきました。
小笠原先生の日常と在宅介護という医療現場を丁寧に取材され、劇場のお二人のトークショウでも言っておられたように、出演といいますか出ておられる人たちの生の声がごく自然で、あの長い棒の先に着いた大きなマイクの存在を出演者が意識しておられないので、不思議なぐらいでした。
これも監督の「技」なんでしょうか、実は私の時も不思議と緊張しなかったのです。

そのせいか、映画を観る私が、その場所に居るかのように自分自身の実体験として生々しく記憶に残ることと思います。
また、監督の温かい目線で撮られた四万十の四季折々のドローン撮影も含めた美しい景色も最高でした。
京都シネマのスクリーンサイズがもう少し大きければもっと迫力あったと思うのですが、ちょっと残念でした。

トイレの近い私は、上映とトークショウが終わるとすぐさまトイレに駆け込み、そのまま阪急電車に飛び乗りました。
帰宅後、Facebookのメッセンジャーで、監督より即座にお礼のコメントを頂いたのにはびっくりしましたが、監督と小笠原先生のトークショウで明るくなった満席の劇場の一番後席中央に座わっていた私に気付いて頂いたのだと思いますが、その返事にこう書きました。

「帰る電車の中で、自分の終末はどんな終末なのだろう・・・。と考えてしまいました。
たぶん、今後も続くであろう私の医療環境では、目前に迫った終末期が、苦しい検査と治療の繰り返しで、地獄のように思えて来ます・・・。小笠原先生の居る四万十に、移住しようかと思ってしまいます(^o^) 
記憶に残る素晴らしいドキュメンタリー映画でした。ありがとうございました。また良い作品撮って、観せてください。」と。



うだうだ | 12:16:07 | Trackback(0) | Comments(0)
図案家のルーツ
先日、ふとしたことから、明治期に活躍した図案家の名前を目にしました。
飯田始晃という図案家で、私の師と同世代である大先輩の師ということです。 興味を持って、ネットで調べますと、アマゾンで「飯田始晃筆 小倉百人一首」という古本が売っていました。ポチッとすると、3日後には我が工房に届きました。古本なので、宮崎県の古書店からの郵送でした。それでも、早いものです。
さっそく、この本を開きますと、昔、私も勉強したことのあるあらゆる古典といいましょうか伝統的な絵画が懐かしいタッチでそれぞれの歌に沿って描かれています。我が国の伝統絵画で装飾されたこれもまた国の代表的文学である「百人一首」。
美しい本です。

その本の末頁に、解説があり、私の「仏絵師」としてのルーツである「図案家」の歴史にも触れてありましたので、あまり、世に知られていない京都における図案家という職業絵師の成り立つに至った歴史の一端をネット上に残す意味で、OCRで読み取り、その部分となりますが以下に記録しておくことにします。


飯田始晃筆 小倉百人一首歌絵    
藤井健三(染織研究家)解説より部分 芸艸堂発行

iida


近代の王朝美と図案家・飯田始晃

 明治初めの染織図案の発展は、友禅染下絵を手掛けた日本画家の岸竹堂榊原文翠今尾景年らをはじめとした日本画家らによって形作られるようになった。
維新後の経済成長に伴って、多くの国民による絹繊維の利用ときものの普及が友禅模様図案の需要を増し、急成長した手描友禅や型友禅染の発展が、多量の図案を必要としたのだった。
また一九〇〇年に開催されたパリ万国博覧会の影響から海外の意匠図案が注目されて、美術や流行性の高い図案が求められだしていき、そこから現役の画家ばかりでなく美術学校を出た優秀な人材が図案家として育っていった。
こうした有能な図案家に京都の丸紅伊藤忠合名会社の意匠部で、裾模様を描いていた山本雪桂がいる。
雪桂は京都生まれで先輩の古谷紅麟雪山兄弟を師として、独特な京都風の図案を完成していた。
紅麟と雪山兄弟は近代琳派を創世した工芸図案家の神坂雪佳の弟子であり、雪桂もその孫弟子となって近代琳派の図案家として活躍する。ただ紅麟が雪佳の画風を得て美術工芸風だったのに対し、雪桂は産業的な独自の近代琳派を表していった。

 この山本雪桂に就いた図案家の一人に飯田始晃がいた。
始晃は明治ニ十九年に大阪で生まれ、幼い頃に京都へ移って育ち、書画に特別な才覚をみせていたという。成人後は別府市に移って絵画教師になるが、大正九年に再び京都に戻って山本雪桂の門に入塾し、図案家を志して日本画と友禅図案の技術を修得する。
その頃に、雪桂の弟子達が集まって設立したのが「桂友同机会」であり、雪桂を顧問に始晃を始めとして河原崎晃洞、磯田存在、宮川叢平、都路帖陽、下倉不宵、宮川麗明、竹内雪華、中川巌らがいた。「社友同机会 第一-三〇」、「秋物服飾図案創画集」、「創苑帖」、『四季花卉の巻一-一○輯』、「源氏模様」、「創華集」、『新考能楽模様』といった人気の図案書を多数刊行した。

 この桂友同机会でとくに活躍したのが始晃と河原崎晃洞(奨堂)であり、師の雪桂が優雅で鷹揚な図案を著したのに対して、弟子の二人は繊細優美で技巧的な図案を得意としていた。独立後の始晃は昭和三年に「晃友会」を組織して、『晃友』、『方圓帖』を刊行して独自な図案世界を確立していった。
そうした析、始晃は昭和七年に佐々木信綱著の著す『百人一首講義』を読んで特別な想いをすることとなり、独白の絵風で百人一首の歌絵を描きたいと発念して製作にかかる。
早くも、昭和十年に描き上がった一部を極彩色摺りの木版画で『小倉のにしき』と題する第一巻を芸艸堂から刊行し、昭和十二年に構想より五年有余を経て全五巻を完結する。

飯田始晃の『小倉のにしき』

 始晃が『小倉のにしき』を著した昭和十一年頃は第二次大戦を控えた五年前で、日中関係のみならず世界との関係が一段と深刻になっていった時期である。
満州事変を経て中国北東部満州に傀儡政権を作って大陸への侵略を進めようとしていたし、天皇機関説が唱えられたり二・二六事件があって国情が騒然としていた。社会政党もファッショ化を進めて世に軍国の風潮が増して国際連盟の脱退へと進んで国政が極右へと傾いていた。
また昭和初期はプロレタリア文学が退潮して、文芸復興の波のもとに耽美的なロマンス文学が喜ばれだしていたし、絵画の世界も新時代の後期印象派やキュビズム(立体主義)、フォービスム(野獣派)といった西洋の流行を受けて洋画界が独自な新世界を開いていった。
一歩リードする洋画界を倣って洋行によってのみ新しい境地を模索していた日本画の世界は、日中戦争を間近にして自らの立場を捕らえかねて動揺していたのだった。
世の動きと共にそれは洋化から和様へと方向転換を見せ、古典の東洋絵画や歴史画の復活へと向いていったのである。

 欧米から渡ってくる大胆なモダン意匠に洗脳されながらも、戦争を目前に右傾化していく国民感情の狭間で、歴史画や古典美術、伝承図案が回帰していく様了が見られた。
洋風のみを由としない和装の図案家達が、王朝風の描写や花模様で美的感性を際立たせていたのであって、そんな古典文様をモダンな明るい色調で、流行の大胆さを明快に表した和様図案が作られた時期だった。
また、こうしたモダンと伝統の極端が入り交じる図案界の流行事情を受けて、日本画や洋画はややもすると古典的な表現にのめり込まざるを得ない時代感があった。
始晃自身も絵画性の強い美を図案に求めて、歴史と文学性のある華やかな王朝美を現代感覚で表そうと試み、有職故実を踏まえた自然な写生描写で描いた。
ただ始晃の著した「小倉百人一首歌絵」は、図案というよりは絵画の意識で描かれたのはいうまでない。

 またこの頃に風俗的ではあるが、関西の宝塚少女歌劇団の俳優名の多くが『百人一首』に因んで命名されている。
歌劇団開設の大正二年から戦前までの人勢が、そして以降も多く見られる。
年配者の知る「雲井浪子」や「天津乙女」「小倉みゆき」「霧立のぽる」、戦後でも「神代錦」「淡島千景」「越路吹雪」「小夜福子」「存口野八千代」らがいる。大正から昭和前期とはそんな風だった。
 始晃の『小倉のにしき』には特徴のある絵様が幾つか指摘できる。
その一つは「道長取り」などの継ぎ紙装飾による意匠構成であり、二つに古典の装飾経に見る模様表現や山水屏風に貼付される色紙取り、また絵巻や絵伝の風景の図法など古典的な図画技法の応用がある。
こうした執拗な古典画に対する技法研究が知れる。

 道長取りの継ぎ紙装飾による構成は、天智天皇、柿本人麿、光孝天皇、在原業平、藤原敏行、中納言兼輔、壬生忠見、清原元輔、藤原道信、儀同三司母、和泉式部、紫式部、源俊頼、後京極摂政前太政大臣の図に見られ、十四図以上に及んでいる。また古典の装飾経や装飾色紙、粘葉装冊子に見られる繊細華麗な模様表現は、持統天皇、猿丸太夫、三条右大臣、皇嘉門院別当の図に窺え、さらに山水屏風に貼付される色紙の構図は、山部赤人を始めとして多くに見られる。
絵巻や絵伝の風景の図示法による図は、中納言家持、喜撰法師、素性法師、菅家、源宗于、壬生忠岑、恵慶法師、右大将道綱母、大納言公任、崇徳院とすこぶる多い。源氏絵や大和絵の描法は、阿倍仲麻呂、小野小町、僧正遍昭、伊勢、藤原義孝・実方、儀同三司母の図に見られる。

 他にも浮世絵風や蒔絵調もあり、『源氏物語絵』から引いた図柄や狩野派風の絵もある。近代では幸野楳嶺や今尾景年らの巨匠画家の絵を彷彿させるものがあり、同僚の河原崎晃洞の図案さえも思わせることがあって、参考や応用する于本の範囲が限りなく広い。
 『小倉のにしき』で始晃がこうした技法を駆使するのに参考にしたのが、『西本願寺三十六人家集』や『平家納経』、『佐竹本二十六人歌絵』である。
『西本願寺三十六人家集』は藤原公任が撰んだという三十六歌仙の家集を集めたもので、三十六人集の古写本でもっとも古く、書は藤原定実・定信親子ら二十人ほどの能書家の筆になり、料紙の美しさと併せて平安後期を代表する工芸品である。
全体で三十九帖が西本願寺に伝えられるが、伊勢集と貫之集が粘葉冊子の形を解体して、昭和四年に一葉づつの断簡に分割されて好事家の手元に割愛されて話題になった。
約六十種類に及ぶ文様の装飾唐紙や羅紋紙をはじめ、紫や紅、藍色紙や量し染をした染紙をちぎって継ぎ合わせる継紙装飾は、この上ない優美で華麗なものであった。
当時に印刷物で紹介されたのを利用したのだろうし、この継紙技法は染織図案に応用されて、「道長取り」と呼ばれて今日の染織意匠の代表にもなっている。

 始晃が『小倉のにしき』を手掛けるのに好機といえる『西本願寺木』の公開があったからこそで、その意匠が『小倉のにしき』に、ふんだんに応用されている。また、佐竹家に伝えられた似絵の画人藤原信実が描いたといわれる『佐竹本三十六人歌絵』が、その前の大正八年に各歌仙が切断されており、これなども始晃の図案資料として重要なものとなっている。
さらに、木版技術や印刷技術がさらに発達して『平家納経』や各種の絵巻、絵伝が模写や模刻、印刷されるなどして、『小倉のにしき』を描くに十分な態勢が世の中に見られたのである。
『平家納経』の金勧を使った優美な砂子に切箔や野毛箔の技法が、「小倉のにしき」の歌絵に華麗に再現されているのである。              (染織研究家)

参考本 『だれも知らなかった《百人.首》』 吉海直人 春秋社




神坂 雪佳(かみさか せっか、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和17年(1942年)1月4日)
近現代の日本の画家であり、図案家。京都に暮らし、明治から昭和にかけての時期に、絵画と工芸の分野で多岐にわたる活動をした。本名は吉隆(よしたか)。
京都御所警護の武士・神坂吉重の長男として、幕末の京都・栗田口(現・京都市栗田口)に生まれる。1881年(明治14年)、16歳で四条派の日本画家・鈴木瑞彦に師事して絵画を学び、装飾芸術への関心を高めたのちの1890年(明治23年)には図案家・岸光景に師事し、工芸意匠図案を学ぶ。琳派の研究を始めたのはこの頃であった。1901年(明治34年)には、イギリスのグラスゴーで開催されたグラスゴー国際博覧会 (Glasgow International Exhibition) の視察を目的とし、世界各地の図案の調査を兼ねて渡欧。当時のヨーロッパではジャポニスムが流行し、日本美術の影響を受けたアール・ヌーヴォーが花開いていた。神坂もそこで日本の優れた装飾芸術を再認識したという。 琳派に傾倒し、デフォルメ、クローズアップ、トリミングを用いた大胆な構図や「たらしこみ」の技法など、琳派の影響を受けながらもモダンで明快な作風である。染織や陶芸・漆芸など暮らしを装う工芸品の図案も積極的に行った。蒔絵師の神坂祐吉は雪佳の実弟で、雪佳が図案した作品も多い。 1942年(昭和17年)1月4日、77歳で死去した。

鈴木瑞彦(すずき ずいげん1848-1901)
日本画家。京都生。号は文昇・松夢斎。画は塩川文麟に、詩文は市村水香に学んだ。内国絵画共進会や内国勧業博覧会などで褒状を受賞。のちに京都美術学校の教授として後進の育成に努めた。明治34年(1901)歿、54才。

岸光景 (きし-こうけい1839-1922 明治時代の図案家)
天保(てんぽう)10年9月15日生まれ。父岸雪にまなび,土佐派,琳派(りんぱ)などの影響もうける。内務省,大蔵省の製図掛となり,図案の改良にあたる。石川県や京都などの陶業・漆業地で図案を指導し,香川県に工芸学校を設立するなど,美術工芸の振興につくした。
帝室技芸員。大正11年5月3日死去。84歳。江戸出身。号は無宗。

岸竹堂(きし ちくどう 1826年5月28日生まれ: 滋賀県画家)
岸 竹堂は、日本の幕末から明治時代に活躍した日本画家。幼名は米吉、名は昌禄、字は子和、通称は八郎。竹堂は号で、他に残夢、真月、虎林、如花など。岸派の4代目で、明治期の京都画壇で、森寛斎、幸野楳嶺とともに3巨頭の1人に数えられた画家である。 ウィキペディア

榊原文翠(さかきばら ぶんすい日本画家。江戸生 明治42年(1909)歿、86才)
幕臣榊原長基の子。幼名は芳太郎、名は長敏、別号に佳友・鶴松翁・気揚山人。初め谷文晁の門に入り、のち大和絵を描く。有職・歴史的人物画を能くする。京都に住した。


今尾景年(いまお けいねん 画家 1845年9月13日~ 1924年10月5日, 京都府 京都市)
今尾 景年は、日本の明治から大正にかけて活躍した四条派の日本画家。幼名は猪三郎、のち永観。字は子裕。景年は画号で、別号に三養、聊自楽、養素斎。 色彩豊かな花鳥画を得意とし、「綺麗濃褥」と評された。 ウィキペディア




うだうだ | 10:18:48 | Trackback(0) | Comments(0)
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