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祇園
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」と『平家物語』の冒頭にあるように、この祇園精舎は、北インドでお生まれになったお釈迦様が、クシナガルで覚りを開いた後、サルナート(鹿野苑)、マガタ(竹林精舎)、そして、コーサラ(祇園精舍)と、順に仏法を説いて旅を続けられ、その中でも、雨季のため、一番長く安居(滞在)し、衆生に説法された場所が祇園精舍なのである。

伝承によれば、コーサラ・舎衛城(しゃえじょう)の長者・スダッタ(給孤独・ぎっこどく)が、帰依(きえ)したお釈迦様に僧院を寄進しようと、その土地を捜した。
そしてジェータ(祇陀・ぎだ)太子の所有する土地が理想の場所であると定めた。ところが、太子はその土地を長者に譲ろうとしないばかりか、たとえ金貨を大地に敷しきつめてもここを譲らぬ、というのである。
それを聞いたコーサラの大金持ちの長者スダッタが、この土地に実際に金貨を敷き始めると、太子は、彼のお釈迦様に対する帰依の深さに感銘を受け、その土地の喜捨(きしゃ)を申し出たのである。そればかりか、僧院の建築に必要な材木(祇樹・ぎじゅ)をも寄進し、ここに、太子と長者が共同でお釈迦様に捧げた精舎(説法する場所=お寺)が、建立されたのである。
お釈迦様は、この祇園精舍で、二十五回もの説法を行ったといわれている。

阿弥陀経をはじめとする、多くの人々を救うための法が説かれたこの精舎は祇陀太子と給孤独長者の徳を偲び、二人の名前にちなんで「祇樹給孤独園精舎」(ぎじゅきっこどくおんしょうじゃ)縮めて祇園精舎(ちょっと無理があるような・・・)と、呼ばれたのである。
京都の八坂神社は、明治四年の神仏分離令までは、この祇園精舎の名を取って祇園感神院と呼ばれる比叡山延暦寺の別院であった。
それが八坂神社と改名されたが、その祭礼は祇園祭と呼ばれてその名を残し、その門前町が祇園として残ったのである。
今では、その祭りや街の名前だけが、京都を代表するものとして残っている。


うんちくひけらかし | 08:47:50 | Trackback(0) | Comments(0)
主人がオオアリクイに殺されまして1年が過ぎました
私の持つ一部のメールアドレスはウェブに公開してある為、毎朝300通ほどのスパムメールが届く。
その大部分が、中国など外国からと出会い系サイトやアダルトサイトの案内である。
そういった私にとって不必要なメールの削除作業が、毎朝の日課となっている。
最近では、この作業も、メールの件名速読術が自然に身につき、1分以内で、必要なメールとそうでないメールを見分け、必要な数割のメールを残して削除できるようになった。

でも、そんな作業の中、今朝は、思わず笑わせてもらった。

件名に「主人がオオアリクイに殺されまして1年が過ぎました」とあった。出会い系サイトの案内誘導メールだった。

こんなおもしろいフレーズは久々だった。思わず吹き出した。

いつもは、もう腹も立たず、淡々とその不必要なスパンメールを削除しているのだが、今朝は、はじめて笑わせてもらった。

逆に礼を言いたくなった。




うだうだ | 09:19:10 | Trackback(0) | Comments(0)
京都在住三十六年
一九六九年、近江商人の出身地として知られる近江の国は五個荘町を後にし、京に住む私の師の御宅に内弟子として移り住んだ。その時からの私と京都との関わりである。
現在、「竹取物語」の舞台と伝えられる洛西、大原野(おおはらの)に住居と工房をそれぞれ構えている。田舎者は田舎に住みたいものである。私の故郷と良く似た環境、つまり竹林や田園の広がる京都市内では最後の田舎なのである。
都人(みやこびと)に言わせると、何でも、桂川より西方は、「都」つまり「京」ではないらしい。師のお宅も桂だったので、私の場合は、京都在住三十六年と言ってはいけないのかもしれない・・・。
「何でや!」ということで、京都市在住の私は、その辺りを解明すべく、よろよろと立ちあがったのである。

そういえば、桂での修行時代もそうだったが、現在の住居地、大原野でも、ご近所のお年寄りが、よそ行きの姿でお出かけされる時「お出かけですか?」と声をかけると、決まって、「ちょっと、京まで」と、当たり前のような返事が返ってくる。
自分達の住んでいる洛西・大原野は「京」ではないのらしい――。

一九五九年( 昭和三四年)、京都乙訓郡大原野村が京都市右京区に編入。その後、一九七六年 (昭和五一年) その右京区からも分区され、現在の西京区大原野が誕生した。
このことから、この地域に住むお年寄りが、「京の都に出かけてきます。」と言う表現が妙に納得できる。

大原野の「野」を百科事典で調べると、皇室の猟場として、一般の狩猟を禁じたところとあるが、なるほど、現在では市街化してしまってはあるが、近郊には、北野、紫野、栗栖野、嵯峨野など野のつく由緒正しい地名が多い。

一方で東の鳥辺野、西の化野、北の蓮台野など、早く平安京初期から都の近郊に存在した葬送地として知られる「野」のつく地域もある。
かの有名な源氏物語の行幸(みゆき)の巻に「大原野の行幸」というくだりがあるらしい。天皇の出行すなわち御行。天子の行く所、万民が恩恵に浴し、幸いを受けるので〈幸〉というらしい。・・・・知らなかった。
この物語の様子から、私の住む大原野は、やはり帝(みかど)の狩猟場として、平安の昔から皇族たちに大切に庇護され、都に隣接する大自然、大原野だったことが想像できる。
くどいが、誤解があってはならないのでもう一度書くが、現在、大原野は京都市西京区である。当然、私は京都在住ということになる。


うだうだ | 15:05:14 | Trackback(0) | Comments(0)
■学ぶべきときって・・・?
幼い頃から絵を描くことが何よりも好きだった私は、高校を卒業すると、縁あって京都の染織図案家の内弟子となった。学校で習うことのなかった日本の伝統文様や、その西洋にはない色や形など、日本固有の美に目覚めた。また、それ等を辿っていく伝承方法に我を忘れて没頭した。
三十四才の頃、日本画の極みであるところの仏画に出会った。決して若くはない。もともとイタリアルネッサンス期の宗教画の好きだった私は、同じ主題を持つ仏画にのめり込んでいった。それまでに培った伝統技法はもちろん、和の美意識や価値観は、伝統仏画の制作にぴったり嵌った。

今までに約三千五百点もの仏画を全国の寺院や在家に描いてきた。我ながら信じられない量の仕事をしてきた。
仏画を描きたいという一念が、大層な結果を出した。
今後も続けるであろう仏画家人生において、心底納得できる仏画を一点でも多く描くことが、今の私の最大の目的となっている――。

私が中学の頃、勉強も運動も全てが「勝ち負け」だった。私はそんな評価をする大人たちの世界が嫌いだった。いつも反発していた。「テストの成績など、気にしたらオレの負けや!」と、嘯きながら校内の掲示板に貼り出された成績順位を横目で見ていた。友人との戦いに勝った子供が、いつも評価されていた。その頃の私は、たぶん、負け組みだったのかもしれない・・・。

最近、私の手作りのホームページを観て、仏画を学びたいという一心で工房の門を叩く若者が多くなった。
最高学歴、しかも社会人としての経験も積んでいる者が多い。その彼らが言う。「今まで生きてきて初めて、心から学びたいと思った。」と――。
教え伝えること、そして学ぶこと。この二つがうまく絡み合う時、最高の伝承・継承、そして新しい何かが生まれる。勉強するのに、遅いも早いも、勝ちも負けもない。「学びたい」と思う時、その時が、「学ぶべき時」なのである。


未分類 | 15:34:44 | Trackback(0) | Comments(0)
ご時世4 「いじめとは?」
今日は、いじめられているという感覚を、私の経験から考えてみたい。
いじめられている・・・とか、いじめられているかもしれない・・・とか、からかわれている・・とか、当然ながらその感覚は被害者的な感覚である。

私が、幼かった頃・・といっても、中学を卒業する頃までは、色白で細身でお坊ちゃま風の面構え、スポーツもそんなに得意な方ではなかった。ソフトボールなど球技では、チームの足をひっぱっていたと思う。ともすれば、いじめれたりからかわれたりする容姿・タイプだったような気がする。

ただ、理屈だけはよく言う少年だった。なにせ、理不尽な事が嫌いで、真っ直ぐだった。生意気だったと思う。
でも、入学当初や、クラス替えなど、初めてクラスメイトと顔を合わす時期には、容姿や見栄えだけで、よく根性を試されたものだ。いや、私もそんなことをして、クラスメイトを試した記憶もある。

相手に、ちょと肩をあてたり、偶然足がひっかかった振りをしたり、相手の様子、反応を試すのだ。
特にクラス内の男子における力の上下関係を確立すべく暗黙のうちにそういった力関係による位置を決め始めるのだ。
今、考えると、これこそがコミニュケーション活動の最初、基本ではないかと思うのだ。

私のような、利発そう(あくまでも、そう・・・)だが、色白できゃしゃな男の子はすぐに試される。
でも、「あいつをからかえば、倍になって帰ってくるし、手を出せば、死に物狂いで突進してくる。あいつは真っ直ぐな奴だから、からかうに値しない・・・」ということになった。 ・・・のだと思う。

中学になっても相変わらず派手な取っ組み合いの喧嘩をした。新しい国語の辞書の表紙の金文字をコンパスの芯で削られたからである。その張本人は、いじめているとか、からかっているとかそういった感覚ではなく、単なる「無意識」だった。
当時は、誰もが、記念にという訳ではないが、分厚い天然木製の机の表面に傷をつけることはよくあった。彼もそんな何気ない気持ちでしていたのだろう・・。

私にとっては昨日届いたばかりの国語辞典、新品ピカピカだった。まさか、そんなバカなことをする奴が居るとは、信じられなかった。「何をするんや!!」の声に、奴は笑って、気にもしていない様子だった。 私はいきなり切れた。

相手の胸座を掴むなり、机や椅子をなぎ倒し、教室の一番後ろの壁まで一直線。そして倒れ込んだ奴の上に馬乗りになった。
興奮しているので、バカ力が出たのだろう。
私よりも背丈の大きいそのいたずら少年は、あまりの過激な反応にあっけにとられ、攻撃することすら忘れていたようだった。
私は、謝って欲しかった。私が怒っていることをきちんと受け止めて欲しかった。
あまりに「なんで!?」といったとんちんかんな表情をしている彼の顔は、さすがに殴れなかった。「殴らないでおこう」と判断したことは今でも鮮明に覚えている。
が、そのうち状況を受け止めた奴は反撃に出てきた。その後はよく覚えていないから怖い・・・。

ちょうど給食の準備の時間だったように記憶しているのだが、激しい戦いの為に給食の準備ができず、教室の中の机や椅子が散らかっていた。
もちろん、給食の準備が遅れ、我々二人は、当然ながら給食にもありつけづ、職員室に呼び出された。

興奮冷めやらぬ私は、担任の下した「喧嘩両成敗」に対しても、職員室全部に聞こえるぐらいの大きな声で、「先生、おれは何も悪いことはしていない!その論理はおかしい!!」とたてついた。
その後、その担任が、我々二人にどのような対処をしたのかまったく記憶にないのだが、その中学3年生になった頃の理不尽な出来事だけが記憶に残っている。

しかし、ここで、大切なのは、その彼が、私を困らせてやろうとか、いじめの対象としてやっていなかったことが、取っ組み合いの中で察知できた。そのことは、私にとって救いだったことである。

彼は、その後の友人関係の中でもはっきり知ることになるのだが、彼は「人の物も自分の物も分け隔てなく大切にしない奴」だったのだ。そういう奴だったのだ。悪気がなかったのだ。
つまり、私を困らせようと思ってやったのではなかったのだ。

この喧嘩で、彼の本心が見えたということは、彼も私の価値観を見てくれたことになる。その後、彼とは同じ高校に進み、お互いを認め合う、何の蟠りもない友人関係が続いた。彼の、物を大切にしない「雑だがおおらかな人柄」に自分にはないものを認めることができ、懐かしい友人の一人となっている。

いじめって、大部分は、「いじめを受けた」と感じている人の受け取り方で決まるような気がする。・・・いやきっとそうだ。
本当にいじめている人が居たら、それは犯罪だと思う。
いじめられていると感じている人は、いじめられているのかどうか命がけで確かめてみたらどうだろう・・・。
もし、誰かが本当にいじめられているなら、皆でそのいじめた本人をとっちめればいいではないか。


うだうだ | 10:12:00 | Trackback(0) | Comments(0)
ご時世3 「戦い」
このブログ、面白そうなので、あまりシステムを理解しないまま始めたが、私の名前で検索をすると、1ペ-ジ目にこの「藤野正観の見聞録」が登場する。そうか、物凄い公開性があるんだ・・・。と今気がついた。

このブログを借りて、日頃の私の心の情景を描写しておきたかった。そう思って始めた。何でも「うだうだ」と書き連ねようと思った。

どなたか通りすがりの方が、うれしいコメントを残してくれた。たいそうに気分のいいものだ。
どなたか存じませんが、有難うございます。あなたとは、同じ価値観を共有しているようで気が合いそうな気がします。

直接コメントに対してお返事すればいいのだろうが、あえて、掲示板的なことはしないでおこうと、今決めた。

さて、本日はあまりゆっくり書いていられないのだが、本題に入ることにする。
私の少年期は、先に書いたように、五個荘町の北小学校というところで過ごした。この懐かしい校舎は、今はない。跡地に建売住宅が建ち並び、当時を偲ぶには、その片隅にあった幼稚園のたたずまいしかない。
板張りにクリーム色で塗られた園舎の壁は、やはり今はもうない。私の脳裏にあるのみだ。

私は、普段はおとなしいが、結構気が強く、理不尽な理由で喧嘩になると、たいそうな規模で大暴れ、今で言うと「切れ」ていたのかもしれない。危険な少年だったのかもしれない・・・。

小学生時代の6年間には数回しか喧嘩はなかったと思うのだが、おとなしい私に理不尽な「いちゃもん」をつけ、からかわれたり、いじめられそうになると、命がけで戦った記憶がある。

自分より、はるかに大きな身体の上級生に馬乗りになられ、降り積もった冷たい雪に顔を押さえつけられても、どうすることもできなかった、身動きすらできなかった、くやしい記憶がある。大きな力にどうすることもできない悔しさ・・・・。
今でも、その情景は結構あるからおもしろい・・・のだが・・・。

でも、その理不尽な理由で馬乗りになられ、冷たい雪に顔を押し付けられたことが、どうしても許せず、その馬乗りから開放された私は、親の居ない留守宅に泣きながら走って帰り、武器を探した。ちょうど、木製の雪かきスコップがあったので、両手でそれをしっかり掴むと、あの上級生が何事もなかったように遊んでいるところへ、もちろん、泣きじゃくりながらっだと思う。真っ直ぐ走り寄り、その木製のスコップを振り回した。もちろん切れているので、ムチャクチャだったと思う。

切れているといっても、ちゃんと記憶に残っているのだから、弱者の知恵だったのかもしれない、切れた振りをしていたのだ。

上級生は、血相を変えたが、「アッカンベー」をしながら逃げた。 
しかし、それから、その上級生からは、二度と理不尽な「いじめ」を受けることはなくなった。

ここで、私を擁護しておきたい。 泣きながら選んだ武器は木製の雪かきだったこと。これは、その上級生に対して、ちょうど適当な武器だったのだ。
鉄製のスコップもあったと思うが、本能的にというか、そう、その時すでに少年ながら、倫理が働いていたのだ。使ってよい武器や使い方もそして、戦わなければならない必要性も知っていた。僅か3年生ぐらいの頃だったように思う。

こうして、私の理不尽な原因による戦い(単に喧嘩)は、高校時代まで続くのだ。

 


うだうだ | 10:30:21 | Trackback(0) | Comments(0)
ご時世 その2 「保育園」
昭和25年、戦後まもなく生まれた私たち世代、特に私は滋賀県の五個荘町という田舎で生まれた。
そのおかげかもしれないが、農繁期にはいると一家で仕事をしなければならない為、育児もままならない。そういった田舎独特の文化なのかもしれないが、2歳児ぐらいから集落の中心にある寺の中にある保育園に預けられた。
国家の高度成長期を向かえ、共働きが増えた頃でもあった。現代とあまり変わらない状況かもしれない。
だから、農家であろうが、そうでなかろうが、この時期に生まれた子供は皆そういった保育園に預けられ、そしてその保育園の園長先生である寺の住職のお世話になった。保育園の庭は寺の境内。庭から見えるたいそうに荘厳された建物の中央に鎮座する神々しい仏さま、あの仏が何だったのか理解できるのにはその後、30年を要した。
しかし、その神々しさと、園長先生つまり、住職の価値観で、叱られ、褒められ、泣き笑いの時間の中で、2歳から4歳ごろまでだったのか・・・・その大切な時間の中で、今で言う、倫理道徳を学んだように思う。
誰の価値観でもない、住職の価値観による道徳だった。それは、仏教の倫理観と道徳だった。

かつての田舎には、仏教や神道、それに八百万の神々に対するいろいろな敬虔なる習慣があった。何も理由はない。
誰も何故そうするのか聞いたことはない。そこには、理由のない素朴な習慣と清浄な信仰があった。
意識をしなくてもそれがあった。
今から思うと・・・、そう、確かにそういったことだったように思う。


うだうだ | 08:42:33 | Trackback(0) | Comments(1)
ご時世 その1
近頃の子供も親たちも、考え方や思考方向が間違ってるように思う。
毎日のように信じられないような事件が報道され、どの報道がどの事件の続報なのかもう分からなくなってしまっている。

考えられないような思考・・・お互いが理解しあえないようなそんな寂しい時代がついに来てしまったのか。

直ぐ「いじめられた」と死を選ぶ子供や大人・・・。殺伐としたこのご時世は、やはり間違ってる。

ついに、箍(たが)がはずれてしまったのだ、グラグラ揺れ動き、やがて崩壊するに違いない。

なんで、この世の中、こんなことになったのだろうか・・・。

第二次世界大戦で負けたこと?→敗戦後の教育制度の間違い?→政教分離政策? しばらく考えてみたい。

うだうだ | 08:40:54 | Trackback(0) | Comments(0)
ニコニコ爺さん
毎朝見かけるニコニコ顔の爺さんが畑仕事をしている。毎朝、7時半頃工房に行く途中に出会う当たり前の光景だ。
その爺さん、背中が丸くて、痩せている。農作業用の比較的汚れた洋服をだらしなくまとい、多分、髪の毛もほとんど残っていないだろう頭には、今の時期には薄汚れた毛糸の帽子がずり落ちそうに乗っている。この毛糸の帽子、夏場には薄汚れたタオルに変わる。

工房に向かう為、車で通り過ぎるのだが、その爺さんが乗っていたと思われる、いや、顎を突き出し右左にフラフラと揺れながら乗っていたところを目撃しているので、爺さんの愛用自転車である。

その、自転車が道の中央辺りに斜めに停めてあるので、皆の通行の邪魔になっている。いつもの事ながら、ゆっくりとブレーキをかけ、自転車すれすれに徐行なければならない。本人は、我関せずと黙々と畑仕事をしている。
年中良く見かける当たり前のこの辺りの情景だ。

多分、畑仕事もなかなか要領よく捗っていないだろうことは容易に想像がつく。
彼のニコニコした顔には、こちらも気分が良くなるのだが、どうも、この笑顔、この爺さんの顔の造作で爺さんの面相のようだ。いつも同じニコニコ顔だからそう思ってしまう。

今朝も会った、そして、こう思った・・・。

彼の人生はまもなく終わる。長くても数年だろう。ある日の農作業中ポックリ死ぬのだろう・・・。毎日朝から夕方まで畑仕事、黙々とひたすら畑仕事。

大原野の広々した田園の中で、毎日毎日農作物の収穫を目標に生きているであろう彼の心の奥には何があるのだろう・・・。

誰かに、誰かに辛く当たったり、誰かを追い越そうと思ったり、悔しがったり・・・そんな感覚は、彼の場合、当の昔に無くなっているように思う。ただ、ひたすら毎日を農作業で時間を過ごし、もしかして、収穫の喜び、満足感さえもないように思われる・・・。

彼のニコニコ顔は、健やかに余生を送らせて頂けるという神仏に対する感謝の気持ちがにじみ出ているのだろうか・・・。


うだうだ | 14:24:12 | Trackback(0) | Comments(0)
ソフトバンク
私は、携帯電話は、ずーっとボーダフォンという社名の前からその系列の携帯電話を使っている。
ボーダフォンの前の会社名が思い出せないから困ったものである。

この度、ソフトバンクの経営に変わり、ポータビリティという携帯電話の番号を変えずに会社を乗り換えることができる素晴らしいシステムの導入が始まった。

我がソフトバンクはどんなサービスで、元の顧客を満足させてくれるのか、密かに楽しみにしていた。
孫さんのことだから、きっと携帯電話でも安価でインターネット使い放題ということをやってくれるだろうと期待していた。

ポタビリティ導入の一日前、孫社長より世間をアッといわせる、彼らしい発表があった。各営業店すら知らされていなかったという。

通話料はソフトバンック携帯同士ならどれだけ繋がっていても0円。

うそー!
「何かからくりがあるに違いない!」と用心深い人は疑った。

今、広告に誇大な表示があったと、世間が、いや、ドコモとauが騒いでいる。
読めないような字で、「21時から24時までの通話時間が一ヶ月で200時間を超えたら料金が発生する」と書いてあるらしい。
確かめると、どうもそうらしい。

「な~だ、0円って嘘なのか~」っと、世間の普通の人々は、そういいった感覚を刷りこまれようとしているが、私は、そうは思わない。

あいかわらず、孫さんは凄いと思っている。

今回の不祥事的な報道により、会社の存続を危ぶむ声も聞かれるが、それどころか私は、膨大な顧客の管理能力の徹底を促したいくらいだ。

限りなく0円に近い携帯電話を導入しない人はバカだ。

インターネットの常時接続の価格を世界的に見ても安価にしてくれたのは孫さんだ。
それまでの日本のブロードバンド環境の価格は高価だった。
NTTの独断場だった。NTTのやりたい放題だった。

回線の自由競争を持ち込んで世界でも一番安価な接続環境を作ってくれたのは孫さんだった。

だから、私は彼を信じる。

日本中の人がソフトバンクの携帯を持てば、無料で通話ができる。
実現して欲しい。

今の携帯電話より大きくても良い。モバイルパソコンと一体化し、ネットと常時接続が可能な、そんな携帯電話ができたら、即買いだ。

ソフトバンク頑張れ!!





ご意見 | 08:47:58 | Trackback(0) | Comments(0)
善峯寺に集う作家たち展
今日から展覧会が始まる。っと言っても実際には18日から2週間ほど連日開催となるのだが、今日からの連休と11日、12日の土日曜日にも会場を開けることになった。
昨年までは、だいたい今頃から約一ヶ月間、連日開場してきた。

今年はなぜ、二週間なのかというと、実はこの展覧会、日頃懇意にお付き合いをさせて頂いている善峯寺のご好意で、会場を無料でお借りしている。当初、善峯寺に、少しでもお参りの人が増えるようにと、お寺自体も歓迎してくれた。歓迎は今も変わらないと私は信じるのだが、他の作家さんたちは、皆、そうは感じなくなった・・・。

それというのも、昨年、その会場のすぐ下の本坊で、片岡鶴太郎氏の描いた「游鯉龍門圖」が500円の入場料をとって公開されていた。
つまり、10年前から続けてきた「善峯寺に集う作家たち展」と寺側が積極的に開催する「片岡鶴太郎特別展」とが並行して開催されたのだ。

派手なオープニングセレモニーと各社TV・新聞・雑誌の過激な報道により話題になった。
「由緒正しい1200年の歴史を誇る善峯寺になんでまた下品な生々しい鯉なのか・・・?」など。たくさんの批判もあったが、それとはうらはらに、「そうだ京都行こう」のTVコマーシャルの影響もあって、その相乗効果で、その特別展に入る客は後を絶たなかった。寺も大喜びで、今年も開催する。

その会場のすぐ上で開催中の「善峯寺に集う作家たち展」の格調高い作品の展示会場は、それを必要としない客でごった返し、その展示内容は、、「そうだ京都行こう」のTVCMを観てやってきた人たちや鶴太郎ファンの期待を裏切った。

「善峯寺に集う作家たち展」に出品する作家たちはその世界では、一流とされる作家さんたち。何十年もその道で飯を食い、プライドもある。
善峯寺に参拝客が増えることを願い協力してきたつもりでいた。

会期中、そのいいようのない、腹立たしさと寂しさが、その作家たちはおろか、実際に会場係として常駐していた作家の妻たちに微妙に影響した。
つまり善峯寺の参拝客増加の為と作品発表の場を提供して頂くという相互にバランスがとれた「おたがいさま」の空気があって、作家たちはそれなりに寺に貢献しているという自負があった。

それが、思い上がりだったことに気づかされたのが「片岡鶴太郎特別展」の有料での大盛況だった。

工芸作家という存在は、何なのか・・・。生活の中で暮らしに役立つ為の作品を作る人・・・。

日展作家や伝統工芸師として活躍するも、有名芸能人の片手間の作品にあっさり負けてしまうご時世なのだから、仕方がないといえば仕方がない。堂々と自分の作家人生をまっとうすればいいのに、作品で十分な収入を得ることが出来ない現状を思うとき、ずいぶんと不条理を感じた・・・。

で、本日からの「善峯寺に集う作家たち展」は、他で展覧会をするといった理由で、二作家の不参加をもって開会日を迎えた。

仏画を生業とする私自身は、さほど、そのことには心動かすことはないが、やはり、工芸作家さんの繊細な神経とプライドを大切にする生き方に、きちんと共鳴することができる自分もいることは確かなのだが・・・。



仏画 | 10:04:22 | Trackback(0) | Comments(0)
開眼法要の報道
先月16日に、西山浄土宗総本山光明寺で、私の納めた観経変相図の開眼法要が営まれた。各新聞社が取り上げてくれたが、これは、私自身が各新聞社に、取材をお願いしたものだ。
私自信が1年半以上も費やして描きあげた当麻曼荼羅(俗称)なので、それなりに思いもあり感慨深いものがある。しかし今回の取材をお願いした真の理由は、私自身のことを報道して頂くという事よりも、実は、他に大きなな理由があった。
結局、この話題は、各社共京都の地域版という極、限られた地域のみの報道となった。しかも、筆者の私自身のことを主体として書かれている。
もちろん、そのカラー写真の掲載された記事については感謝してしているのだが、いかんせん、記事そのもののスペースが少なく、その新しく描かれた伝統的な仏画という絵画を目にした記者自信の感想がなかった。事実を淡々と報道するのがお役目なのだろうが、記者の目を通した報道・・・がなかった。
仏画が制作されるのはそれなりの理由があり、そのこと自体がこの腐敗しきった現世に必要だから制作されたのだ。
私が伝えて欲しかった真の理由はこのことに尽きる。

観経変相図(当麻曼荼羅)は、一言で言えば、今に生きる人々に、死後、阿弥陀浄土に往生できる術を解りやすく説く為の図なのである。

◇まず最初に、画面向かって左側の区画を下から上に向かって、王舎城の悲劇と言われる序文の内容を見る。つまり、王子の阿闍世(アジャセ)が、釈尊を妬む提婆達多(ダイバダッタ)に唆され、父で王の頻婆娑羅王(ビンバサラオウ)を幽閉して餓死させようと図った。それを阻止しようとした母の韋提希夫人(イダイケブニン)までをも幽閉した。それを嘆いた韋提希が霊鷲山(リョウジュセン)の釈尊に安楽な世界についての説法を求めるというこの王族の悲劇と釈尊によって救われる物語が描かれている。

◇第二は、画面向かって右側の区画を上から下に向かって、釈迦が韋提希に対して説いた阿弥陀浄土に生まれるためのイメージトレーニングとしての十六観想の図が描かれる。1.日想観 2.水想観 3.宝地観 4.宝樹観 5.宝池観 6.宝楼観 7.華座観 8.像相観 9.真身観 10.観音観 11.勢至観 12.普観 13.雑想観 14.上輩観 15.中輩観 16.下輩観である。

◇第三は、画面下方の全部で10ヶ所に区切られた区画を見る。中央の文章の痕跡が記された区画は、本図の根本曼荼羅が蓮糸で織られたという縁起を記した由緒書きの跡である。その左右に、向かって左から右へと、生前の行いによって生まれる場所の違いを顕す九品往生の様子が描かれる。左から、下品下生、下品中生、下品上生、中品下生、中品中生、中品上生、上品下生、上品中生、上品上生の9つの図である。

◇最後に中央の阿弥陀浄土図。前面に蓮池が描かれ、その池中の蓮花中からは、往生者が生まれている様子が見え、その池の畔では、阿弥陀と往生者の父子相迎の様が描かれている。また中央には阿弥陀、観音、勢至の三尊を中心とした聖衆が描かれ、その後方には左右対称に宝閣が描かれる。また、空中には散華や各種の楽器と共に飛天が舞い、西方極楽浄土の様子が描写されている。

当麻曼陀羅は浄土宗西山派の派祖・証空上人が当麻寺の当麻曼陀羅が「観無量寿経」の教えをもとに描かれていることを感得、これを全国に普及させたのであって、私の描かせていただいた曼陀羅もこの時を越えた一連の布教手段のひとつに他ならない。

このことを伝えて欲しかったのである。

「ある芸術家が、自分の感性を絵にし、お寺に納めた」というどうでもいいことを報道するのではなく、あくまでも、布教の道具として仏画という絵画が存在し、しかもその絵画は、2500年前に、釈迦が王舎城のあった霊鷲山(現在のインド・ラージギル)で説いた、観無量寿経に基づいて描かれているという、壮大な想いの繋がり・・時の連続性を皆さんに気づいて欲しかったからである。

日本文化の原点、仏教、そのなかでも一般的に理解しやすい浄土思想の復活こそが、今の荒れたご時世を救ってくれるのではないか・・・、そんなことを、私は常に考えている。
そのことを報道して欲しかったのだ。




仏画 | 08:08:16 | Trackback(0) | Comments(0)
仏画ってフランスの絵のこと?
私の生業とする伝統仏画の制作だが、読者のみなさんは、「仏画」というものをご覧になったことがあるのだろうか?
「(仏)ってフランスのことでしょ なら、フランスの絵? それならあるよ。」などとバカを言ってもらっては困るのだが、平然と言ってのける人が居るから、このご時世は油断できない。

「仏画」とは、仏教絵画の略語で、仏教を教え導く為の絵画(道具)に他ならない。わが国の国宝や重要文化財級の絵画や彫刻はほとんどがこの仏教美術品である。これらは一つの使命をもって生み出されている。
絵画、すなわち、仏画に限って言うなら日本の絵画の歴史に仏画の存在は欠かせないし、いわゆる「現代日本画」のルーツなのである。
明治時代に入り、油絵が輸入されると、それと同時に西洋の美に対する概念も輸入された。それまでの日本人固有の美の概念であるところの大和絵や仏画を代表とする唐絵に起源を発する「日本の絵画」つまり「日本画」という言葉は、その時、西洋画とそれとを区別する為に造語されたのである。
この流れからすると、「仏画」は、わが国の絵画史上欠かすことの出来ない中心的な作画文化を継承していると言える。

お話が難しくなって恐縮なのだが、現在の美術界では、「仏画」という絵画の位置付けがまったくない。
芸術なのか工芸なのか?はたまた、デザインなのか、イラスト画なのかそれともポップアート?
これからも「仏画ってフランスの絵のこと?」などと、私を深く傷つけていることなど察することもなく平然と言う人は増え続けていくのだろう・・・。
しかし、このことは、我々日本人が、日本人として自分達の伝統文化・精神文化とは何なのか良く知らされていないことの一例である。
話は逸れるが、本来は、柔術なのに柔道として認知されているスポーツとしての「柔」。以前、一人の柔術家と名乗る方の熱の入ったお話を聞いたことがある。
「仏画を代表とする日本古来の作図概念」と「如何に敵を倒すかという意味においての柔術」その両者は、まったく同じように、西洋の概念で形を変えられていったのである。

明治の初め、一八六八年、世界中に柔術を広めようとした一人の小柄な柔術家・嘉納治五郎によって、それまであった「柔術」をスポーツという西洋の概念でルール化し、オリンピック競技にまでなったものが今の「柔道」である。つまり、「現代日本画」も「現代スポーツとしての柔道」も実は、明治以降に新たに構築された日本の文化であり、すでに、日本固有の伝統文化ではなくなっていることに気付かされるのである。
また、その形を変えただけでなく、その主軸となる本質を変えていることに気付いている人は少ない。
このことは、ちょっと考えてみると、全ての伝統的な文化に言えるような気がする。なんだか、日本の伝統文化が疑わしくなってきたようだ。

「仏画」に話を戻すと、インドにその起源を持ち、中国・朝鮮半島そして飛鳥時代に日本へと仏教と共に輸入された。仏教も極東の国日本に辿りついた頃には、儒教や道教そして土着の神々とも融合し、日本固有の仏教文化として発展した。仏画も同じく、大和絵や唐絵と融合し、日本独特の発展を遂げた。
江戸時代に入り庶民文化が華やぐとその高貴な美意識は衰退し、明治に入り西洋文化が入るとまったく違った形と本質をもって日本人固有の美意識の結集である仏画を代表とするそれまでの日本の絵画の持つ崇高なまでの日本人の精神性が、作家個人の個性を表現する手段、即ち芸術としてまったく新しく「日本画」に生まれ変わったのである。変わらないのは画材なのだが、蹴鞠の鞠で、サッカー競技をしても蹴鞠をしていることにはならないのである。伝統とは精神的在り様を言い、決して事象や物のことを差すのではないのである。その本質のことなのだ。

聖徳太子が初めて我が国を一つの価値、つまり仏教の価値観で統一したことから考えると、日本国民からすると、伝統という固有の精神文化の根源に仏教が有り、それを形成する美意識の根源には、どうしても「仏教美術」があるように思われる。
アメリカ文化をお手本に教育され、アメリカのTVドラマで倫理を習い、アメリカンポップスを懐メロとする一人の仏絵師・藤野正観のフィルターを通して、日本の伝統文化を守るということとはいったいどういうことなのか、皆さんと一緒に考えて行けたらと思う――。


テーマ:絵画 - ジャンル:学問・文化・芸術

仏画 | 08:48:51 | Trackback(0) | Comments(0)

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