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釈迦生誕祭 -花まつり-

お釈迦さのお生まれになった現在のルンビニ園-2014-正観撮影・編集


今日は、2500年ほど前の北インド(今のネパール)でお釈迦様がお生まれになった日です。
私の生まれた東近江市の宮荘という集落にある、真宗大谷派の寺、行願寺には3歳児から預かる保育園があって、ご住職が園長先生でした。
私が園児だった頃、そう・・・、65年も前のことですが、「花まつり」になると直系50cmぐらいの大きな木製の車輪が4つ着いた台車に備え付けた実物の象ぐらいの大きな張り子の白象の背中にお釈迦様の誕生仏の安置した花御堂を乗せ、周りを美しい花々で飾って、園児たちで曳いたのを思い出します。
お釈迦様の誕生日の4月8日になると、普段、その張り子の象さんが、この日の出番にむけ片付ててある納戸に忍び入って、空洞になったお腹の中に入って園児たちが遊んでいたのを思い出します。園児が4~5人は入れたでしょうか・・・。
そんな3歳の頃の淡い思い出が、蘇ってくるのです。

お釈迦さまのお生まれになったルンビニ園(ビデオ)、は、ヒマラヤ山麓、現在のネパールにあります。

昔の中インド迦毘羅国(かびらこく) ルンビニ園の庭 無憂樹(むゆうじゅ)下でお生まれになりました。
父は、 釈迦族の王、首頭壇那(スドダーナ)=浄飯王(じょうぼんのお) 母は、磨訶摩耶(マカ・マーヤ)と言います。
摩耶夫人は、35歳の時のある夜、六つの牙を持つ白像が天より降りて右脇より体内に入る夢を見ました。
バラモンの夢占師に聞くと、インドでは、象は聖獣とされているため、まさに吉夢で、世継ぎ誕生の兆しと告げられました。
マーヤはまもなく懐妊し、マーヤが出産のため、里帰りの途中立ち寄ったルンビニ園の庭で休息中、無憂樹の花を手で折ろうとしたところ、右脇の下から釈尊がお生まれになったとされています。
生まれてすぐに四方に七歩ずつあるいて、右手は天、左手は地を指して「天上天下、唯我独尊」と宣言されたと云われています。
三十二相とも三十四相ともいわれる瑞相のうち、大地に宝蓮華の出現、無数の白象子、五官の白御子王の出現、一切の樹神、化して人形となり礼侍 したとされ、地中の伏蔵、自ら発出したとされます。



動画 | 11:44:51 | Trackback(0) | Comments(0)
"My dad's story": Dream for My Child

香港の保険会社MetLifeのCMだそうですが、不覚にも涙してしまいました。
良いショートムービーなので、私のブログにも貼り付けておこうと思いました。

父子家庭ながら仲睦まじく暮らす父と娘。
少女の書いた作文「私のパパの話」がエッセイコンテストで賞を受賞します。
喜びを隠せない父親。
受賞の帰り道、その作文を読み始めます。
そこには、パパを褒めるたくさんの言葉が…
「パパは世界一かっこよくて、ハンサム。とても賢くて優しい。パパは私のスーパーマン!」
父親は満面の笑みを浮かべ作文を読み進めます。
しかし、その先に書かれていた言葉に笑顔が消えます…

「パパは嘘つきだ」

実は父親は職を失い生活に困窮する中、娘の生活を支えるために、職探しに奔走しながら日雇いの仕事に明け暮れていました。
そんな姿をみせまいと父親は娘にたくさんの「嘘」をついていました。

仕事がある、お金を持ってる、疲れていない、お腹は減っていない…すべて嘘でした。

少女は、自分のために頑張るパパのそんな嘘にすべて気付いていました。


※転載元記事 http://trend-izumi.com/post-1387/

動画 | 12:27:20 | Trackback(0) | Comments(0)
現代仏画制作事情
完成度の低い現代仏画
 仏画と一口に言っても一般には、大きく分けて芸術作品としての仏画と、仏具としての仏画が存在し、また、認識されているようである。

 私は依頼により仏画を描くことを生業としているので、どちらかというと後者の仏具としての仏画を制作していることになるのだが、私の場合は、どうしても仏画を "絵゛として観てしまう。
 私が、この世界に入ったのは、若い頃、イタリア・ルネッサンス期の宗教画家であるところのダビンチやボッテチェリ・ラファエロといった大家の描く崇高な色彩と形に憧れた。
いわゆる総合的な"美゛というものに共鳴し、回り道の末、仏画という表現方法はぜんぜん違うのだが、制作意図と目的とを同じくした"絵゛に巡り会ったわけだ。
当然前者はキリスト教を、後者の仏画は佛教を伝え説くための絵であるから宗教を超えたところで共通しているのだ。
少なくとも私が宗教画に関わった中ではそう思っている。
両者とも最高の芸術作品だと――。

 昨今は、写経と並び写仏も盛んのようである。その延長として「仏画の描き方」なる冊子が多く出版されている。
今は、何でもマニュアルがなければ何も始まらないといったことかもしれないが、そのことがいっそう仏画を信仰の対象と位置付け、本当の意味での芸術性から遠ざけているのかもしれない。
 明治時代の日本画の大家が、仏画を頼まれて描こうとしている弟子に絵描きの姿勢として大いに嗜めた事を何かで読んだことがある。それは、おおよそこうだった。
「佛のお姿を描けば観る人は必ず手を合わせてくれる。絵描きはともすれば自分の技量に対して手を合わせてもらっていると勘違いをする。絵の修行をするものは、安易に佛を描いてはならぬ。」ということだ。
佛の描かれた絵は、作品としての評価がつけられないのだ。
 私は、仏画の制作者として、描いたものが佛というだけで、ありがたいありがたいと感謝され喜んで頂ける。そんな仕事をさせてもらっている。描いた内容が他のものなら、こうはいかないとも認識している。
自分が絵描きとして意識した時は、生ぬるい湯に肩まで浸かって仕事をしていることに恥ずかしささえ覚えることもある。
 話しが逸れたが、このことから、裏返せば、逆にマニュアルさえ覚えれば誰にでも仏画が描けるということにもなるわけで、昨今の仏画が、完成度の低いものとなっている要因にもなっている。
つまり、芸術家としての絵仏師や仏画家に厳しい批判のできる大家と呼ばれる人物や指導者が居ないのだ。
 この状態は、現代の仏画制作者にとって、きわめて不幸なことで、第三者の厳しい批評を受けにくい状況を作り出している。
信仰心だけでは、造形内容は良くならないのだ。
それプラスたゆまない技術の練磨があってはじめて良い仏画が生まれるのだ。
 自分の為に描く仏画なら、それはそれでも良い。
しかし、寺院に後世まで残るであろう仏具としての仏画を描く絵描きは、しっかりと自分の技量を磨き、また勉強し、少しでも完成度の高い仏画を目指すという自覚が求められる。 -ふじのしょうかん-

これは、今から14年前の2000年に中外日報に書いたコラムの内容だ。
今も、昔も何も変わっていない。
相変わらずだ。
今や、芸術でも工芸でもない「仏画」という特別な美術の世界となって認知され定着してしまったようである。
自分で仏画を意識し制作する人は、ぜひ、仏道を通じて精進して欲しいと、心から願う今日この頃である。


動画 | 13:44:19 | Trackback(0) | Comments(0)
トランセンデンス を観てきた


ウォーリー・フィスター監督、ジャック・パグレン脚本による2014年のイギリス・中国・アメリカ合衆国のSF映画である。
昨日、兼ねてより楽しみにしていた映画『トランセンデンス』を、京都駅の近くにあるTジョイ京都に朝一番(9:10上映開始)に観に行った。※中国は出資しているが、映画のその内容には、その匂いはない。

Tジョイはイオンモールビルの5階にある。
以前来た時のように、ビルの外にある長いエスカレーターで上がれば良いと思い込んで行った。しかし、イオンモール自体がまだ開店前。シーンと静まりかえっている。

もちろんその当てにしていたエスカレータも止まったまま・・・。

9時10分からの上映と言うことで、8時45分には到着したのだが、さて、どこから5階まで登るのだろうと、当たりを見回してもそれらしき入口は閉まっている。

しばらく立ちすくんでいると、何人かの人達が足早にビルの際を足早に歩いていく姿が見えた。
着いて行った。
すると、映画を早朝に観る人用のエレベーターが動いていた。さすがである。
めったに街中には出歩かない私は、初めて見る物経験するもの、何にでも妙に感心してしまう。

それに飛び乗り5階まで上がる。駐車場の通路を通ると映画館の入口だった。朝一番の上映といえども、結構な人が入っていて賑わっていた。
前日にネットで予約してシニア価格の1100円を支払ってある。これは経験済みである。
プリントして来た予約席の引換券のバーコードを券売機にかざし入場券に代え、390席の最大収容の「シアター10」に入った。上映15分前でも席には誰も居ない。
前日の予約席状況では、たったの4人だった・・・。
結局映画が始まる頃には、30人くらいは入っていただろうか。ほとんどガラガラ状態だった。ロードショー直後だというのにこんなものなのだろうか・・・。

さて、この映画『トランセンデンス』、楽しみにしていたのだが、この奥深いテーマにしては、テーマが描ききれていない。
単なる娯楽映画並の出来で、今ひとつ、腑に落ちないところも多々あった。

あらすじはこうだ、世界初の人工知能PINN(ピン)を研究開発するコンピューター科学者のウィル・キャスター(ジョニー・デップ)とその妻エヴリン(レベッカ・ホール)は、コンピューターが人間の能力を超えることができる世界を構築する為の技術的特異点を目標に活動していた。
しかしそのさなか、ウィルは反テクノロジーを唱える過激派テロ組織RIFT(リフト)の凶弾に倒れてしまう。
エヴリンは夫を救うべく、死の際にあったウィルの意識をPINNにアップロードする。
彼女の手により人工知能としてよみがえったウィルは、軍事機密から金融、経済、果ては個人情報にいたるまで、ありとあらゆる情報を取り込み、驚異の進化を始める。

やがてそれは、誰も予想しなかった影響を世界に及ぼし始める。

人工知能と化した科学者の姿を通して、行き過ぎたテクノロジーがもたらす危機を描いている・・・・。

と、ウィキペディアにあった。映画を要約するとこのとおりなので、コピペで済ませた。

テーマが素晴らしい。
人の意識がコンピューターに入り、ネットに繋がったその人格を得た人口知能は人類の知り得た全ての情報を一瞬にして獲得する。
コンピューターが自我を得る時代が来る。人の意識が機械に移植されるのか機械が人格を得るのか・・・。
人にとっての便利さだけを追求するようにプログラミングされた人類は必ず『究極の便利』に到達する。
柔な肉体と決別する日が来るに違いない。その時代はすぐそこまで来ている・・・。私の日頃の持論だ。

だから、期待して観に行った・・・・のだが、

我々日本人と西洋人の神に対するイメージがあまりに違い過ぎ、過激派テロ組織RIFT(リフト)の意識が今ひとつ理解できない。

ウィルの意識でコントーロールされた人工知能PINNは、ほぼ神に近い存在だから、この過激派テロ組織RIFTは、脅威と捉え、この人工知能を破壊しようとする。
我々、鑑賞するものは、まず、どちらが正義なのか理解できないまま鑑賞する羽目になる。
これは、映画を見終わった後にも尾を引き、何やらスカッとしないのだ。

いづれにせよ、西洋人の『神』は畏敬の念を越え、神に対する恐れ、その絶対神に対し服従しなければならないといったそんな感覚が心の奥底に潜んでいるのだろう。絶対神は、あくまでも一人でないといけないのだ。

我々日本人の『八百万の神々』は、畏敬の念、感謝の気持ちが先に有り、直接的に『神の怒り』を恐れるといった観念は「ばちがあたる」程度で、さほどないように思うし、日本の神々はそこいらじゅうにおわすものなので、トイレの神様だって居るし、当然ながらネットの神様だって居ることになる・・・のだが・・・。

この映画の脚本家は、意思を持った人工知能を作ることは、やはり「神に対する冒とく」と捉えているのだろう・・・。

「コンタクト」という私の好きなSF映画もこの『神の怒り』を恐れる過激派テロ組織が未知の建造物の制作を邪魔をするシーンがある。

科学と宗教は相反するものなのか、同じものなのか、つまり科学の進歩に宗教が着いていけるのかどうか、宗教者はそろそろ真剣に考えなければならない時期に来ているのだろう。

この映画を観て感じたのは、結局このことなのかもしれない。

動画 | 15:27:53 | Trackback(0) | Comments(0)
Deva Premal and Miten - Gayatri Mantra  マントラ


■マントラ
マントラ(mantra मन्त्र)はサンスクリットで、本来的には「文字」「言葉」を意味する。 宗教的には讃歌、祭詞、呪文などを指す。インドではヴェーダ聖典、またはその本文であるサンヒター (saMhitaa) のことをいう。またタントラ教ではシャクティ崇拝の儀礼の際に用いられる祈祷の定型句、ヨーガ学派では音声による修行法を意味する。

大乗仏教、特に密教では仏に対する讃歌や祈りを象徴的に表現した短い言葉を指し、真言と漢訳される。密教では、真言を念じて心を統一する真言陀羅尼(しんごんだらに、dhaaraNii)が重要視された。 また、諸仏を象徴した種子(しゅじ)と呼ばれる悉曇文字(しったんもじ、siddaM)も真言の一種といえる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

と、いうことで、ユーチューブの動画がUPできるということで、今後は私のお気に入りを紹介できればと思っている。




動画 | 09:08:55 | Trackback(0) | Comments(0)

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