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今日は、お釈迦様の入滅された日とされる「涅槃会」の日です。
PICT0028.jpg
2004年、仏跡巡礼の旅より、ヴァイシャリーの見返りの丘にて、正観撮影


今日は、お釈迦様の入滅された日とされる「涅槃会」の日です。
舞台は、2500年前の北インドはクシナーラの沙羅林。
釈尊80歳、休む暇もなく衆生に説法教化して45年、この生涯が終わりに近づいたことを知り、霊鷲山を下りて生まれ故郷の釈迦国に向かって、弟子アーナンダとマトウ比丘尼をお伴に人生最後の旅を始めました。

この旅で、釈尊がもっとも人間らしい振る舞いをしたとして有名な逸話があります。
私は、この時の釈尊に親しみを感じ、このお話が一番好きなので度々語ります。

釈尊がヴァイシャリーという町に入り、マンゴー園の木の下で涼をとります。
ヴァイシャリーは、華麗なダンサーでもあり、遊女(娼婦)でもあったアムラパリが暮らした地です。
アムラパリは、彼女の所有したマンゴ-園を進上し、心のこもった接待をします。

仏陀の一行は、旅を続けるため、ここを立ち去るのですが、彼女の住むヴァイシャリーの郊外にある丘にさしかかった時、仏陀はまるで大きな像がそうするように大きく振り返り、ヴァイシャリーの町を眺めながら、「人生とはなんと甘美なものよ・・・ヴァイシャリーの町は美しい・・・。」と、執着から開放されたはずの仏陀が、美しいアムラパリの住むヴァイシャリーの町に名残を惜しんだとされています。

美しい彼女は、後にブッダの教えに感銘して尼僧になりましたが、人としての仏陀を感じるなんだか温かい感じのする逸話でもあります。
こうして、涅槃の旅も終わりに近づいた時、バーバー村のチュンダに食事の供養を受けます。
それが茸料理とも豚肉料理とも言われていますが、それを食した釈尊は、激しい下痢に襲われ、体力を消耗しました。
それでも、釈尊は、チュンダに布施の行為を決して後悔しないように言い残し、2月15日、クシナーラの沙羅双樹の下で右脇を下に、静かに入滅されました。その時、サーラ樹は、片方の樹には、涅槃を祝うかのように時ならぬ花が咲き、また片方には悲しみで枯れてしまうという、仏画でお馴染みの不思議な現象が起きたとされています。

https://www.youtube.com/watch?v=MkQJNb8oii4&t=77s

| 11:20:31 | Trackback(0) | Comments(0)
自灯明 法灯明


自灯明 法灯明 という信心の根本的な姿勢を示す重要な仏の教えがある。

「自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きなさい。」
「師(釈尊)亡き後、自分は、何にすがって何を頼りに生きていけば良いのですか?」仏陀80歳、最後の旅の途中、釈尊が自身の死を予言した時、当時20歳ぐらいだった侍者、阿難(あなん・アーナンダ)の問いに応えられた釈尊のお言葉である。

ブッダ最後の旅の様子が書かれているマハ-パリニッバーナ・スッタンタ(偉大で完全なる長い涅槃の経典=大般涅槃経)という経典に書かれているのだそうだ。日本では、これを、自灯明 法灯明 と訳される。

当時のインドで一番栄えていたマガダ国の首都、王舎城の霊鷲山(ラージギル)から、涅槃の地クシナガラまでの最後の旅の様子と、その旅の間に釈尊が説いた話が実にリアルで人間味溢れる道中物語となっているのだそうだ。

もちろん、私は言語で読めるわけがないので、中村元博士の訳された「ブッダ最後の旅(大パリニッパーナ経)」を読むしかない。
ので、「そのようだ」という言い回しになってしまうので、お許し願いたい。

今回の「インドお釈迦さまの足跡を辿る旅」は、この「最後の旅」を辿る旅でもあったわけだから、釈尊のその時代を想い描いて、釈尊の教えの集大成というか結論のようなものを感じ取りたいと思った。

インドの原始仏典に書かれたパーリ言語で発音する「ディーパ」は、「島」とか「州」という意味があり、南アジアでは、島と訳して理解されているそうだ。
つまり、パーリ語の直訳では、「自身を島とし、その島を頼って生きなさい。」とこうなる。
日本語で表現されるところの「灯明」なる語は、花園大学教授の佐々木閑氏曰く、良く似た発音の「ドゥビーパ」の意味らしいが、どちらも同じ意味で捉えることができるので、どちらでも良いと思う。
故中村元博士著の「ブッダ最後の旅」では「島」と訳されている。後に中村博士がテレビ出演された時には、日本人にはすんなり理解でき、心に入って来る「灯明」の訳で良いと思うと言っておられた。

今回の仏跡を辿る旅を終え、ビデオや記事でまとめる為に改めて仏陀の足跡を振り返る時、何でこんなにも清々しい気分になれるのか、雨の連休の一日(5月5日)を、一人、工房に来て、中村元著「ブッダ最後の旅(大パリニッパーナ・大般涅槃経)」に書かれている内容と照らし合わせながらもう一度自分なりに振りかえってみたいと思ったわけである・・・。

この時、釈尊は、「私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよ。」と、仏教において最も重要な教えを説いたとされているのだが、やはりこれは常時、釈尊の傍に居た阿難に言われた言葉ではなかったのだろうか・・・。
「自分しか頼るな、他者に頼ってはならぬ」という単純な解釈で良いのだろうか?もし、この言葉が、我々凡夫に対しての教えだとしたら、この部分が今ひとつ私には理解できない。

やはり、この単純解釈には誤解が伴うのではないだろうか・・・。「自分」とはどの時点での自分なのか・・・。

阿難は、仏陀の下で、数多くの理法を学び、精神修行を行っている求道者である。
あくまでも、その阿難に言われた言葉であることを忘れてはならない。と、私は思う。

「他の価値観や理屈に惑わされずに、私が説いた理法を頼りなさい。」をそのまま確信も無く鵜呑みにする人こそ、あやふやで危険な存在ではないだろうか・・・。

自称、仏教徒といえども、我々、凡夫に発しられた言葉ではないと思うのだが・・・・、仏教ではこの教えを根本思想として説いている。

修行僧の為の仏教(上座仏教)であった時代の弟子に対する説法であり、いわゆる一般的な理法、真理ではないと思うのは私だけではないはずだ。

釈尊の説いた真理は、異教徒にさえ理解できる真理なので、異教徒にいきなり自身を灯明とせよと説くには無理がある。
あくまでも、その自身とは、本気で仏教を学ぼうとする志をもった自分でないといけないのだ。

自灯明、法灯明とは、仏教を学ぼうと仏に対して心を開いた人に限定した「迷うな」という釈尊の意思を示した「自灯明」と、ゆるぎない真理、理法を頼りに生きなさいという「法灯明」のことだと思う。

と、いうことで、ビデオの編集もぐだぐだ考えるきっかけになったので、けっこう有意義な時間だったことになる。

明日の夜、センチュリーホテルで、私の撮影・編集した旅の記録ビデオを参加者全員で観ようということになっている。
旅から帰って、約一ヶ月間、仕事もそこそこに仏跡旅行のビデオの編集をしていた。
Windows7に付属しているムービーメーカや、XP時代のフォトストーリー3をWin7に強引にコピーし、その無料の編集ソフトを駆使して経費0円で作った。

仏教クラブのホームページには、この記録のビデオが約3時間分ほど会員限定公開でアップしてある。クラブ会員なら会員専用ページで観ることができるようにしてある。

私のホームページでは、「Visit the footprint of Buddha」と題して、1時間に編集してアップしてある。

上の動画がそれである。ブッダに興味をもたれた方は、ぜひ、時間をとってブッダ最後の旅をイメージしながらブッダの足跡をじっくり感じていただきたい。せっかく作ったのだから・・・。



| 09:15:03 | Trackback(0) | Comments(0)
サールナートSarnath


初転法輪の地サールナートは、バラナシの北方約10kmに位置する。
ブッダガヤで釈尊が悟りを開いた後、苦行当初のお仲間の五人の比丘に対して、初めて法を説いた地である。
ここから仏の教えが世界中に広がっていった。初転法輪の地。仏教の四大聖地(ルンビニ、ブッダガヤ、サールナート、クシナガラ)のひとつ。鹿が多くいたことから鹿野苑(ろくやおん)とも呼ぶ。

説法を決意した釈尊は、古来からの聖地であったガンジス河が南から北へ流れる場所、バラナシに向かう。
ブッダガヤからバラナシまでは直線距離にして約200Kmほど。街道を歩けば300Km近くあろうか。釈尊は、この長い道のりを八日かかって歩いて向かわれたというのだが・・・。そうとうな速足で歩かれたのだろう。一日8時間歩いたとして、一時間で4.7Kmは歩かないと到着しない。しかも、休憩無しでだ・・・。12月だと思うので、気候はベスト。苦行を経験された釈尊なので、この旅など何でもなかたのかもしれないが・・・。

なぜ、そんな遠くのバラナシへ向かったのかというと、そのバラナシ郊外にあるサールナートというところに、苦行時代の五人のお仲間が居たからだそうで、苦行を共にし、また、釈尊が苦行では何も得られないと山を降りようと決めた時、その判断をとがめたた五人のかつてのお仲間に法を説こうと思われたのだそうだ。
悟りを開いた覚者の想いにしては、けっこう、普通の人ぽい発想と感じるのは私だけだろうか・・・。

現在のサールナートはインド政府によって整理され遺跡公園になっている。またこの周辺からは「サールナート仏」と呼ばれる仏像が多数出土し、最高傑作とも評される「初転法輪像」やインド国家の国章であるアショカピラーに乗る四頭のライオン像がサールナート考古博物館に収蔵されている。

サールナート参拝は、まずは、その手前1㎞くらいにある迎仏塔・チャウウカンディーストゥーパChaukhandi Stupaから始まる。
ブッダガヤの菩提樹下で悟りを開いた釈尊がサールナートに着いたとき、かつての仲間だった五人の修行僧が釈尊を歓迎したところというわけだ。このストゥーパーの特徴である頂上の八角形の建物は後世(といっても最近)に作られた見晴らし台ということでまったく遺跡とは別物だそうで実にややこしい・・・。日本人なら考えられないことが行われているのだ。
ナーランダ大学跡のところで書き忘れたが、あの中心的な建造物の舎利弗のストゥーパー付近の大小のストゥーパーも発掘中にいろいろ移動させて作っているそうだから、当時の形や場所とは少し違うと思って正解なのだそうだ。

「常識」という言葉の意味を、やたらむなしく感じさせてくれるのがインドなのだ。

遺跡公園となったサールナートは、ナーランダ大学跡のように広大で静かで緑豊かなところ。やはり世界中からお参りに来る仏教徒で賑わっているが、広大な遺跡公園なので混雑と言うほどではない。

やはり、あちこちから読経が聞こえてくる。

この遺跡公園内では、売り子のお兄さんが、ひそひそ声で近寄って来る。
この遺跡から出たという小さな仏像を隠し持っている。いや、そのように振舞う。なかなかのものだ。おもむろに、そっと見せ1万円だという。あきらかに偽物だ。
こういったお兄さんと楽しい会話を楽しみながら広大な遺跡を巡る。
参拝も二度目となると、慣れるもので、わずらわしいというよりこの状況を楽しめるようになるのだ。

どうしても、公園内にある中心的な存在の巨大な建造物(ダーメーク塔 Dhamekh Stupa)が目立つのだが、由来は諸説有るが何なのか分からないらしい。周囲28m、高さ43mとでかい。
以後の仏教寺院の荘厳の元となった素晴らしい彫刻(レリーフ)が数多く施され、仏教美術を生業にする私としては、実に興味深い。
かつては、窓らしき穴に仏像があったらしい。

最初の説法はここで・・・という場所は、実は、ダメーク塔ではなくて、ダルマラージカストゥーパ跡 Dharmarajika Stupaなのだが、18世紀にバナラシ藩王によって壊され、レンガを何かの建築に使ってしまったそうである・・・・。

「えぇー!」 である。

このサールナートに隣接して、釈尊が雨季に滞在して説法をした所に建つ、スリランカの寺、ムルガンダ・クティ精舎があるのだが、別名を根本香積寺とも呼ばれ、1931年に建造された。日本仏教会より寄贈された、梵鐘もある。
中には金色の御本尊(サールナート出土の転法輪印仏のレプリカ)と、日本画家、野生司香雪(のうすこうせつ1885-1973 )の筆によるブッダの生涯を描いた壁画がある。まだ剥落もせずしっかりと基底物(壁の素材)に接着している。
 ここには、スリランカ僧が常時居て、お参りした我々の手首に黄色く染められた絹の糸を結んでくれる。10年前に来た時にも結んで貰ったがその時は2ヶ月くらいで外れた。 
自然に取れるまでそのままにしておくと良いらしいが、何が良いのかわからない・・・。
たぶん、「お釈迦様とご縁を結んだ証だよ」といったことなのかもしれない。
実はこの記事を書いている今も、左手首にはその糸がしっかりと付いたままになっている。無意識にこの黄色い絹糸を保護している自分が居るのだ。帰国してすでに2ヶ月半が過ぎた。今回は3ヶ月は長持ちしそうだ。

この後、サールナート博物館で、転法輪印のブッダや、インド国家の国章となったアショカピラーの4頭のライオン像を見学した。カメラ持ち込み厳禁なので、画像はない。

お決まりの「さち子の店」という名の土産物店で工芸品や絹の染織裂を買い求め、新しく?できたワーラーナシー空港 (Varanasi Babatpur Airport) よりバンコク経由で関空まで帰って来た。

仏跡を辿る旅のビデオ記録と覚え書きブログも、これで一応完成!




| 11:15:39 | Trackback(0) | Comments(0)
ワーラーナシー(ベナレス・バラナシ) Varanasi Ghat

Varanasi は、ヴァーラーナシー、ヴァーラーナスィー、バラナシとも発音する。
かつてはイギリスの植民地時代に制定された英語表記のBenaresの誤読により「ベナレス」と呼んでいた。この呼び方が一般的だったが、最近では「バラナシ」が一般的な呼称となっているようだ。
ガイドのマルカス氏が、ワーラーナシーという街の呼称は、「ヴァルナーとアッスィーに挟まれた街」ということから由来すると言っていた。

二度目のガンガーだ。 前に来た時と何も変わらない。 
まだ暗いバラナシの街は、インド全土から集まってきた熱心なヒンドゥー教徒に混じって、そんな祈りの光景を見てみようと、世界中から物見遊山で集まって来た我々のような旅行客やバックパッカーのガート(河岸にある階段。河に出入りできる場所)に向かう姿でごった返す。
ガートでは、早朝にも関わらず、辺りは、祈りのための鐘や太鼓があちこちで打ち鳴らされ、船のエンジン音等騒音と交じり合ったバラナシ独特の音が、そこに居る人々の内臓にまで響き渡る。

彼らの祈る姿と共に、暖色の電球で照らされた薄暗い石造りの建物が朝日に照らされ、濃紺の空をバックに徐々に立体的に浮き上がっていく。

もっともインドらしい、『ど迫力の光景』が現れる。

船から見るガートには、聖なるガンガーの流れに身体を清め朝日に向かって真剣に祈る人々でいっぱいになる。
朝日がスポットライトとなり、凝った舞台背景のお芝居を観ていいる様な気分になる。

岸から少し離れると、騒音も小さくなる。
世界中から見物に来た人達の乗った船が、ビデオカメラのファインダーの中を通り過ぎる。

対岸の東方向の中州から上る朝日が何とも厳かでありがたく感じる。

毎日同じ太陽にお目にかかってるのだが、ここの太陽はやはり違う。
マルカス氏は、シャッターを押す人達に、今日の太陽は、旨く撮れば、日本で数十万円で売れるかもと言う。そう言わせるくらい値打ちのある朝日、光景なのだ。

釈尊が、五人の比丘に対して最初に説法された初転法輪の地、サールナートはここから北西に10キロほどのごく近いところに位置する。
ので、仏跡を訪ねる旅では必ずこのバラナシが組み込まれるのだ。

ここを早朝に観光すると、後は、そのサールナート(鹿野苑)周辺をお参りした後、その足で帰国の途につくことになる。


| 12:05:42 | Trackback(0) | Comments(0)
スジャータ村 Sujata Village 


前の記事で書いたように、仏画『出山釈迦図』でお馴染みのお話である。
6年に渡り生死の境をさ迷うような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと判断(仏教の根本思想である中道を意味する)し、山(前正覚山)を降りる。
そのやつれた身体を癒し清めるため、やっとの思いで辿り着いた付近の尼連禅河(ネーランジャラー河)で沐浴をした。

付近のセーナ村に住む娘スジャータは、やつれ果てた姿の釈尊に遭遇して供養した。釈尊は、スジャータから供養された乳がゆを食して、体力を回復した。

(※スリランカに伝来の最後の旅が書かれた『スッタニパータ』では、スジャータはこの乳がゆに、諸天妙汁を加えていたと記しているそうだが、これが何なのか分からない。)

空腹に乳がゆの補給で、心身ともに回復した釈尊は心を落ち着かせて、乾季で水がほとんど無くなった尼連禅河を渡り、対岸(ブッダガヤ)まで歩いた。

余談だが、12月というこの時期、ネーランジャラー河には水は一滴も無い。まるで、砂漠のような川床が続いている。(我々一行は、この状態の川床に降り、砂を採集した)
当時はどうだったのか分からないが、乾季に入ったばかりなので、まだ沐浴できるほどの水が流れていたのだろうか・・・、少々疑問が残るのだが・・・。もし、流れがあったのなら、対岸のブッダガヤの森までどうやって行ったのだろう・・・。

現ブッダガヤの森の中にある大きな菩提樹の下(現大菩提寺)の岩(金剛宝座)の上に、通りがかった村人に干し草を貰って敷きつめ、その上に結跏趺坐(あぐら)し、瞑想に入った。
あらゆる誘惑(降魔)に打ち勝ち、釈尊35歳、旧暦12月8日の明け方(東アジアの伝承)、遂に成道し、仏陀となった。

悟りを開いた釈尊は、この素晴らしい悟り・真理が、他の人に理解してもらえるかどうか、その真理を他人に説くべきか否かを悩んでいた。
しかし、そこに、梵天が現れ、すみやかに衆生に説法するよう勧めた。そこで、釈尊は自らの悟りの内容をいかに説き、どう表現説明すればいいのかを求め、また七週間の冥想に入った。

一般的に、釈尊がスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に、鹿野苑で最初に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(うばい)ができたのも、その後と考えられるが、スジャータが最初の優婆夷とする仏典もあるそうだが、スジャータは、後に仏陀に帰依するが、当初は、悟りを得た仏陀の帰依者ではなく、悟りを開く手助け、きっかけになった女性として、後に聖人として祀られ、ストゥーパーが存在しているのだと思う。

※(仏教徒の中で、在家の女性信者を優婆夷という。男性は優婆塞(うばそく)という。

遺跡は、いかにもスジャータの『村』といった感じで、当時は「セーナ村」といったそうだ。ここは、今も日本の昭和初期の田舎を彷彿とさせる。ここも大好きな遺跡、ストゥーパだ。
10年前に来た時は、まだ発掘中で、半分だけレンガの遺跡が掘り出されていた。インドの発掘は、発掘しながら修理をするということで、「いきなり修復とは・・、だいじょうぶかいな・・・。」と思わずつぶやいた記憶がある。
しかし、今回も印象は変わらなかったが、遺跡は全容を現し、きれいに修復もされていた。遺跡の塀の中は、脱穀機に繋がれた耕運機のエンジンの音も小さくなり、時間が止まったようなのどかな光景が現れる。
ほんの一時だったが、静かなスジャータ村を堪能させてくれた。
遺跡の周囲の農家の佇まいも私の幼い頃の田舎を思い起こさせてくれた。

豊かな大地はここに住む貧しい人々をやさしく包み込んでいる。

勝手知ったる遺跡に、ビデオカメラを持って一人で走り入り、観光客の居ないストゥーパ周辺を撮った。ビデオカメラを回していると、豊かに青々とした野菜のなる畑の近くに、決して裕福とはいえない身なりの少女が映りこんだ。
遺跡に訪れた参拝客に有刺鉄線越しに物乞いする農家の人達も私に向かって、口元に手をやり「食べ物」という身振りをし、「何か食い物をくれ」とばかりに手を差し出し、その動作を繰り返す。
この人たちは、不可触民ではなく、お百姓さんだと思われる。

物を持っていない人が、物を持っている人に手を差し出し、物をねだるのは当たり前のことと聞いたことがあるが、たぶん、彼女たちからすれば、我々が外国から来た裕福な観光客に映っているのだろう。
こつこつ旅費を溜めてやっと10年ぶりに来たとは思って貰えない。

その少女は、若いお母さんの元に駆け寄り、我々一行のことを告げたのであろう。畑のあぜ道を、物見遊山なのか、二人でこちらに近寄ってくる。
逆光でその姿を捉えると、まるで、スジャータが映りこんだような錯覚を覚える。
良い絵が撮れたと思う。その部分をスロー再生にして編集した。

動画をご覧頂いた皆さんも、スジャータに会えたのでは・・・。


| 17:36:48 | Trackback(0) | Comments(0)
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