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スリー・マハー菩提樹直系の菩提樹、育ってます!
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今日は、2500年ほど前に、北インドの小さな国、シャカ国の王子ゴータマ・シッダータという青年が、ガヤの地を流れるナーランジャナ河(尼蓮禅河)のほとりの大きなインド菩提樹の下で、悟りを得た日です。

この王子が、仏教の祖、お釈迦様です。

12月8日、今日は、お釈迦様が成道された日です。

仏教寺院では、成道を祝って法要が営まれます。これを「成道会(じょうどうえ)」といいます。

「仏陀」とは、本来、覚者(悟りを得た者)のことを言いますが、お釈迦様のことを仏陀の代表として、一般に「仏陀」と言えばお釈迦様のことを指すようになりました。
後に、釈迦が悟りを開いた地を特定して、ビハール州ガヤ県の『ブッダガヤ』と呼ぶようになりました。

私は、ブッダガヤへは、2014年に巡礼したのが最後ですから、元気なうちに、もう一度、お参りしたいと思っています。

画像は、その2500年前のお釈迦様がお座りになった大菩提樹の直系の菩提樹の枝を挿し木して育てた苗木の下に、小さな禅定印の釈迦像を置いて撮影しました。(※10月に仏教クラブ主催の三宝の集いで出店していただいた「寺の友社」で買い求めた苗木。無事に育ってくれるのか、この冬を越してくれるのか・・・ですね。)

この仏陀の菩提樹直系の大菩提樹を、スリー・マハー菩提樹といい、スリランカのアヌラーダプラに現存する菩提樹を指します。

紀元前3世紀に当時インドで栄えていたマウリヤ朝アショカ王の王妃、サンガミッタがブッダの座った菩提樹の枝を挿し木して育てた苗木を運び、このアヌラーダプラに植樹したとされ、今のインド、ブッダガヤのマハーボーディ寺にある菩提樹は、このアヌラーダプラにあるスリーマハ菩提樹から数えて三代目だそうです。

2014年に巡礼した時のブッダガヤの動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=8X33Zq6CeH0&feature=youtu.be



うんちくひけらかし | 11:20:19 | Trackback(0) | Comments(0)
出家する前のブッダ29歳の苦悩(おごりの消滅)
アマラバティー出土出家レリーフ
南印度・アマラバティー遺跡から出土した出家シーンのレリーフ


わたくしはこのように裕福で、何不自由なく育ち過ごしていたが、次のような思いが起こった、(ディーガ・ニカーヤ、II、中村元訳より正観がもっと簡約しました。)

誰でも老いること
無学な人は、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れられないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している。
実は、私もまた同じように老いてゆくものであると心から気づいた時、青年期の若さに対するおごりは、消え失せた。

誰でも病むこと
無学な人は、自分が病むものであって、また病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。
実は、私もまた同じように病むであろうと気づいた時、健康時における健康へのおごりは、消え失せた。

誰でも死ぬこと
無学な人は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。
実は、私もまた同じように例外なく死ぬのだと心より気づいた時、生存時における生存へのおごりは、消え失せた。


 老・病・死という、命あるものであるならば誰もが避けられない普遍的現実、真理について、若き釈尊は苦悩されていたのですが、仏教の開祖、釈尊の出家のきっかけが、老・病・死は、避けることができないという、気づきにあったことを、明らかにしています。

私、藤野正観は、自分自身が「老い」や「病い」と付き合う67歳の今、やっと、この普遍的現実である「老・病・死」を、心の底から受け入れ、理解できるようになったのです。



うんちくひけらかし | 09:22:14 | Trackback(0) | Comments(0)
福沢諭吉「脱亜論」 現代語訳
福沢諭吉
Facebookで誰かがアップしていた画像を拝借


今から130年以上も前の明治18年に、1万円札でお馴染みの福沢諭吉が、すでにこんなことを言っていたのですね。
この問題を、今も引きずり、手こずる日本。
どうすればいいのでしょう・・・? この『脱亜論』、参考になりますでしょうか?

以下、1882年に福沢諭吉が創刊した日刊新聞、『時事新報』に掲載された「脱亜論」 の現代語訳です。
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世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、到るところ、草も木もこの風になびかないことはない。
西洋の人物は古代と現在に大した違いはないのだが、その活動が古代は遅鈍、今は活発なのは、ただ交通の機関を利用し、勢いに乗じるがためである。
ゆえに最近、東洋の我が国民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。

しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世間と共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。

文明は、いまだ麻疹(はしか)の流行のようなものだ。
目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。

この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、果してその手段はあるだろうか? 
筆者は断じて、その手段はないものとする。

有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できない。
いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。
これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが智者の課題である。

近代西洋文明がわが日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。
国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる時代遅れの幕府というものがあり、これはいかんともできなかった。 

幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。
なぜかというと、近代の文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。

だからといって、文明をふせいてその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。
なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。 

ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てた。
政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。
アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。

わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習慣を脱し、西洋の文明に移っている。

しかしここに不幸なのは、隣国があり、そのひとつを支那といい、もうひとつを朝鮮という。

この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことについては、わが日本国民と異ならないのである。

だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・朝の三国を並べ、日本と比較する時、支那と朝鮮はよく似ているのである。

この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。

交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。

現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。

そればかりか、道徳さえ地面を這うように残酷破廉恥を極め、なおふんぞり返って反省の念など持たない者のようだ。

筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。

われらの明治維新のように、幸い国の中に志士が現れ、進歩の手始めとして政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。

もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。
なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・朝鮮の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に引きこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。

「輔車唇歯(ほしゃしんし)」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那、朝鮮は、わが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。

のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・朝鮮の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。 

例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制であり、法律に従うことがなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。

支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。

支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。 

事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。

その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の大不幸というべきである。

そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。

むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別扱いするに及ばず、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。

悪友と親しく交わる者も、また悪名をまぬかれない。

筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。

明治18年(1885年)3月16日

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と、こんな記事をアップした数日後の今日28日の産経ニュースに、韓国を「諭吉が匙を投げた国」として『脱亜論』の記事が掲載されました。誰の想いも同じなのでしょうね・・・・。
その記事をリンクしておきます。
http://www.sankei.com/premium/news/170828/prm1708280005-n1.html


うんちくひけらかし | 10:05:09 | Trackback(0) | Comments(0)
今日は涅槃の日
涅槃堂

今日は、お釈迦様が涅槃に入られた日。

中国や日本の各宗派の寺院では、いわゆる涅槃会(ねはんえ)が催される。(旧暦で3月15日の寺もある)

涅槃・・・・仏教徒の目指す究極の境智である。 蝋燭の火を吹き消すように、煩惱が消え去ることを意味する。

釈尊80歳、休む暇もなく衆生に説法教化して45年、この生涯が終わりに近づいたことを知り、生まれ故郷に向かって、最後の旅を始めた。

釈尊がもっとも人間らしい振る舞いをしたとして有名な逸話ですが、釈尊がヴァイシャリーという町に入り、マンゴー園の木の下で涼をとります。

ヴァイシャリーは、華麗なダンサーでもあり、遊女でもあったアムラパリが暮らした地としても有名です。
アムラパリは、彼女の所有したマンゴ-園を進上し、心のこもった接待をします。

仏陀の一行は、旅を続けるため、ここを立ち去るのですが、彼女の住むヴァイシャリーの郊外にある丘にさしかかった時、仏陀はまるで大きな像がそうするように大きく振り返り、ヴァイシャリーの町を眺めながら、「人生とはなんと甘美なものよ・・・ヴァイシャリーの町は美しい・・・。」と、執着から開放されたはずの仏陀が、名残を惜しんだとされています。

美しい彼女は、後にブッダの教えに感銘して尼僧になりましたが、人としての仏陀を感じるなんだか温かい感じのする逸話でもあります。

こうして、涅槃の旅も終わりに近づいた時、バーバー村のチュンダに食事の供養を受けます。
それが茸料理とも豚肉料理とも言われていますが、それを食した釈尊は、激しい下痢に襲われ、体力を消耗しました。

それでも、釈尊は、チュンダに布施の行為を決して後悔しないように言い残し、2月15日、クシナガラの沙羅双樹の下で右脇を下に、静かに入滅されました。

その時、サラ双樹は、片方の樹には、涅槃を祝うかのように時ならぬ花が咲き、また片方には悲しみで枯れてしまうという、仏画でお馴染みの不思議な現象が起きたとされています。


3日前の12日、インドから帰ってきた。その涅槃の地、クシナガラにも行ってきた。

2月5日から12日までの短い期間だったが、久々にインドの仏跡を巡った。
仏教クラブのメンバーと行ってきた。

企画を立てた旅行社の未熟さも重なり、結構ハードな旅となった。

涅槃の地、クシナガルからパトナまでの道がサトウキビの収穫搬送の車の多さやデモ隊に遭遇し、渋滞に継ぐ渋滞で、遠回りを余儀なくされ、ラージギル(マガダ国・霊鷲山)に着いたのは午前4時7分だった。

撮り溜めたビデオの量はしめて『60Gb』。

さて、これを30分~40分程度に編集しなければならないわけだが、帰国後2日経ったが、旅の疲れが出てやる気がしない・・・。また、編集して、皆さんに観てもらおうと思っているが、いつできることやら・・・。

以前なら、寝ずにやったのだが、63歳という年には勝てない。

仏陀の歩いたビハール州は、相変わらず、2500年前の光景がそのまま残っていた。まるで、今にも仏陀のご一行が現れるような、そんな錯覚に襲われることもあった。

また、行きたい。


うんちくひけらかし | 16:30:31 | Trackback(0) | Comments(0)
絵の値段
絵の価格ってどうやって決めるのか読者は疑問に思われているに違いない。
当然ながら、仏画の価格もどうやって決めているのか分からないに決まっている。

絵が欲しいのだが、いったいいくらかかるんだろう・・と、絵画に限らず、美術品を買い求めたい人にとっては、切実な問題だ。

作品の価格が、定かではないので、価格のはっきりしている画廊や百貨店に行って、その作品と値札とをにらめっこしてから購入を決める。

相当なお金持ちで無い限り、この決定方法が一般的ではないだろうか。

私が、着物や帯の図案を描いて生活の糧にしていた頃、そう、独立させていただいた27歳から34歳頃までだっただろうか。
自分の描いた作品に販売価格を付ける時が一番苦しかった。
少しでも高く買って欲しいが、高くすれば、二度と買ってもらえない、依頼して貰えない・・・。
そんなドキドキがあった。

価格は、経験年数を最前提に、当然ながら技量と感性で決まっていった。
いくら良い図案を描こうが、経験年数が少ないと、業界から面と向かってではないが批判を受けた。
しかし、図案は商業デザインなので、結果さえ出せば、そこそこ大きな顔ができたし、価格も少しのアップなら受け入れてもらえた。

価格が大きく跳ね上がり定着することはなく、その時々の相場というものがあって、所属する会派で、なんとなく相場を決めていた。
年に4度くらい開催する展覧会では、諸先輩図案家の設定する価格を最高値とし、それに準じていた。
当然ながら、その空気を読めない者は、非難を受けた。

30歳から34歳ぐらいまで、帯の図案を描く機会があって、帯図案を描く友人と一緒に個展活動を始めたことがあった。

この友人の帯図案家たち一門の開催する業者相手の個展では、販売価格を決めずに『入札』が一般的だった。

入札とは、業者が気に入れば、いくらでも積んでくれるというわけだ。
いくらでもと書いたが、たぶんそれなりの業者間の相場があったのだろう。

私は、師が着物の図案家だったので、その所属する会の展覧会では、いつも価格を提示していたこともあり、この「入札制度」に一番疲れる「図案の価格」を付ける必要が無いことに、魅力を感じ、3年ほど続けた。

作品に価格を付けることは、どんな作家も気を使っているはずで、日当程度に付ける作家や、作家個人や団体、画商が美術年鑑や美術名鑑等に有料にて、自分の、または売りたい作家の相場価格を活字にしてもらうのが一般的だと思う。

では、この美術名鑑や美術大鑑、美術年鑑なる分厚い冊子は、いったいどういったシステムで作家名を掲載し、その相場価格を掲載しているのだろう・・・。と読者は思われるに違いない。

これらの冊子の出版元は、我々のような創作家個人や団体が、自分の作品の価格を提示することに、いかに苦しみ迷っているか、またどれだけのエネルギーを使っているのかよく知っている。
そんな作家個人や作家の集う団体からの要望で、必然的に生まれたとは思うのだが、実にうまくできたシステムを作り上げたものだ。

掲載するにあたり、有名作家を独自に選び、その作家を無料で掲載することにより、その冊子の存在性に権威をもたせ、信頼度を得ているものもあれば、プロであれ素人であれ誰彼と差をつけず、希望する作家には、有料でどんどん掲載するものもある。

無名の作家でも、名の売れた会派や団体、公簿展等に所属している作家であれば、名前と価格を有料(数万円~十数万円程度)で載せる。

その類の出版物の全てがそうであるように、団体で掲載料をまとめて負担し、団体自体がその団体の中でも、優秀と認めた作家を掲載無料とし、団体の中で、その価格面でのステータスを競う仕組みを作り上げているわけだ。

売れる作品を創る作家の価格をコントロールする画商も、価格更新の為の掲載料を毎年支払ってくれるお得意様となる。
彼等の価格操作により、作家の作品価格が上昇することになる。
価格の上がった作家は、偉くなったということで、「自分は、自分の作品の価格には興味はないが、○○名鑑ではいくらになってるから・・・。」といったまるで他人事のように嘯くことができる構図ができあがるわけだ。

つまり、いやらしくないのだ、作家が自分で自分の価格を決めて売り込むことは「品」が無いのだ。
作家先生と言われる由縁だ。
なので、当然ながら、若い作家はこの路線に乗ろうと努力をすることになるわけだ。

そういった手法が一般的なその類の出版物の仕組みではあるが、今では、それ以外のそういった類の出版や企画展、団体へのお誘いが、規模の大小問わず特に最近増えたように思う。

つまり、本来は一人で創作する孤独な存在であるべきはずの作家(最近では職人もそうなのだが)は、自分の作品の価値を高める手段を得るために、団体に所属したり公簿展に出品し、自分の立つ位置や価値を世間に認知して貰おうとするのである。
私のような例外を除いて、ほとんどの作家がそういう立場で、自分の作品の価格を決め、創作活動をしながら生活しているわけだ。

私のことは例外と書いたが、それでは、私の描く仏画の価格はどうやって決めているのか?
ということで、次回は、このことをはじめて明らかにしてみたい。


うんちくひけらかし | 10:53:13 | Trackback(0) | Comments(0)
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