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「生」への執着から解き放たれる時、人は真に幸福になれる
今日も、桂病院に行って来た。本日は呼吸器センターでの受診だ。

4月に肺癌による胸空鏡下左上部肺葉摘出手術の経過を、採血とレントゲンでチェックしてもらう為の2ヵ月ごとの定期検診と予防薬UFT(軽い抗癌剤)を貰いに行ったわけだ。

この薬だけで、56日分で18540円也・・・。診療費、4040円也。

午前8時半に病院着。9時半からの予約だが、採血とレントゲンがあるので、受診の一時間ほど前に行かなくてはならないのだ。それでも、工房にたどり着いたのは午前11時45分。けっこう時間がかかる。

2ヶ月に一度通っているので採血の注射針の跡が一ヶ所に集中し、ほんとうは血管の所在が分かりにくいはずの私の左腕の肘の内側には、度重なる針の跡で赤い印ができている。なので、最近では看護士も迷うことなく注射針を刺してくれるようになった。

実は、何も知らない元気なうちに「死」を迎えることができたら、どんなに幸せか、そう心から思っている自分が居る。
にも関わらず、今の私は、たまたま早期発見で、心臓血管にステントを入れてもらい、肺癌で左肺葉の摘出手術を受け、今のところ無事再発も無く、順調に毎日を過ごさせて頂いている。

感謝の気持ちでいっぱいだ・・・・だが・・・。

この何も無く無事なまま、あらゆる病院が無くなればいいのに・・・。そんなことをイメージする私も居る。

世界には、近代医療設備の無い国や場所はいくらでもあるに違いない。簡単にイメージできる所、ミャンマーの山奥、ネパールの山奥等々。その辺りに住んでいたらどうだろう。

何か私の肉体に異変があっても診てもらう所がないのだから、そのまま自分の生命力に委ねるだけのことになる。

検診もほとんど無く、診察もほとんど受けることなく、簡単な治療すら受けられない。そんな状態が自分の住む地域の共通の常識なら、「死」に対する諦めも早い。

ただ、「そろそろ、自分も死ぬ番が来たなぁ・・・。」と諦めるだけ。

そもそも、人である限り、いや、命あるものすべては平等に死を迎える。遅かれ早かれ誰にでもその時は来る。

こういう状況なら、つまり、近代医療のない地域に住んでいたなら、「死」に対して素直に居直れる。

いさぎよく覚悟できる自分が居るわけだ。

でも、不幸なことに、こうして、定期的に病院に通う私は、少しでも肉体に異常がみつかれば、すぐに治療を受けることになる。
本音とは裏腹に、僅かでも寿命を延ばしていただくことになっている。

つまり、悪く、意地悪く言えば死ぬ時期を延長し、苦しむ機会を増やしていただくことになるわけだ。

今日、病院で、診察を待っている間、よれよれの年老いた患者を見つける度に、そんなことを考えてしまった。

今の近代医療が充実している時代に生まれた我々は果たして幸せなのだろうか?

適当な時期というと難しいが、「死」に対して「いさぎよく諦められる」という状況は、現代人の心の奥に潜む願望、夢となってしまった・・・。

「生」への執着から解き放たれる時、人は真に幸福になる(涅槃の境智)・・・この真理を2500年前に仏陀が言っておられたそうな・・・。


うだうだ | 18:20:13 | Trackback(0) | Comments(1)
健康食品『龍喜』ルンブルクスルベルス(ミミズ粉末)の効能
約一年ぶりに、シミズ外科の脳神経外科でMRI検査を受けました。
3ヶ月に一度、ブラビクスとオルメテックを貰いに受診するのですが、今日は脳血管の詰まり具合をチェックするMRI検査の日です。一年前から予約を入れていました。

ピーガラガラガラ・・・・コンコンコン・・・ガァァァァア・・・・、何であんなに大きな音が必要なのでしょうか・・・いつも思います。
このうるさい騒音は、耳栓をしても大きな音で聞こえます。
心地良いリズムの音楽でも流してくれることは不可能なのでしょうか・・・。

約20分で終わりますが、やっぱりこれは長いです。
狭い穴に入れられ身動きできず、けっこうきついものがあります。

で、この結果ですが、Drに聞きますと、小さな梗塞も出血も、クモ膜下出血や動脈瘤等の異常は、いっさい見つかりません。きれいな脳だそうです。

3年前から詰まっていた血管もそのままで、たぶん数年もこの状態で過ごせたということは、バイパス血管ができているのでしょう。
バイパスの血管は映っていないのですが、そうらしいのです。

目で確認したければ、血管に造影剤を入れて撮影しないと映らないそうです。

脳血管の血栓が3年前と同じ状態で、新しく形成されたバイパス血管が血流を補っているということが確実となったわけです。

3年間も飲んでいる、『龍喜』ルンブルクスルベルス(ミミズの粉末)も、古い血栓を溶かすまでの効果がなかったようです。
なんとなくこれでこのサプリの実力が分かったような気がします。

ただし、まったく効果がなかったということは、いえないかもしれないので、あえて付け加えておきますが、それ以上詰まらなかったということや、私の年齢の人には誰にでもあると言われる毛細血管にも血栓が無いことが分かったということは、その効果があったのかもしれません。

毎日服用しているブラビクスとオルメテックとの相乗効果にあったのかもしれませんが・・・。
とにもかくにも、それ以上悪化せず、身体の調子も良いのだから、それで、十分なのかもしれません。

さて、この『龍喜』という血栓を溶かすというふれこみで飲み始めたミミズ食品(サプリメント)今後も飲み続ける必要があるのだろうか・・・悩むところなのです。

今、政府が進めているそうですが、消費者から言わせれば、こういった類のサプリは、薬に準ずるわけだから、一日も早くこういった、健康食品の効能表示を製造会社がきちんと責任をもって明記できるように法律を整備し、表示の義務化を推進して欲しいと思うのです。

ご意見 | 16:32:12 | Trackback(0) | Comments(0)
○○させていただく という表現 で考えさせられました
6月に入門してきた弟子が、中学時代に「パソコンクラブ」だったということをちょっと前に聞いて、最近めっきり面倒になってきたホームページの管理、特にネットショップの制作・管理が大変なので、この機会にこの弟子に任せてみようと企んだ。

ネットを駆使できれば、何でもできる時代になった。こんな地味な仕事でも、想いがあれば自ら世間に発信できるわけだ。彼女にとっても無駄にはならないはずだ。

しかし、彼女は、まだまだ、仏画の制作に関しては勉強や経験を積まなくてはならず、今のところ貯金を食いつぶして弟子生活を送っている。
ネットショップの管理を仕事以外の時間を使って、余裕で管理できるスキルがあるかどうかが問題なのだが、心配は無用だった。

すでにかなりのスキルを持っていて、私の言っていることの意味や要望の飲み込みも早く、うまくやってくれそうだ。 
もちろん、彼女の生活費の足しになるよういくらか支給するつもりだ。
そのパソコンとネットを使いこなすスキルは、私の老化した頭脳とは比較にならず、凄いスピードでそのコンテンツ制作と管理をこなして行く・・・。

ちょっと前、ネットショップの顧客にメール返信をする時、彼女の発言で気になっていたことがあったのだが、いちいち説明するのも面倒なのでまたの機会にということで保留にしておいた件があった。
今日届いた業界新聞「中外日報」に、これに関連した興味深い記事があったので、彼女に読むように勧めた。

というのは、「はじめまして、仏画工房 楽詩舎のネットショップを担当させていただいている○○です。」という注文に対して送信する返信メールの最初の挨拶文の文言のことである。
彼女曰く、この「させていただく」という私が例にあげた文言は、こちら側の立場の都合なので、顧客に対して使う敬語ではないと言う。
つまり、「~ネットショップ管理担当の○○です。」で良いというのだ。この私の提案した例文の言い回しは、通常のビジネスの現場では使われないと言う。

結局、彼女は納得しないまま私の例文に従ったのだが、彼女の心境が気になっていた――。

ところが、今朝読んだ、中外日報の記事の内容がこの件にぴったりだったのだ。
 
この記事は、歌手で俳優の武田鉄矢氏が真宗本願寺派津村別院で親鸞聖人750回遠忌法要で講演された「親鸞聖人の魅力~私にとっての親鸞聖人~」中でお話された内容だった。

その記事。浄土真宗本願寺派津村別院(北御堂)と真宗大谷派難波別院(南御堂)を中心とする御堂筋は真宗門徒の近江商人の進出によって形成された歴史がある。近江商人は「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の経営哲学で知られるが、その背景に真宗の教えに基づく「おかげさま」の精神の存在が指摘されている。
福岡出身の武田氏はこの御堂筋に息づく真宗の精神文化に言及し、大阪出身芸人の「○○させていただく」との言葉遣いに疑問を持っていたと説明し、その源流に御堂筋の近江商人に起源を持つ「船場言葉」の伝統があることに気付いたとお話されたとの記事だった。

そうなのか・・・。私も近江商人の出身地五個荘の生まれで、そこで18歳まで育った。「○○させていただく」という言葉に抵抗を感じたことはなかったし、今の私の仕事柄、お付き合い願う周囲の友人も皆、仏教徒なので、この言い回しはごく当たり前に、私の中でまかり通っている。確かに関西のテレビでも出演する大阪芸人のこの言葉を耳にする機会が多いが、彼らのお客様に対する姿勢や師に対するこの言葉の遣い方に疑問を感じることはなかった。

いつものことだが、「○○させていただく」をネットで検索してみると、敬語(尊敬語・謙譲語・丁寧語)でくくってあって、どうも謙譲語ということらしい。 とんでもない敬語解釈の随筆もあり、たいへん面白かった。

広辞苑では、【敬語】けい‐ごとは、話し手(または書き手)と相手と表現対象(話題の人自身またはその人に関する物・行為など)との間の地位・勢力・尊卑・親疎などの関係について、話し手(または書き手)が持っている判断を特に示す言語表現。普通には尊敬語・謙譲語・丁寧語に分ける。待遇表現。 と、ある。

どうも、自分と相手の力の具合で使い分けるといった意味が伝わってくる。

ふむ・・・。なんとも腑に落ちないのだ・・・。

「○○させていただく」は、たしかにそういった部類の言葉ではあるのだが、我々仏教徒は、まるっきりその相手との力関係で自分の立ち位置を決めて遣っていないような気がするのだ。

でないと、なにやら計算高くていやらしい印象だけを受けてしまう。
関東出身の我が弟子も、九州出身の武田鉄矢氏もそんな風に感じていたのかもしれない。

こんなこと(国語的定義)では、今後もこの素晴らしい「人としての深みを感じさせる」この言い回しが、ただの力関係で左右される敬語でくくられてしまい、それが一般的な国語となってしまう。

近江商人がよく使った「○○させていただく」は、武田鉄矢氏が言うように、 阿弥陀如来の本願によって浄土へ往生「させていただく」という、他力思想に基づく観念、つまり思考の対象となる意識の内容が表現されているのだが、いわゆる「商業敬語」の謙譲表現として、その精神が受け継がれず、単にへりくだった謙譲語として定着した感があるが、やはり、必要以上に乱用すると厭味な印象を与えてしまうおそれもある。

他力本願(阿弥陀如来の本願によって浄土へ往生「させていただく」)から派生した謙譲語。
私が今、この文言を遣うとき、「○○させていただく」という表現には、阿弥陀如来への感謝の念だけではない。
今ある自分がこの娑婆の世界に生かされていることに対して、あらゆる「人のまごころや神仏とのご縁」に感謝しているという意味が含まれる。

つまり、文頭の例文に従って、詳しく、しつこく「○○のまごころ」を表現すると、こうなる。

「はじめまして、仏画工房 楽詩舎のネットショップの管理を担当させて頂いている○○です。私にこのような大切なお仕事をお任せいただいた師をはじめ、お客様との素晴らしいご縁を頂いた神仏(大きな力、意思)に感謝の意を表し、取引終了まで誠心誠意ご対応させて頂きます。」となる。

このまま書くと、やっぱりくどいが、「はじめまして、仏画工房 楽詩舎ネットショップ管理担当の○○です。」だけでは、この○○の人間性は伝わらないと思うのだが、いかがだろうか・・・?

「はじめまして、仏画工房 楽詩舎のネットショップの管理を担当させて頂いている○○です。」の方がまごころや誠意、その人の人間性が伝わると思うし、前後の文章のバランスにもよるが、その人物の人間としての幅が感じられると思う。

「神仏に生かされている」という立場からすれば「○○させていただいている」といった畏敬の念の表現が自然ではないだろうか。

この「○○させていただく」といった言葉遣いが巷(ネット)では、以外にもかなりの話題になっているようだが、関西地方以外にお住まいの方々にも、この類の宗教観さえ一致すれば、この言い回しが、単に力や利害関係で左右される謙譲語のくくりで納まらないことを理解して頂けると思うのだが・・・。


うだうだ | 17:40:07 | Trackback(0) | Comments(1)

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