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西国三十三所観音霊場『平成の東北出開帳』お前立ち御影について
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120125/wlf12012519050018-n1.htm
サンケイMSNニュースに平成の東北出開帳の記事があります。

ご挨拶
昨年3月11日の東日本大震災の復興を祈願し「平成の東北出開帳」が行われるに当たり、御影のお軸をお前立ちとして出開帳されるとのこと、感慨無量の境地でおります。
と、いいますのも、この出開帳のご本尊は、2008年の居開帳を機に、札所会のご依頼で描かせて頂いたカラー御影の原画をデジタル技術で大きく拡大してお軸にされたものとお聞きしております。
この御影は、私が仏画を生業にするきっかけを作って頂いた西国の観音様たちですので、その感謝とお礼の意味を込めて、当時の全ての仕事をキャンセルもしくは、後回しにさせて頂き、2006年秋から2008年3月にかけて、全力で描かせて頂いたものです。

三十三ヶ寺全ご本尊の資料を頂き、カラー御影(縦13センチ、横8センチ)の為に描かせて頂いた御影ですので原画のサイズは、縦約100cm、横約40cm。
今回の出開帳の為のお前立ちご本尊は、襖より大きいサイズと聞いております。
小さなカラー御影の為の原画ですから、大きく引き伸ばされた御影はどんなことになっているのか筆者としては気になるところですが、札所会がお前立ちとしてお認めになって頂いたということに、改めて感じ入っている次第です。

西国とは遠く離れた東北地方をはじめ、近隣にお住まいの御一人でも多くの方々が、私の描かせて頂いた観音さまを通じて、西国のご本尊様とご結縁され、多くの被災者の傷ついた心の救いとなれば、私の仏画人生においてこれ以上の喜びはないと思っております。 

合掌           御影筆者  仏絵師 藤野正観


※上の画像はhttp://sankei.jp.msn.comより転用しています。

※お前立ち御影のお披露目記事として、京都新聞(2012年2月17日付け)の記事がありました。
御影


告知 | 19:27:31 | Trackback(0) | Comments(0)
『歴史秘話ヒストリア』大奥 シンデレラ・ストーリー~将軍の母・桂昌院 元祖「玉の輿(こし)」物語
昨日、ツイートでお知らせした、NHK総合TVで放送中の番組名とタイトルが分かりました。
毎週水曜夜10時から放送中の番組は「歴史秘話ヒストリア」ということです。
私の描いた桂昌院の肖像画が使われるのは、明後日の2月8日(水)放送の、大奥 シンデレラ・ストーリー~将軍の母・桂昌院 元祖「玉の輿(こし)」物語だそうです。
そこで、昔、NPO京すずめの瓦版に書いた原稿を探し出してコピペしておきます。

お年頃でなくても女性なら必読!!
玉の輿(こし)に乗れるありがた~い情報


仏画家 藤野正観

善峯(よしみね)寺の出世薬師さんにお願いしよう

情熱的で一途な恋愛。理想の男性と楽しく時にはせつなく、映画の1シーンのような青春時代を過ごしたい――。年頃の女性なら誰もがそう願うに違いない。
しかし、いざ、結婚となると「チョット待てよ、私の旦那さんはこの人で良いのかしら・・・。このままこの人と結婚生活に突入して生活はどんなかしら・・・。」と妙に、冷静に欲深く考え込んでいるのが、今も昔も変わらぬ結婚を控えた女性の女心である――。

そこで、と言っては、純真な乙女心を傷つけるかも知れないが、あなたが、もしも、まだ、意中の男性が居ないようなら、善峯さんの出世薬師さんにお参りしておけば、理想の男性に巡りあい、その上、そのお相手の男性が大金持ちという、俗に言う「玉の輿」に乗れ、夢の結婚生活を現実のものにしてくれるかもしれないという、実にありがた~い情報なのだ。

京都の西陣にある今宮神社で毎年五月に行われる祭りに、最近、「不況の西陣を元気にしよう」と、住民グループと大学生等が作って担ぐ「玉の輿」の御神輿が参加している。

善峯寺の薬師堂

この祭は今宮神社の「巡幸祭」で、平安時代に疫病を鎮めるために始まったと伝えられ、五基の御輿や鉾が京都市上京区の西陣から北区の今宮神社までの 七キロを巡行している由緒正しいお祭りなのだ。
将軍に輿入れした「お玉さん」が、身分の高い人しか乗れない「輿」に乗るようになったことから「玉の輿」という言葉が生まれたのだが、女子大生達は、それにあやかろうと「玉の輿」を担いでいるに違いない。
では、そのお玉さんとは、どんな女性なのだろうか、お話は三百年ほど昔にさかのぼる――。

善峯寺――。西国二十番札所として、その名を知られる天台系単立寺院である。今も昔も人影が耐えることはない。
洛西・西山の中腹に広大な伽藍を構える。その一角に、三代将軍家光夫人、桂昌院の「廟」がある。
八百屋の娘であった桂昌院が、豊臣秀吉と同じ従一位に任ぜられ、この寺をはじめ、応仁の乱で焼けた数々の寺の再興に尽すまでの不思議な運命が三百年を経たその「廟」が物語ってくれる――。

京都は堀川西藪屋町のあたりに、仁佐衛門と云う八百屋がいたそうな。嫁とりをして何年にも成るのに、いっこう子宝に恵まれない。
貧しい商家であっても老い先を考えるとさびしいものだ・・・。
思い余った仁佐衛門夫婦は日頃信仰している、西山・善峯寺の観音様にお参りしたそうな。
「どうぞ子供をお授け下さいませ。」と参篭、水ごもりもしたおかげか、願いが叶い、やがて生まれたのが玉のような女の子。名を、これまた「たま」と名づけ、大事に育てたそうな。
お玉は近所でも評判の器量よし。
目元はすずやか、鼻筋も通り、まるで京人形のような女の子。仁佐衛門は目の中に入れても痛くないほどのかわいがりようだったそうな――。
釈迦堂上の奥の院・出世薬師如来 仁右衛門が若くして亡くなると、信仰深いお玉の母は、善峯寺の観音様のご縁により、約二年半の間、お玉と共に善峯寺に住み込み、ご奉仕の日々を送ります。

幼いお玉にとって、この寺での信仰生活が、どんなに心地良かったことか、後に、その時の淡い経験から、善峯寺の薬師如来を想い、「たらちねの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」 と詠んでいます。

やがて、お玉の母は、縁あって本庄太郎兵衛宗正のもとへお玉を連れて奉公に出ます。
美しい母は、そのうち宗正の後妻となり、本庄宗正がお玉の義理の父となりました。

成長したお玉は、三代将軍家光の側妾、お万の方の侍女となり江戸へ下り、秋野と名を変えて大奥で働くようになりました。
やがて、美貌の彼女のこと、家光の寵愛を受けて「徳松」を安産するのです。

家光の没後は、当時の習慣どおり、黒髪を落として出家し、桂昌院と名を改め、日陰の身となりますが、その子、「徳松」は、上野国その他で所領十五万石を与えられ,六十一年(寛文一)十万石加増、館林城主となり、「綱吉」となります。

四代将軍家綱には子供がなかったため、その没後、綱吉が五代将軍となり、桂昌院は将軍の御母堂(母親)として江戸城へ迎えられます。
彼女は、亡くなるまで、儒教の教えを重んじる息子の綱吉にも大切にされ、そのお陰で有力な家臣たちからも一目おかれて、八百屋の娘が江戸大奥で権力を欲しいままにしたのです。

「観音様のおかげでこれまでにして頂いた――。」信仰深い桂昌院は、善峯寺に何度も詣で。応仁の乱で焼失した寺を立派に再興しました。
桂昌院は宝永二年(1705)六月二十二日 七十九歳で亡くなりますが、善峯寺ではその恩に報いるため、遺髪を境内に納め、桂昌院廟としておまつりし、毎年六月二十二日には遠忌法要を営み、彼女の数多くの一級品持物は寺宝館文珠堂にて大切に保管され春と秋には、特別公開しています。
        
万世を 十かかり経ても 尽せじと 君が恵みの 南無観世音
  たらちをの 願いをこめし寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏


※たらち‐お【足乳男・垂乳男】‥ヲ
 (垂乳女に対して作られた語) 生みの父。父親。

お玉が善峯寺の観音様と薬師さんに献じた歌と伝えられている。
玉の輿にのる――。こんな伝説がいつの頃からか口から口へと伝わり、善峯寺にお参りする若い女性が後を絶たないのも納得できるお話しではある。

さてさて、読者の女性諸君、今からでも遅くありません。よしみねさんまでおまいりお参り――。


NPO法人・京すずめ 発行、京すずめ瓦版より


新聞原稿より | 07:43:44 | Trackback(0) | Comments(1)

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