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祇園
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と『平家物語』の冒頭にあるように、この祇園精舎は、北インドでお生まれになったお釈迦様が、クシナガルで覚りを開いた後、サルナート(鹿野苑)、マガタ(竹林精舎)、そして、コーサラ(祇園精舍)と、順に仏法を説いて旅を続けられ、その中でも、雨季のため、一番長く安居(滞在)し、衆生に説法された場所が祇園精舍なのである。

伝承によれば、コーサラ・舎衛城(しゃえじょう)の長者・スダッタ(給孤独・ぎっこどく)が、帰依(きえ)したお釈迦様に僧院を寄進しようと、その土地を捜した。
そしてジェータ(祇陀・ぎだ)太子の所有する土地が理想の場所であると定めた。ところが、太子はその土地を長者に譲ろうとしないばかりか、たとえ金貨を大地に敷しきつめてもここを譲らぬ、というのである。
それを聞いたコーサラの大金持ちの長者スダッタが、この土地に実際に金貨を敷き始めると、太子は、彼のお釈迦様に対する帰依の深さに感銘を受け、その土地の喜捨(きしゃ)を申し出たのである。そればかりか、僧院の建築に必要な材木(祇樹・ぎじゅ)をも寄進し、ここに、太子と長者が共同でお釈迦様に捧げた精舎(説法する場所=お寺)が、建立されたのである。
お釈迦様は、この祇園精舍で、二十五回もの説法を行ったといわれている。

阿弥陀経をはじめとする、多くの人々を救うための法が説かれたこの精舎は祇陀太子と給孤独長者の徳を偲び、二人の名前にちなんで「祇樹給孤独園精舎」(ぎじゅきっこどくおんしょうじゃ)縮めて祇園精舎(ちょっと無理があるような・・・)と、呼ばれたのである。
京都の八坂神社は、明治四年の神仏分離令までは、この祇園精舎の名を取って祇園感神院と呼ばれる比叡山延暦寺の別院であった。
それが八坂神社と改名されたが、その祭礼は祇園祭と呼ばれてその名を残し、その門前町が祇園として残ったのである。
今では、その祭りや街の名前だけが、京都を代表するものとして残っている。


うんちくひけらかし | 08:47:50 | Trackback(0) | Comments(0)
主人がオオアリクイに殺されまして1年が過ぎました
私の持つ一部のメールアドレスはウェブに公開してある為、毎朝300通ほどのスパムメールが届く。
その大部分が、中国など外国からと出会い系サイトやアダルトサイトの案内である。
そういった私にとって不必要なメールの削除作業が、毎朝の日課となっている。
最近では、この作業も、メールの件名速読術が自然に身につき、1分以内で、必要なメールとそうでないメールを見分け、必要な数割のメールを残して削除できるようになった。

でも、そんな作業の中、今朝は、思わず笑わせてもらった。

件名に「主人がオオアリクイに殺されまして1年が過ぎました」とあった。出会い系サイトの案内誘導メールだった。

こんなおもしろいフレーズは久々だった。思わず吹き出した。

いつもは、もう腹も立たず、淡々とその不必要なスパンメールを削除しているのだが、今朝は、はじめて笑わせてもらった。

逆に礼を言いたくなった。




うだうだ | 09:19:10 | Trackback(0) | Comments(0)
京都在住三十六年
一九六九年、近江商人の出身地として知られる近江の国は五個荘町を後にし、京に住む私の師の御宅に内弟子として移り住んだ。その時からの私と京都との関わりである。
現在、「竹取物語」の舞台と伝えられる洛西、大原野(おおはらの)に住居と工房をそれぞれ構えている。田舎者は田舎に住みたいものである。私の故郷と良く似た環境、つまり竹林や田園の広がる京都市内では最後の田舎なのである。
都人(みやこびと)に言わせると、何でも、桂川より西方は、「都」つまり「京」ではないらしい。師のお宅も桂だったので、私の場合は、京都在住三十六年と言ってはいけないのかもしれない・・・。
「何でや!」ということで、京都市在住の私は、その辺りを解明すべく、よろよろと立ちあがったのである。

そういえば、桂での修行時代もそうだったが、現在の住居地、大原野でも、ご近所のお年寄りが、よそ行きの姿でお出かけされる時「お出かけですか?」と声をかけると、決まって、「ちょっと、京まで」と、当たり前のような返事が返ってくる。
自分達の住んでいる洛西・大原野は「京」ではないのらしい――。

一九五九年( 昭和三四年)、京都乙訓郡大原野村が京都市右京区に編入。その後、一九七六年 (昭和五一年) その右京区からも分区され、現在の西京区大原野が誕生した。
このことから、この地域に住むお年寄りが、「京の都に出かけてきます。」と言う表現が妙に納得できる。

大原野の「野」を百科事典で調べると、皇室の猟場として、一般の狩猟を禁じたところとあるが、なるほど、現在では市街化してしまってはあるが、近郊には、北野、紫野、栗栖野、嵯峨野など野のつく由緒正しい地名が多い。

一方で東の鳥辺野、西の化野、北の蓮台野など、早く平安京初期から都の近郊に存在した葬送地として知られる「野」のつく地域もある。
かの有名な源氏物語の行幸(みゆき)の巻に「大原野の行幸」というくだりがあるらしい。天皇の出行すなわち御行。天子の行く所、万民が恩恵に浴し、幸いを受けるので〈幸〉というらしい。・・・・知らなかった。
この物語の様子から、私の住む大原野は、やはり帝(みかど)の狩猟場として、平安の昔から皇族たちに大切に庇護され、都に隣接する大自然、大原野だったことが想像できる。
くどいが、誤解があってはならないのでもう一度書くが、現在、大原野は京都市西京区である。当然、私は京都在住ということになる。


うだうだ | 15:05:14 | Trackback(0) | Comments(0)
■学ぶべきときって・・・?
幼い頃から絵を描くことが何よりも好きだった私は、高校を卒業すると、縁あって京都の染織図案家の内弟子となった。学校で習うことのなかった日本の伝統文様や、その西洋にはない色や形など、日本固有の美に目覚めた。また、それ等を辿っていく伝承方法に我を忘れて没頭した。
三十四才の頃、日本画の極みであるところの仏画に出会った。決して若くはない。もともとイタリアルネッサンス期の宗教画の好きだった私は、同じ主題を持つ仏画にのめり込んでいった。それまでに培った伝統技法はもちろん、和の美意識や価値観は、伝統仏画の制作にぴったり嵌った。

今までに約三千五百点もの仏画を全国の寺院や在家に描いてきた。我ながら信じられない量の仕事をしてきた。
仏画を描きたいという一念が、大層な結果を出した。
今後も続けるであろう仏画家人生において、心底納得できる仏画を一点でも多く描くことが、今の私の最大の目的となっている――。

私が中学の頃、勉強も運動も全てが「勝ち負け」だった。私はそんな評価をする大人たちの世界が嫌いだった。いつも反発していた。「テストの成績など、気にしたらオレの負けや!」と、嘯きながら校内の掲示板に貼り出された成績順位を横目で見ていた。友人との戦いに勝った子供が、いつも評価されていた。その頃の私は、たぶん、負け組みだったのかもしれない・・・。

最近、私の手作りのホームページを観て、仏画を学びたいという一心で工房の門を叩く若者が多くなった。
最高学歴、しかも社会人としての経験も積んでいる者が多い。その彼らが言う。「今まで生きてきて初めて、心から学びたいと思った。」と――。
教え伝えること、そして学ぶこと。この二つがうまく絡み合う時、最高の伝承・継承、そして新しい何かが生まれる。勉強するのに、遅いも早いも、勝ちも負けもない。「学びたい」と思う時、その時が、「学ぶべき時」なのである。


仏画 | 15:34:44 | Trackback(0) | Comments(0)
ご時世4 「いじめとは?」
今日は、いじめられているという感覚を、私の経験から考えてみたい。
いじめられている・・・とか、いじめられているかもしれない・・・とか、からかわれている・・とか、当然ながらその感覚は被害者的な感覚である。

私が、幼かった頃・・といっても、中学を卒業する頃までは、色白で細身でお坊ちゃま風の面構え、スポーツもそんなに得意な方ではなかった。ソフトボールなど球技では、チームの足をひっぱっていたと思う。ともすれば、いじめれたりからかわれたりする容姿・タイプだったような気がする。

ただ、理屈だけはよく言う少年だった。なにせ、理不尽な事が嫌いで、真っ直ぐだった。生意気だったと思う。
でも、入学当初や、クラス替えなど、初めてクラスメイトと顔を合わす時期には、容姿や見栄えだけで、よく根性を試されたものだ。いや、私もそんなことをして、クラスメイトを試した記憶もある。

相手に、ちょと肩をあてたり、偶然足がひっかかった振りをしたり、相手の様子、反応を試すのだ。
特にクラス内の男子における力の上下関係を確立すべく暗黙のうちにそういった力関係による位置を決め始めるのだ。
今、考えると、これこそがコミニュケーション活動の最初、基本ではないかと思うのだ。

私のような、利発そう(あくまでも、そう・・・)だが、色白できゃしゃな男の子はすぐに試される。
でも、「あいつをからかえば、倍になって帰ってくるし、手を出せば、死に物狂いで突進してくる。あいつは真っ直ぐな奴だから、からかうに値しない・・・」ということになった。 ・・・のだと思う。

中学になっても相変わらず派手な取っ組み合いの喧嘩をした。新しい国語の辞書の表紙の金文字をコンパスの芯で削られたからである。その張本人は、いじめているとか、からかっているとかそういった感覚ではなく、単なる「無意識」だった。
当時は、誰もが、記念にという訳ではないが、分厚い天然木製の机の表面に傷をつけることはよくあった。彼もそんな何気ない気持ちでしていたのだろう・・。

私にとっては昨日届いたばかりの国語辞典、新品ピカピカだった。まさか、そんなバカなことをする奴が居るとは、信じられなかった。「何をするんや!!」の声に、奴は笑って、気にもしていない様子だった。 私はいきなり切れた。

相手の胸座を掴むなり、机や椅子をなぎ倒し、教室の一番後ろの壁まで一直線。そして倒れ込んだ奴の上に馬乗りになった。
興奮しているので、バカ力が出たのだろう。
私よりも背丈の大きいそのいたずら少年は、あまりの過激な反応にあっけにとられ、攻撃することすら忘れていたようだった。
私は、謝って欲しかった。私が怒っていることをきちんと受け止めて欲しかった。
あまりに「なんで!?」といったとんちんかんな表情をしている彼の顔は、さすがに殴れなかった。「殴らないでおこう」と判断したことは今でも鮮明に覚えている。
が、そのうち状況を受け止めた奴は反撃に出てきた。その後はよく覚えていないから怖い・・・。

ちょうど給食の準備の時間だったように記憶しているのだが、激しい戦いの為に給食の準備ができず、教室の中の机や椅子が散らかっていた。
もちろん、給食の準備が遅れ、我々二人は、当然ながら給食にもありつけづ、職員室に呼び出された。

興奮冷めやらぬ私は、担任の下した「喧嘩両成敗」に対しても、職員室全部に聞こえるぐらいの大きな声で、「先生、おれは何も悪いことはしていない!その論理はおかしい!!」とたてついた。
その後、その担任が、我々二人にどのような対処をしたのかまったく記憶にないのだが、その中学3年生になった頃の理不尽な出来事だけが記憶に残っている。

しかし、ここで、大切なのは、その彼が、私を困らせてやろうとか、いじめの対象としてやっていなかったことが、取っ組み合いの中で察知できた。そのことは、私にとって救いだったことである。

彼は、その後の友人関係の中でもはっきり知ることになるのだが、彼は「人の物も自分の物も分け隔てなく大切にしない奴」だったのだ。そういう奴だったのだ。悪気がなかったのだ。
つまり、私を困らせようと思ってやったのではなかったのだ。

この喧嘩で、彼の本心が見えたということは、彼も私の価値観を見てくれたことになる。その後、彼とは同じ高校に進み、お互いを認め合う、何の蟠りもない友人関係が続いた。彼の、物を大切にしない「雑だがおおらかな人柄」に自分にはないものを認めることができ、懐かしい友人の一人となっている。

いじめって、大部分は、「いじめを受けた」と感じている人の受け取り方で決まるような気がする。・・・いやきっとそうだ。
本当にいじめている人が居たら、それは犯罪だと思う。
いじめられていると感じている人は、いじめられているのかどうか命がけで確かめてみたらどうだろう・・・。
もし、誰かが本当にいじめられているなら、皆でそのいじめた本人をとっちめればいいではないか。


うだうだ | 10:12:00 | Trackback(0) | Comments(0)
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