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仏絵師 正観

筆者:仏絵師 正観
2005年に書いた私の作文、仏画に魅せられて はここからDLできます。
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失われた地平線 1973年 Lost Horizon




チベット関連のニュース報道の量がめっきり少なくなった。

中国政府の報道シャットアウトで、情報が入って来ないのだろう。
中国政府の思い通りの展開なのだろうか・・・。
世界はその術中に陥るのだろうか・・・。

チベットは、あのバートバカラックが音楽を担当しヒットしたアメリカ映画「失われた地平線-1973」「LOST HORIZON 」でシャングリラ(桃源郷・理想郷)として、夢の舞台となった地、東西を問わず世界中の聖なる地、憧れの地である。

映画のチベットは作り物である。しかし、でも、それに近い。
チベット仏教(ラマ教)に根ざした彼らの生活は非暴力で平和主義。中国政府の言うダライ・ラマが暴力の首謀者とはよく言えたものである。
中国政府が、兵士に僧衣をまとわせ、「暴力や破戒をする僧」としてビデオ撮りし、世界中に放映したと聞く。
世界は、ダライ・ラマにノーベル平和賞を与え、尊敬している。
中国政府の書いたこんな最悪のシナオリオに、世界が容認するなら、世も末だ。
未来も夢も真実も無い、そんなバカな世界を若者に残すことは絶対避けたいと思うのは私だけなのか・・・?



挿入歌 Living Together, Growing Together



テーマ:伝えたい事 - ジャンル:ブログ

新聞原稿より | 09:22:17 | Trackback(0) | Comments(0)
こころのお隣さん
私のインターネット事情

もう四年も前になる。地味な仕事のわりには、新しいもの好きの私は、以前より、パソコンを絵筆変わりに、仏画の構想を練っていたのだが、世間に少しずつ浸透しつつあるインターネットなるものを経験したくなった。
パソコン店に行くと、意外と安価で接続できるらしい、私の貧しい財布の中身でも用が足りた。
さっそく、買って帰ったモデムを接続し、店で契約した格安のプロバイダーとの接続を試みたが、やはりダメ。うまく接続できない。
プロバイダーの若い社員に、電話で汗をかきながら質問。冷たく事務的に答える理数系の若い社員の口調に傷つきながら、何度もトライし、やっと接続。

その頃のインターネットといえば、理数系の学生たちが我がもの顔に君臨していた。私など、おじさんの初心者は、部外者扱いをされよくバカにされたものだ。
もっとも、訳の分からない自分が卑屈になっていたのかもしれないが…。

そんな私が、まもなく自分のホームページ(HP)を開設するのだから、我ながらたいしたものだ。
世間に、仏画のすばらしさや現代もなお、昔ながらに仏画が制作され続けている事実を私の想いと共に伝えたかった。
仕事が終わった深夜、とりつかれた私は、HP作りに燃えた――。

一九九七年三月十日、めでたく仏画工房 楽詩舎 のHPが完成、無数の修正や追加ページで今では、とりとめのない、独り善がりのやたら大きいサイトになってしまっている。仕事のことだけでなく、自分の人生や日頃気になっている社会問題など、生身の自分をさらけ出している。
現在、三万三千人の老若男女が、私の手作りサイトに来てくれている。雑誌などにも紹介されたりしたが、こんな地味な内容のHPの来訪数としては、異例らしい。
そんなことで、全国いや世界中の仏教ファンとご近所付き合いすることが多くなった。
今、インターネットは、人と人とのコミュニケーションの有り方を根底から変えようとしている。地球の裏側が、お隣さんなのだ。
今や、私の世代でもほとんどの人がパソコンを持っている。
仕事においても、私のHPを見て制作依頼して来る人も増えてきた。また、仏教に興味有る人との仏教談義に寝るのも忘れ、仏教書を読んだりと、忙しくも楽しい毎日を過ごしている。
最近、私の所属する仏教クラブのHPを作らせていただき、運営管理までさせていただいている。まだ、どんなサイトに進化するのか期待していただく段階なのだが、やはり仏教の精神で、すさんだ現代人の心を癒せるようなサイトを目指したいと思っている。
私は、それが可能なのを過去のインターネット経験で知っている。

宗教者は、このインターネットなる最高のこころ通信システムに無関心でいてはいけないと思う。
インターネットは、宗教者にとって無限の可能性を持っている。
インターネットでは、布教(情報発信)する側もされる側も、心のお隣さんなのである。
現代人の痩せた心には、身近で暖かいメッセージが何よりも必要なのだから――。



新聞原稿より | 08:54:09 | Trackback(0) | Comments(0)
現代仏画制作事情
完成度の低い現代仏画

 仏画と一口に言っても一般には、大きく分けて芸術作品としての仏画と、仏具としての仏画が存在し、また、認識されているようである。

 私は依頼により仏画を描くことを生業としているので、どちらかというと後者の仏具としての仏画を制作していることになるのだが、私の場合は、どうしても仏画を “絵゛として観てしまう。
 私が、この世界に入ったのは、若い頃、イタリア・ルネッサンス期の宗教画家であるところのダビンチやボッテチェリ・ラファエロといった大家の描く崇高な色彩と形に憧れた。
いわゆる総合的な”美゛というものに共鳴し、回り道の末、仏画という表現方法はぜんぜん違うのだが、制作意図と目的とを同じくした”絵゛に巡り会ったわけだ。
当然前者はキリスト教を、後者の仏画は佛教を伝え説くための絵であるから宗教を超えたところで共通しているのだ。
少なくとも私が宗教画に関わった中ではそう思っている。
両者とも最高の芸術作品だと――。

 昨今は、写経と並び写仏も盛んのようである。その延長として「仏画の描き方」なる冊子が多く出版されている。
今は、何でもマニュアルがなければ何も始まらないといったことかもしれないが、そのことがいっそう仏画を信仰の対象と位置付け、本当の意味での芸術性から遠ざけているのかもしれない。
 明治時代の日本画の大家が、仏画を頼まれて描こうとしている弟子に絵描きの姿勢として大いに嗜めた事を何かで読んだことがある。それは、おおよそこうだった。
「佛のお姿を描けば観る人は必ず手を合わせてくれる。絵描きはともすれば自分の技量に対して手を合わせてもらっていると勘違いをする。絵の修行をするものは、安易に佛を描いてはならぬ。」ということだ。
佛の描かれた絵は、作品としての評価がつけられないのだ。
 私は、仏画の制作者として、描いたものが佛というだけで、ありがたいありがたいと感謝され喜んで頂ける。そんな仕事をさせてもらっている。描いた内容が他のものなら、こうはいかないとも認識している。
自分が絵描きとして意識した時は、生ぬるい湯に肩まで浸かって仕事をしていることに恥ずかしささえ覚えることもある。
 話しが逸れたが、このことから、裏返せば、逆にマニュアルさえ覚えれば誰にでも仏画が描けるということにもなるわけで、昨今の仏画が、完成度の低いものとなっている要因にもなっている。
つまり、芸術家としての絵仏師や仏画家に厳しい批判のできる大家と呼ばれる人物や指導者が居ないのだ。
 この状態は、現代の仏画制作者にとって、きわめて不幸なことで、第三者の厳しい批評を受けにくい状況を作り出している。
信仰心だけでは、造形内容は良くならないのだ。
それプラスたゆまない技術の練磨があってはじめて良い仏画が生まれるのだ。
 自分の為に描く仏画なら、それはそれでも良い。
しかし、寺院に後世まで残るであろう仏具としての仏画を描く絵描きは、しっかりと自分の技量を磨き、また勉強し、少しでも完成度の高い仏画を目指すという自覚が求められる。


新聞原稿より | 08:36:52 | Trackback(0) | Comments(0)
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