■プロフィール
■最近の記事

■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
ビデオレター 感謝祭


ワシントンDC郊外に住む孫たちのビデオレターが届いた。

このビデオを観て、アメリカの感謝祭という、日本でいうとお盆のような国民の祝日があることを始めて知りました。収穫祭(ハロウィン)と似ていますが、ちょっと違うらしいのです。

ハロウィンの由来は、古代ケルト人の秋の収穫感謝祭に起源があるといわれるそうなのですが、この感謝祭は、サンクスギビングデイといって1863年、リンカーン大統領が11月第4木曜日を正式な国民の祝日として制定したそうです。

このサンクスギビングデイは、農作物の収穫を神に感謝する日という点では同じですが、インディアンにも感謝するそうです。

1番のごちそうは、こんがりと焼きあがった丸ごとの七面鳥とパンプキンパイだそうです。

アメリカのサンクスギビングデーの起源は1620年。この年の12月、英国の清教徒団(ピューリタン)が、メイフラワー号でマサチューセッツ州のプリマスに到着しましたが、極度の寒さと飢えにより半数の清教徒が命を落とします。

生き残った人々は、インディアン(ワンパノーアグ族)から農耕や狩猟を学び、トウモロコシなどの収穫や七面鳥の飼育に成功したといいます。
清教徒たちは、収穫の感謝を神、そしてインディアンに表するため、祝宴を開きました。
これがアメリカのサンクスギビングデーの始まりだそうです。全米が休日となり、日本でいうならお盆休みといったところです。

このビデオは、遠い異国で、日本人である私の孫(5歳)が、このピューリタンの子孫たちによって受け継がれた感謝の念を表す「お遊戯会」で、その子孫たちと一緒に踊っている様子が写っています。実に不思議な光景です。

神への感謝と、インディアンに感謝する心、美しい心です。

私が昔、観た西部劇は、例外を除き、どれをとってもインディアンが、残忍で無知で争いばかりしている悪者として描かれていました。
我々日本の子供もインディアンは悪くて恐ろしい人だとイメージしていました。

よく考えると、先住民であるインディアンが前から平和に住んでいたところへ、よそ者の白人が武器を持ってなだれ込んで来たわけですから、悪い侵略者は白人の方なわけで、何とも理不尽な映画だったことになります。

あの頃の西部劇は、今のアメリカの子供たちはどう見ているのでしょう・・・。

いづれにせよ、何処の国の歴史も、ご先祖様が、命がけの争いごとを神仏の力を借りて乗り越えてきたわけですから、今があることに「感謝の念を表す」ことは、ご先祖を持つ「人」として当たり前のことに過ぎないことが理解できます。

文化革命により、ご先祖様や伝統を否定して今の共産主義の文化を作らざるを得なかった中国は、ほんとうにこのようなご先祖に感謝するといった美しい心を持ち合わせていないのでしょうか?・・・。と、ついつい違うところで考えさせられてしまいます。

思い出す・・・というと、先日、こんな話も聞いたか読んだか忘れましたが、記憶を確かにする為に、今、ちょっと調べなおしました。

このお話も感銘を受けましたので、次にご紹介しておきます。

アメリカにシアトルという町ありますが、この町の名前の元となった先住民であるインディアンの酋長、チーフシアトルの言った名台詞です。

それは、1855年、チーフシアトルは、インディアンに所有地のほとんどを放棄させる為のポイントエリオット条約に署名しました。
その結果に不満を持ったインディアンと白人との間の戦いで、さらなる流血を避けるため、アメリカ大統領の土地買い上げ要求に仕方なく応じ、和平交渉に努めたと言われています。

「大地は人間が所有するものではない、人間は大地の一部なのだ。空を、あるいは大地のぬくもりを、どうして売ったり買ったりできるだろう。私には理解できない。
風の匂いや水のきらめきを、あなた達はどうやって買おうというのだろう。
私達はこのことを知っている。大地は人間が所有するものではない、人間は大地の一部なのだ。
あらゆるものは、一つの家族を結びつけている血と同じように、繋がり合っている。
私達人間は命という織物を自分で織ったわけではない。私達はそのなかで、ただ一本のより糸であるに過ぎないのだ。
生まれたばかりの赤ん坊が母親の胸を慕うように、私達はこの大地を慕っている。
もし、私達がどうしてもここを立ち去らねばならないのだとしたら、私達が大切にしたようにこの土地を大切にしてほしい。
美しい大地の思い出を、受け取ったときのままの姿で心に刻み付けていてほしい。
そしてあなた達の子供のそのまた子供たちのために、この大地を守り続け私達が愛したように愛してほしい。
いつまでも。」

これが、その時の有名な演説「チーフシアトルのスピーチ」だそうです。

まったく、その通りですね。 中国共産党さん、チーフシアトルに学んで下さい。物の考え方、捉え方ひとつで平和な世の中になるんですね。仏教でいう「真理」ともいえますね。


うだうだ | 12:35:52 | Trackback(0) | Comments(0)
この世の地獄 シベリア収容所
工房の窓の向こうには、初雪を被った愛宕山を背景に桂川のサイクリングロードをサンタクロースの真っ赤な衣装を着たランナー達が、朝から走っている。【嵐山でサンタクロースmarathon2013】だそうで、なんとも平和な光景が繰り広げられている。

そんな中、「永遠の0」とか「海賊とよばれた男」等、戦中、戦後の日本の話を読んで伯父のことまで書いた。
ので、なんとなく私の親父のことも書かなくては・・・。と、思うようになった。

平和な今の時代の礎を作ってくれた、明治・大正生まれの人達への「畏敬の念」それを忘れてはならないと、心から思う――。

私の父親は、昭和20年の終戦後、ソ連軍の理不尽な参戦でシベリアでの抑留生活を余儀なくされ、昭和24年32歳で舞鶴港に引揚げてきた。終戦から4年も経っていた。不幸な青春時代を過ごした大正7年生まれの男だった。

引揚げの翌年、母、志づと縁があって結婚し、私が生まれた。
必死で働くことしかなかった父は、青春を取り戻す暇もなく私たち家族のために休む間も惜しんで働いた。
父が、横になってくつろいで居る所を見たことがない。

兵役中に外科医が居なくて、内科医に受けた痔の手術で肛門括約筋を切断され、結局その傷が原因で、後の紡績工場の仕事において、服に付着した糸くずを飛ばす圧縮エアー洗浄機により、健康な人なら入ることの無い空気が、不完全な肛門から入り、大手術を受けることになる。この手術が原因で腸閉塞が癖になり、生涯苦しむことになる。
人生の後半には、何度も入退院を繰り返し85歳の人生を閉じた。

父親は、当時日本だった満州で青春時代を過ごし、二度の徴兵で帰国するまで兵役を全うした。
その当時のことを、私はあまり詳しくは聞いたことが無いし、父は戦後の価値観が一変した中では、積極的に多くを語らなかった。

満州時代には、売り上げでは、当時の三越百貨店を抜いたこともある、我が故郷五個荘出身の三中井百貨店で呉服を売っていたことや、兵隊生活では、機関銃射撃訓練では1位になって、表彰された自慢話。
それと、私が「従軍慰安婦はあったのか?」の質問をした時に、「専門に従軍した慰安婦は知らないが、彼女たちは、かなりの高級とりで、仲良くなって結婚した兵隊も居た。」と当時の様子を少し話したぐらいである。
私が18歳から家を出たので、おとなになった私とゆっくり話をする機会がなかったのだ。今となっては悔やまれる。

ちなみに、父が働いていたその三中井百貨店、百田尚樹氏に書いて欲しいぐらいドラマチックな話があって、満州と朝鮮半島に店舗を構え、先述のように百貨店では、トップに上り詰めた。
敗戦後、すべての資産を現地に置いたまま引揚げて来たという、いかにも敗戦という現実に翻弄された創業者にとっては夢の中のような話なのだが、この百貨店の存在は、当時を知る人しか知らない。
現在は、その子孫が、彦根のキャッスルロードでロールケーキで有名な「三中井」という洋菓子店を営んでいるそうだ。
幻の三中井百貨店」という本があるので、興味のある方はぜひ、読んで欲しい。

その私の父、藤野勘一郎が戦後五十年を機に、地元の老人会の企画の為に書いた手記が、今年結成50周年の記念誌に再編集され発刊されたので、父の書いた部分を転載して、我が父の辛かったであろう抑留時代をもう一度感じてみようと思う。

---------------------------------------------------------------------

この世の地獄 シベリア収容所 
藤野勘一郎

 しんしんとした寒気が体の芯まで突き刺さる。氷点下40度の極寒期は雪も降らない。
それなのに収容所の室内には便所はない。

いくら寒くても用を足すときは屋外に出なければならなかった。
寒さのため夜中には必ず目がさめた。
屋根も風除けもない仮設便所からは収容所の正面人口がみえた。
その鉄扉は、夜の間は閉じて、そのすぐ横の通用門にはソ連兵の歩哨が自動小銃を抱えて警戒している。

 正面の鉄扉に、もたれかかったまま、今夜も何人かの日本兵が凍死している。
毎夜4~5人はそんな凍死者が出た。

頭が狂っているのだ。

誰も助ける者などいない。いや、それどころか、殆ど全員が狂いかけている。

 シベリアの黒龍江(アムール川)岸にある、ブラゴエ収容所の昭和20年冬はこの世の地獄であった。

その頃の私は、黒河省アイゴンの第六国境守備隊に所属していた。
(※「第六国境守備隊」昭和十三年創設の精鋭部隊で通常「六国」と呼ばれ、ノモンハンへも出動している)

そこで終戦を迎え、全員がこのシベリア収容所に収容された。

 収容されてからは、一日として、生存維持のための最低限の食糧さえも与えられず、過労と栄養失調から発疹チフスの患者が続出した。
そして医療品もなく次々と倒れていく。40度の高熱が続くと思考力も狂ってくる。

ただ日本への郷愁の思いだけが燃えたぎり、狂った脳裏の夢の中で、ボロボロに破れた軍服を身にまとい、雑嚢と水筒を肩にして、破れた靴を履き、「おれは日本に帰るんだ。早くしないと汽車が出る」などとうわ言をつぶやきながら、極寒の深夜、戸外へとさ迷い出る。

正面鉄扉までたどり着き、そこで凍死するのが毎夜の繰り返しの光景なのである。

誰も止める者はない。皆、病人なのである。

翌朝、どうにか正気を維持している者が、その死体を兵舎に運び入れ、裸にする。
裸の死体を数人で担ぎ屋外に運び出す。すでにカチカチに凍った死体の山にハシゴをかけ、その上に積み重ねていく。

これが、シベリア収容所での日課だった。

 あれから半世紀、戦争を知らない世代が国民の大部分を占める時代となった。
かっての大戦が、遠い昔の語り草となる感じさえある。
私は今、ここにこの世の地獄のシベリア収容所の事実を記し、二度と悲惨な戦争を繰り返してはならないと訴えるものである。
ブラゴエ3 ブラゴエ2 ブラゴエ1
----------------------------------------------------------------------

東近江市老人クラブ連合会 五個荘ブロック編 結成50周年記念誌『平和の礎』より



うだうだ | 15:20:40 | Trackback(0) | Comments(0)
「海賊とよばれた男」 も読んでみた
「永遠の0」を読んで、面白かったので、また百田氏の著書を買った。
「海賊とよばれた男」上下巻共で3360円、アマゾンから届いたその本は、ハードカバーのりっぱな本だった。

『物語は、敗戦の日から始まる。「ならん、ひとりの馘首もならん!」--異端の石油会社「国岡商店」を率いる国岡鐵造は、戦争でなにもかもを失い残ったのは借金のみ。そのうえ大手石油会社から排斥され売る油もない。
しかし国岡商店は社員ひとりたりとも解雇せず、旧海軍の残油浚いなどで糊口をしのぎながら、逞しく再生していく。
20世紀の産業を興し、人を狂わせ、戦争の火種となった巨大エネルギー・石油。その石油を武器に変えて世界と闘った男とは・・・出光興産の創業者・出光佐三をモデルにしたノンフィクション・ノベル、『永遠の0』の作者・百田尚樹氏畢生の大作』

と、アマゾンの内容紹介にあるように、主人公の国岡鐵造は、出光佐三である。

ノンフィクションなので、入念な下調べが必要となり、全文から作者の取り憑かれたようなほとばしる情熱が感じられた。「永遠の0」の主人公もシナリオ作家でもある作者の代表番組「探偵ナイトスクープ」で培ったシャレなのか、いたずらなのか、チラっと出てくる。
男が男である時代、その時代背景が同じなのだ。本物の日本男児を描いているのだ。

同じくアマゾンの「著者コメント」欄では以下のように掲載されている。

二年前のある日、テレビ関係の友人と雑談している時、「日章丸事件って知ってる?」と訊かれました。
知らないと答える私に、彼女が概要を説明してくれたのですが、それは俄かには信じられない事件でした。
いまだ戦争の痛手から立ち直れないでいた昭和28年、「七人の魔女」と呼ばれる強大な力を持つ国際石油メジャーと大英帝国を敵に回して、堂々と渡り合い、世界をあっと言わせた「日章丸」というタンカーがあったというのです。
興味を抱いた私は早速調べてみましたが、事件の全貌を知るにつれ、驚愕すると同時に震えが止まらなくなりました。
そこには現代の日本人が忘れかけている「勇気」「誇り」「闘志」そして「義」の心を持った男たちの姿があったからです。
しかしそれ以上に私を驚かせたことがありました。それは、そんな男たちを率いた一人の気骨ある経営者の人生です。その九十五年の生涯はまさしく凄絶としか言いようのないものでした。
――なんという凄い男がいたんや!
私は「この男を書きたい!」と心から思いました。いや――書かねばならない!この素晴らしい男を一人でも多くの日本人に知ってもらいたい!それが作家としての使命だ。
気が付けば、取り憑かれたようにワープロに向かっていました。小説家になって六年、執筆しながらこれほどの充実感を覚えたことはありません。
この作品は「小説」という形を取っていますが、登場人物はすべて実在しました。
そしてここに描かれた出来事は本当にあったことです。この奇跡のような英雄たちの物語が、一人でも多くの日本人に届くことを心から願っています。

と、ある。

この佐三の伝記を読むにつれ、私の記憶の中に居る、ある人物と、主人公の鐵造とがダブって浮上してきた。
私の父親の兄、つまり私の伯父である。故藤野重蔵その人である。滋賀県の東近江市(旧神崎郡五個荘町簗瀬)五個荘簗瀬町に本社を置く『藤野商事株式会社』の創業者である。
今は私の従兄弟が会社の経営に携わってる。数年前に、グループで年商220億円を達成したと聞いたことがある。身内を自慢するわけではないが、たいしたものである。

実は、私が高校を卒業し、京都の図案家故本澤一雄先生の下で修行を始め、そろそろ仕事に馴染んできたその頃、1970年の大阪万博の頃だっただろうか、創業者の妻、つまり仕事のパートナーでもあった伯母から私に電話があったことを思い出す。
内容は、こうだった。「今度、食品を専門に扱う会社を興すことになったので、次男(私より1歳上)と一緒にやってみないか?」というお誘いだった。
もちろん、私は断った。子供の頃から夢見ていた『絵筆』を持って生活をしていたのだから・・・。
で、そのフジノ食品株式会社、この会社も単独でも110億の年商だとか・・・。
一緒にやっておけばよかったかなぁ・・・と正直、絵描き家業が苦しい時には思った時もある。

で、その藤野商事株式会社の創業者藤野重蔵は、9人兄弟の長男として生まれた。私と同じように青年時代「絵描き」を志した人でも有る。満州から帰り、軍人時代に手に入れた「マント」が高値で売れたことで商人として目覚め、もともと燃料屋であった父親の家業を継ぎ、商人となる決心をした人である。
藤野商事株式会社のサイトによると、私が3歳の頃、つまり1953年に出光興産と販売契約を結んだとある。

この物語の見せ場でもある「日章丸事件」のころである。
当時、英国を敵に回してイランへの石油買い付けを強行。大英帝国の力による阻止をものともせず、国際社会に独立後の日本の正義と誇りを堂々とアピールし、世界をあっと言わせた世界最大のタンカー「日章丸」の快挙。

その報道を耳にした伯父は、出光佐三に惚れたのであろう。
これからの時代は「石油だ!」と、出光佐三と同じように確信をもっていたのだろう。
その石油というこれからの日本が高度成長するのに絶対不可欠な商品に目をつけた伯父は出光興産と運命を共にしたのだ。

そんなことで、藤野本家の家業がこの「海賊とよばれた男」の主人公、国岡鐵造(出光佐三)の運命と大きく関わっていたことを、この本を読んで、あらためて思い知ったのである。

私も一応は、日本男児のはしくれなので、この『永遠の0』と『海賊とよばれた男』の2冊を読み終えた今、心の奥底に眠っていた日本男児のDNAが刺激活性され、細胞がクリーニングされたような気がしている。

うだうだ | 09:21:57 | Trackback(0) | Comments(0)
『永遠の0ゼロ』読書のススメ
2週間ほど前、ワシントンDCの郊外に住む娘の旦那より「お父さん、『永遠の0ゼロ』読みました?」とスカイプで話しかけられた。
「あぁ、モモタやったかヒャクタやったか、その人の書いた本か?」私は、「たかじんのそこまで言って委員会」のファンで、毎週録画をして観ている。
その番組で、ヒット長寿番組、「探偵!ナイトスクープ」の構成作家の百田尚樹が論客として、何度か出演している。その時、この『永遠の0』や『海賊と呼ばれた男』が大好評として紹介されたのを覚えていた。

「いや、まだ読んでいない。」と返事。私は何やらこの哲学的なタイトルに興味を持っていたが、内容を調べるまでには至っていなかった。

「そしたら、さっそくアマゾンで注文して、私が先に読んで、そっちに送っとくわ! クリスマスプレゼントに間に合うとええのにな(^o^)」

実は、その番組「たかじんのそこまで言って委員会」中の発言に感銘を受けた私は、百田尚樹の「つぶやき twitter」をフォローしているのだ。11人のフォロー中の一人だ。

仕事が忙しく注文するのをうっかり忘れていたが、やっと6日前に注文した。

娘婿は、ワシントンDCにあるスミソニアン航空宇宙博物館(ライト兄弟が開発した飛行機から宇宙ロケット、月の石まで展示)に、無傷の零戦に会いによく行くそうだ。
ゼロ戦をこよなく愛する34才の男なのだ。 2年前に、私も行ったことがある。
本館には、その当時世界一の戦闘能力を誇った零戦52型とホ-20。別館には 紫電改・桜花・晴嵐・屠龍の胴体・熱田・ネ-20が展示されている。

そう、その本のタイトルの「0ゼロ」は、「零戦」の「0」だった。その本は、注文した翌日に届いた。

『永遠の0』は厚み2.5cmもある文庫本仕様だった。分厚い!!これは、相当面白くないと最後まで読めないかもしれない・・・と、最近、年のせいか、特に夜などめっきり視力が落ちて読み終える自信がなかった。

しかし、毎日少しづつ読んで、昨晩読み終えた。 面白かった・・・というより、感動した。
私の知りたかった「大東亜戦争(太平洋戦争)」に参加せざるを得なかった、軍人や国民の様子が手に取るように伝わって来る。

この本の最後に、児玉清氏が、解説文を書いている。その中から、一部を抜粋転載して、この素晴らしい物語を紹介しておくことにする。

『戦争のことも、零戦のことも知らない若者たちが読んでも素晴らしい感動が彼らの心を包むであろうことはまちがいないことをここで強調しておきたい。
いや、むしろそういう若者たちにこそ、ぜひ本書を読んでもらいたいと痛切に思っている一人だ。作者の一つの意図もそこにあったと思う。
事実、本書の中では、太平洋戦争とはどんな戦争で、どのような経過を辿ったのか。
また、この戦争に巻き込まれた我々日本人は、軍人は、国民は、その間に、どのように戦い、どのように生きたのか。
国を護るために戦わなくてはならなくなった若者たちの心とは、命とは。
彼ら若者たちを戦場に送り出したエリート将校たちの心は、といったことを作者はものの見事にわかりやすく物語の中にちりばめているからだ。

なまじの歴史本などより、はるかに面白く戦争の経緯とその実態を教えてくれる点でも実に秀逸な物語だと思うのは僕だけであろうか。』

この本、5日間持ち歩いたので、少々痛んでしまった。
娘婿へのプレゼントだし、今朝、もう一冊注文した。それを送ることにした。

聞くところによるとこの作品、映画も作ったようだ。久々に日本製の映画も観ることになるかもしれない。


ご紹介 | 10:32:29 | Trackback(0) | Comments(0)

FC2Ad