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スリー・マハー菩提樹直系の菩提樹、育ってます!
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今日は、2500年ほど前に、北インドの小さな国、シャカ国の王子ゴータマ・シッダータという青年が、ガヤの地を流れるナーランジャナ河(尼蓮禅河)のほとりの大きなインド菩提樹の下で、悟りを得た日です。

この王子が、仏教の祖、お釈迦様です。

12月8日、今日は、お釈迦様が成道された日です。

仏教寺院では、成道を祝って法要が営まれます。これを「成道会(じょうどうえ)」といいます。

「仏陀」とは、本来、覚者(悟りを得た者)のことを言いますが、お釈迦様のことを仏陀の代表として、一般に「仏陀」と言えばお釈迦様のことを指すようになりました。
後に、釈迦が悟りを開いた地を特定して、ビハール州ガヤ県の『ブッダガヤ』と呼ぶようになりました。

私は、ブッダガヤへは、2014年に巡礼したのが最後ですから、元気なうちに、もう一度、お参りしたいと思っています。

画像は、その2500年前のお釈迦様がお座りになった大菩提樹の直系の菩提樹の枝を挿し木して育てた苗木の下に、小さな禅定印の釈迦像を置いて撮影しました。(※10月に仏教クラブ主催の三宝の集いで出店していただいた「寺の友社」で買い求めた苗木。無事に育ってくれるのか、この冬を越してくれるのか・・・ですね。)

この仏陀の菩提樹直系の大菩提樹を、スリー・マハー菩提樹といい、スリランカのアヌラーダプラに現存する菩提樹を指します。

紀元前3世紀に当時インドで栄えていたマウリヤ朝アショカ王の王妃、サンガミッタがブッダの座った菩提樹の枝を挿し木して育てた苗木を運び、このアヌラーダプラに植樹したとされ、今のインド、ブッダガヤのマハーボーディ寺にある菩提樹は、このアヌラーダプラにあるスリーマハ菩提樹から数えて三代目だそうです。

2014年に巡礼した時のブッダガヤの動画です。
https://www.youtube.com/watch?v=8X33Zq6CeH0&feature=youtu.be



うんちくひけらかし | 11:20:19 | Trackback(0) | Comments(0)
福沢諭吉「脱亜論」 現代語訳
福沢諭吉
Facebookで誰かがアップしていた画像を拝借


今から130年以上も前の明治18年に、1万円札でお馴染みの福沢諭吉が、すでにこんなことを言っていたのですね。
この問題を、今も引きずり、手こずる日本。
どうすればいいのでしょう・・・? この『脱亜論』、参考になりますでしょうか?

以下、1882年に福沢諭吉が創刊した日刊新聞、『時事新報』に掲載された「脱亜論」 の現代語訳です。
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世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、到るところ、草も木もこの風になびかないことはない。
西洋の人物は古代と現在に大した違いはないのだが、その活動が古代は遅鈍、今は活発なのは、ただ交通の機関を利用し、勢いに乗じるがためである。
ゆえに最近、東洋の我が国民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。

しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世間と共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。

文明は、いまだ麻疹(はしか)の流行のようなものだ。
目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。

この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、果してその手段はあるだろうか? 
筆者は断じて、その手段はないものとする。

有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できない。
いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。
これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが智者の課題である。

近代西洋文明がわが日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。
国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる時代遅れの幕府というものがあり、これはいかんともできなかった。 

幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。
なぜかというと、近代の文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。

だからといって、文明をふせいてその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。
なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。 

ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てた。
政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。
アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。

わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習慣を脱し、西洋の文明に移っている。

しかしここに不幸なのは、隣国があり、そのひとつを支那といい、もうひとつを朝鮮という。

この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことについては、わが日本国民と異ならないのである。

だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・朝の三国を並べ、日本と比較する時、支那と朝鮮はよく似ているのである。

この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。

交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。

現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。

そればかりか、道徳さえ地面を這うように残酷破廉恥を極め、なおふんぞり返って反省の念など持たない者のようだ。

筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。

われらの明治維新のように、幸い国の中に志士が現れ、進歩の手始めとして政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。

もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。
なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・朝鮮の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に引きこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。

「輔車唇歯(ほしゃしんし)」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那、朝鮮は、わが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。

のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・朝鮮の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。 

例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制であり、法律に従うことがなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。

支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。

支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。 

事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。

その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の大不幸というべきである。

そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。

むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別扱いするに及ばず、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。

悪友と親しく交わる者も、また悪名をまぬかれない。

筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。

明治18年(1885年)3月16日

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と、こんな記事をアップした数日後の今日28日の産経ニュースに、韓国を「諭吉が匙を投げた国」として『脱亜論』の記事が掲載されました。誰の想いも同じなのでしょうね・・・・。
その記事をリンクしておきます。
http://www.sankei.com/premium/news/170828/prm1708280005-n1.html


うんちくひけらかし | 10:05:09 | Trackback(0) | Comments(0)
今日は涅槃の日
涅槃堂

今日は、お釈迦様が涅槃に入られた日。

中国や日本の各宗派の寺院では、いわゆる涅槃会(ねはんえ)が催される。(旧暦で3月15日の寺もある)

涅槃・・・・仏教徒の目指す究極の境智である。 蝋燭の火を吹き消すように、煩惱が消え去ることを意味する。

釈尊80歳、休む暇もなく衆生に説法教化して45年、この生涯が終わりに近づいたことを知り、生まれ故郷に向かって、最後の旅を始めた。

釈尊がもっとも人間らしい振る舞いをしたとして有名な逸話ですが、釈尊がヴァイシャリーという町に入り、マンゴー園の木の下で涼をとります。

ヴァイシャリーは、華麗なダンサーでもあり、遊女でもあったアムラパリが暮らした地としても有名です。
アムラパリは、彼女の所有したマンゴ-園を進上し、心のこもった接待をします。

仏陀の一行は、旅を続けるため、ここを立ち去るのですが、彼女の住むヴァイシャリーの郊外にある丘にさしかかった時、仏陀はまるで大きな像がそうするように大きく振り返り、ヴァイシャリーの町を眺めながら、「人生とはなんと甘美なものよ・・・ヴァイシャリーの町は美しい・・・。」と、執着から開放されたはずの仏陀が、名残を惜しんだとされています。

美しい彼女は、後にブッダの教えに感銘して尼僧になりましたが、人としての仏陀を感じるなんだか温かい感じのする逸話でもあります。

こうして、涅槃の旅も終わりに近づいた時、バーバー村のチュンダに食事の供養を受けます。
それが茸料理とも豚肉料理とも言われていますが、それを食した釈尊は、激しい下痢に襲われ、体力を消耗しました。

それでも、釈尊は、チュンダに布施の行為を決して後悔しないように言い残し、2月15日、クシナガラの沙羅双樹の下で右脇を下に、静かに入滅されました。

その時、サラ双樹は、片方の樹には、涅槃を祝うかのように時ならぬ花が咲き、また片方には悲しみで枯れてしまうという、仏画でお馴染みの不思議な現象が起きたとされています。


3日前の12日、インドから帰ってきた。その涅槃の地、クシナガラにも行ってきた。

2月5日から12日までの短い期間だったが、久々にインドの仏跡を巡った。
仏教クラブのメンバーと行ってきた。

企画を立てた旅行社の未熟さも重なり、結構ハードな旅となった。

涅槃の地、クシナガルからパトナまでの道がサトウキビの収穫搬送の車の多さやデモ隊に遭遇し、渋滞に継ぐ渋滞で、遠回りを余儀なくされ、ラージギル(マガダ国・霊鷲山)に着いたのは午前4時7分だった。

撮り溜めたビデオの量はしめて『60Gb』。

さて、これを30分~40分程度に編集しなければならないわけだが、帰国後2日経ったが、旅の疲れが出てやる気がしない・・・。また、編集して、皆さんに観てもらおうと思っているが、いつできることやら・・・。

以前なら、寝ずにやったのだが、63歳という年には勝てない。

仏陀の歩いたビハール州は、相変わらず、2500年前の光景がそのまま残っていた。まるで、今にも仏陀のご一行が現れるような、そんな錯覚に襲われることもあった。

また、行きたい。


うんちくひけらかし | 16:30:31 | Trackback(0) | Comments(0)
絵の値段
絵の価格ってどうやって決めるのか読者は疑問に思われているに違いない。
当然ながら、仏画の価格もどうやって決めているのか分からないに決まっている。

絵が欲しいのだが、いったいいくらかかるんだろう・・と、絵画に限らず、美術品を買い求めたい人にとっては、切実な問題だ。

作品の価格が、定かではないので、価格のはっきりしている画廊や百貨店に行って、その作品と値札とをにらめっこしてから購入を決める。

相当なお金持ちで無い限り、この決定方法が一般的ではないだろうか。

私が、着物や帯の図案を描いて生活の糧にしていた頃、そう、独立させていただいた27歳から34歳頃までだっただろうか。
自分の描いた作品に販売価格を付ける時が一番苦しかった。
少しでも高く買って欲しいが、高くすれば、二度と買ってもらえない、依頼して貰えない・・・。
そんなドキドキがあった。

価格は、経験年数を最前提に、当然ながら技量と感性で決まっていった。
いくら良い図案を描こうが、経験年数が少ないと、業界から面と向かってではないが批判を受けた。
しかし、図案は商業デザインなので、結果さえ出せば、そこそこ大きな顔ができたし、価格も少しのアップなら受け入れてもらえた。

価格が大きく跳ね上がり定着することはなく、その時々の相場というものがあって、所属する会派で、なんとなく相場を決めていた。
年に4度くらい開催する展覧会では、諸先輩図案家の設定する価格を最高値とし、それに準じていた。
当然ながら、その空気を読めない者は、非難を受けた。

30歳から34歳ぐらいまで、帯の図案を描く機会があって、帯図案を描く友人と一緒に個展活動を始めたことがあった。

この友人の帯図案家たち一門の開催する業者相手の個展では、販売価格を決めずに『入札』が一般的だった。

入札とは、業者が気に入れば、いくらでも積んでくれるというわけだ。
いくらでもと書いたが、たぶんそれなりの業者間の相場があったのだろう。

私は、師が着物の図案家だったので、その所属する会の展覧会では、いつも価格を提示していたこともあり、この「入札制度」に一番疲れる「図案の価格」を付ける必要が無いことに、魅力を感じ、3年ほど続けた。

作品に価格を付けることは、どんな作家も気を使っているはずで、日当程度に付ける作家や、作家個人や団体、画商が美術年鑑や美術名鑑等に有料にて、自分の、または売りたい作家の相場価格を活字にしてもらうのが一般的だと思う。

では、この美術名鑑や美術大鑑、美術年鑑なる分厚い冊子は、いったいどういったシステムで作家名を掲載し、その相場価格を掲載しているのだろう・・・。と読者は思われるに違いない。

これらの冊子の出版元は、我々のような創作家個人や団体が、自分の作品の価格を提示することに、いかに苦しみ迷っているか、またどれだけのエネルギーを使っているのかよく知っている。
そんな作家個人や作家の集う団体からの要望で、必然的に生まれたとは思うのだが、実にうまくできたシステムを作り上げたものだ。

掲載するにあたり、有名作家を独自に選び、その作家を無料で掲載することにより、その冊子の存在性に権威をもたせ、信頼度を得ているものもあれば、プロであれ素人であれ誰彼と差をつけず、希望する作家には、有料でどんどん掲載するものもある。

無名の作家でも、名の売れた会派や団体、公簿展等に所属している作家であれば、名前と価格を有料(数万円~十数万円程度)で載せる。

その類の出版物の全てがそうであるように、団体で掲載料をまとめて負担し、団体自体がその団体の中でも、優秀と認めた作家を掲載無料とし、団体の中で、その価格面でのステータスを競う仕組みを作り上げているわけだ。

売れる作品を創る作家の価格をコントロールする画商も、価格更新の為の掲載料を毎年支払ってくれるお得意様となる。
彼等の価格操作により、作家の作品価格が上昇することになる。
価格の上がった作家は、偉くなったということで、「自分は、自分の作品の価格には興味はないが、○○名鑑ではいくらになってるから・・・。」といったまるで他人事のように嘯くことができる構図ができあがるわけだ。

つまり、いやらしくないのだ、作家が自分で自分の価格を決めて売り込むことは「品」が無いのだ。
作家先生と言われる由縁だ。
なので、当然ながら、若い作家はこの路線に乗ろうと努力をすることになるわけだ。

そういった手法が一般的なその類の出版物の仕組みではあるが、今では、それ以外のそういった類の出版や企画展、団体へのお誘いが、規模の大小問わず特に最近増えたように思う。

つまり、本来は一人で創作する孤独な存在であるべきはずの作家(最近では職人もそうなのだが)は、自分の作品の価値を高める手段を得るために、団体に所属したり公簿展に出品し、自分の立つ位置や価値を世間に認知して貰おうとするのである。
私のような例外を除いて、ほとんどの作家がそういう立場で、自分の作品の価格を決め、創作活動をしながら生活しているわけだ。

私のことは例外と書いたが、それでは、私の描く仏画の価格はどうやって決めているのか?
ということで、次回は、このことをはじめて明らかにしてみたい。


うんちくひけらかし | 10:53:13 | Trackback(0) | Comments(0)
敵の英兵422名を救助した日本海軍のお話、知ってます?
敵の英兵422名を救助した日本海軍駆逐艦「いかずち」のお話

天皇皇后両陛下がエリザベス女王の戴冠60周年の昼食会に出席される為、イギリスを訪問されている。
イギリスといえば、以前こんな記事を読んだことを思い出す・・・。
知らなかったこととはいえ、第一次大戦後、連合軍の一部の人たちや、特に中国や朝鮮半島に住む一部の人たちに、国民や家族を守る為出兵した私の父の世代が鬼畜のように愚弄され続け、居た堪らない気持ちで居た時に、敵の英兵422名を救助した旧日本海軍の記事を読んで、ずいぶんと救われたことがあった。

1953年、当時19歳で皇太子だった今の陛下が、昭和天皇の名代として初めて海外訪問されたのが、イギリスだった。
陛下は「私の父である天皇陛下の代わりに、女王陛下の戴冠式に参列できることは、私にとって、最も喜びとするところであります」と英語でスピーチをされた。
当時、イギリス国民の間には、戦争による根強い反日感情が残っていた。
しかし陛下は、エリザベス女王の戴冠式に参列したほか、エリザベス女王と一緒に競馬を観戦したり、当時の反日感情の拡大を危惧し、戦後は共に君主を崇める国どうしとして友好を深める方向で考えたチャーチル首相が、皇太子を昼食会に招き、反日報道を繰り返す新聞社等に紹介した時も、そのチャーチルの好意に英語でスピーチされるなど、43日間の滞在で、戦後の日本とイギリスの友好関係を深めることに努められた。
当時のことについて、陛下は1993年に、「(イギリス訪問は)私に世界の中における、日本を考えさせる契機となりました」と振り返られていたという。(FNN)

以下は、保存しておいた「第一次大戦に出兵した父を持つ私の救われたお話。」として、特に若い世代においては、その頃の日本男児の精神構造の一面をよく知ってもらえるのではないかと思う。

ぜひ読んでみて欲しい・・・。

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今の天皇皇后両陛下が、以前にイギリスを訪問されたのは今から14年前の1998年5月。
イギリス政府と国民は歓迎の意を表し、天皇陛下はエリザベス女王と馬車に乗ってロンドン市民の歓迎に応えた。
しかし、このパレードには抗議の意味でわざと背を向けた人たちがいた。彼らは、第二次世界大戦中日本の捕虜になり、その時の扱いに抗議し、日本政府に賠償と天皇陛下に謝罪を要求したのだった。

この抗議行動に、イギリス政府は「遺恨が日英関係を支配してはならない」(ブレア首相)と呼び掛けるなど、両陛下及び日本政府に異例の配慮を見せた。(読売新聞)当時、日本の財界はイギリスに積極投資するなど、日英関係は経済面で新たな親密度を見せているときだった。
ブレア首相の発言は当然だったかもしれない。

しかし、イギリス国民の感情は二分された。
戦時中の捕虜に対する非人道的な扱いを非難し日本政府と天皇に謝罪を要求するものから、個人的に戦争に関わっていない現在の天皇に謝罪を要求することへの疑問、さらには、元捕虜に対する賠償問題は退役軍人にちゃんと年金を払わないイギリス自体の問題だなど、様々な意見が噴出し、両陛下のイギリス訪問が反日運動を起こすきっかけになるのではないかとの不安が巻き起こった。
そんな怪しい空気を一掃するような投稿がロンドンのタイムズ紙に掲載された。

その投稿は、元イギリス海軍士官からのものだった・・・。

戦後は、スウェーデン大使を務めサーの称号が与えられたサムエル・フォール卿(投稿当時86歳)だった。
フォール卿は、大戦中のスラバヤ沖海戦で、日本海軍に撃沈された巡洋艦から海に放り出され漂流中のところを日本海軍「雷(いかづち)」に救助されたのだった。
このときの体験をタイムズ紙に投稿し、敵兵救助を決断した日本の武士道を賛美し、その国の元首を温かく迎えようと国民に呼びかけたのだった。(産経新聞)

実は、この救助劇は歴史に隠れ続けた。誰も知らない。知る術がない。
手前味噌が当たり前の現在とは違い、実に奥ゆかしい、日本男児らしい世界に通じる美談なのだ。

日本海軍の駆逐艦「雷」が救助したイギリス海軍兵はフォール卿だけではない。
日本艦隊は英米欄の連合艦隊15艘と戦い11艘を撃沈した。
合戦後たまたまそこを通りかかった「雷」の見張りが望遠鏡で遠方に漂流物を確認。
その漂流物は敵将兵らしく、その数400以上との報告が艦長にされた。
艦長の工藤俊作は、次の瞬間「潜望鏡は見えないか」確認させると、見えないとの返答に救助を命令した。

この海域では敵の潜水艦7艘が撃沈されたばかり、前日には味方の輸送船が攻撃を受けて沈没した危険海域だった。そこを「雷」の乗員220名は、全員敵兵の救助活動を行い、乗組員のほぼ倍の422名を救助したのだった。(「敵兵を救助せよ!」恵隆之介著草思社刊)

これは、壮絶な救助行動だったようで、救助活動中は敵も味方もない懸命な活動だったという。救助のため命令に背き海中に飛び込んだ日本兵もいた。「雷」の甲板は救助されたイギリス兵で埋め尽くされ、撃沈された際に流れた重油が体中をまとわるのを日本兵は丁寧にアルコールでふき取り、シャツと半ズボンと運動靴が支給され、熱いミルクと、ビール、ビスケットの接待がなされたという。

その後、イギリス海軍の21人の士官が集められ、工藤艦長が端正な挙手の敬礼をした後流暢な英語でスピーチをし、「諸官は勇敢に戦われた。いまや諸官は日本海軍の名誉あるゲストである」と伝えた。

フォール卿はこれは夢ではないかと何度も手をつねったという。(同)

フォール卿は、この工藤艦長の功績をアメリカ海軍機関紙に寄稿した(1987年)。
またジャカルタで行なわれたジャワ沖海戦50周年記念式典(1992年)でも称え、自分史を刊行した際も「帝国海軍中佐工藤俊作に捧げる」と書いている(1996年)。
さらに、2年後の天皇皇后両陛下イギリス訪問時にもタイムズ紙に工藤氏の実名を上げて投稿し、ずっと工藤氏の消息を探し続けたがつかむことができなかった。
心臓病を患いながら、3年前に「人生の締めくくりに」と来日し工藤氏の墓参と家族への感謝の気持を伝えたかったようだが、分らず離日した。
その際、「敵兵を救助せよ!」著者の恵隆之介氏(元海上自衛隊)に墓と遺族を探してくれるように依頼したようだ。
恵氏はその約束を果たし丹念に工藤氏の足跡を辿った。

しかし、この救助劇は工藤氏の夫人にも話されていなかったことで、知る人はまわりにいなかった。
たどるうちに「雷」の乗組員のうち2名が存命であることが分り、このときの様子が再現されたのだ。

本書の構成は、劇的な救助の場面より、工藤艦長の生い立ちと、その時代背景、また郷里の様子が重なるように書かれ、日本が大戦に突入していく流れが海軍の視点から描かれている。

工藤氏が敗戦後は自衛隊関係の仕事に着くことなく、静に語らずこの事実を公にしなかったことも不思議だが、最大の不思議は、一生恩を感じて生きたフォール卿が何度も工藤艦長の功績を公にしながら、日本のマスコミが一度も取り上げなかったことだ。
特に両陛下が訪英されたときのタイムズ紙の投稿には当然気付いていたはずで、わざと取り上げなかったのではないかと思うほどだ。

読売新聞も朝日新聞も工藤艦長に関する記事は一行もない。
産経新聞だけが恵氏の取材結果を紹介する形でこの功績を戦後60周年の連載記事中で紹介している(2005年9月)。

恵氏の著書からは、日本海軍がいかにイギリス海軍と近い関係にあったかが分る。それが日英同盟の礎だったのだろうが、第一次大戦後アメリカの力がどんどん強くなるにつれて、アメリカが日本をアジアでの最大の脅威として、日英同盟を破棄させた経緯が書かれている。
この記述は、先に公表された富田メモで昭和天皇が日独伊の三国同盟を嫌う様子がうかがえたが、日英同盟を日本のリベラル派がいかに重視していたを著している。

工藤艦長の救助劇は、恐らく世界の歴史の中でもまれなことだ。
この事実を日本国民が知ったのなら、どれだけ励まされたか分らない。
戦後すぐでももちろんそうだろうが、10年後20年後30年後でも同様だ。それが60年を経過後も日本のマスコミと出版界に一切登場しなかったというのは、たまたまではないはずだ。
日米関係にとって面白くない話は極力避けられる風潮が今でも日本にあるという事を物語っている。


うんちくひけらかし | 10:06:59 | Trackback(0) | Comments(0)
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