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この世の地獄 シベリア収容所
工房の窓の向こうには、初雪を被った愛宕山を背景に桂川のサイクリングロードをサンタクロースの真っ赤な衣装を着たランナー達が、朝から走っている。【嵐山でサンタクロースmarathon2013】だそうで、なんとも平和な光景が繰り広げられている。

そんな中、「永遠の0」とか「海賊とよばれた男」等、戦中、戦後の日本の話を読んで伯父のことまで書いた。
ので、なんとなく私の親父のことも書かなくては・・・。と、思うようになった。

平和な今の時代の礎を作ってくれた、明治・大正生まれの人達への「畏敬の念」それを忘れてはならないと、心から思う――。

私の父親は、昭和20年の終戦後、ソ連軍の理不尽な参戦でシベリアでの抑留生活を余儀なくされ、昭和24年32歳で舞鶴港に引揚げてきた。終戦から4年も経っていた。不幸な青春時代を過ごした大正7年生まれの男だった。

引揚げの翌年、母、志づと縁があって結婚し、私が生まれた。
必死で働くことしかなかった父は、青春を取り戻す暇もなく私たち家族のために休む間も惜しんで働いた。
父が、横になってくつろいで居る所を見たことがない。

兵役中に外科医が居なくて、内科医に受けた痔の手術で肛門括約筋を切断され、結局その傷が原因で、後の紡績工場の仕事において、服に付着した糸くずを飛ばす圧縮エアー洗浄機により、健康な人なら入ることの無い空気が、不完全な肛門から入り、大手術を受けることになる。この手術が原因で腸閉塞が癖になり、生涯苦しむことになる。
人生の後半には、何度も入退院を繰り返し85歳の人生を閉じた。

父親は、当時日本だった満州で青春時代を過ごし、二度の徴兵で帰国するまで兵役を全うした。
その当時のことを、私はあまり詳しくは聞いたことが無いし、父は戦後の価値観が一変した中では、積極的に多くを語らなかった。

満州時代には、売り上げでは、当時の三越百貨店を抜いたこともある、我が故郷五個荘出身の三中井百貨店で呉服を売っていたことや、兵隊生活では、機関銃射撃訓練では1位になって、表彰された自慢話。
それと、私が「従軍慰安婦はあったのか?」の質問をした時に、「専門に従軍した慰安婦は知らないが、彼女たちは、かなりの高級とりで、仲良くなって結婚した兵隊も居た。」と当時の様子を少し話したぐらいである。
私が18歳から家を出たので、おとなになった私とゆっくり話をする機会がなかったのだ。今となっては悔やまれる。

ちなみに、父が働いていたその三中井百貨店、百田尚樹氏に書いて欲しいぐらいドラマチックな話があって、満州と朝鮮半島に店舗を構え、先述のように百貨店では、トップに上り詰めた。
敗戦後、すべての資産を現地に置いたまま引揚げて来たという、いかにも敗戦という現実に翻弄された創業者にとっては夢の中のような話なのだが、この百貨店の存在は、当時を知る人しか知らない。
現在は、その子孫が、彦根のキャッスルロードでロールケーキで有名な「三中井」という洋菓子店を営んでいるそうだ。
幻の三中井百貨店」という本があるので、興味のある方はぜひ、読んで欲しい。

その私の父、藤野勘一郎が戦後五十年を機に、地元の老人会の企画の為に書いた手記が、今年結成50周年の記念誌に再編集され発刊されたので、父の書いた部分を転載して、我が父の辛かったであろう抑留時代をもう一度感じてみようと思う。

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この世の地獄 シベリア収容所 
藤野勘一郎

 しんしんとした寒気が体の芯まで突き刺さる。氷点下40度の極寒期は雪も降らない。
それなのに収容所の室内には便所はない。

いくら寒くても用を足すときは屋外に出なければならなかった。
寒さのため夜中には必ず目がさめた。
屋根も風除けもない仮設便所からは収容所の正面人口がみえた。
その鉄扉は、夜の間は閉じて、そのすぐ横の通用門にはソ連兵の歩哨が自動小銃を抱えて警戒している。

 正面の鉄扉に、もたれかかったまま、今夜も何人かの日本兵が凍死している。
毎夜4~5人はそんな凍死者が出た。

頭が狂っているのだ。

誰も助ける者などいない。いや、それどころか、殆ど全員が狂いかけている。

 シベリアの黒龍江(アムール川)岸にある、ブラゴエ収容所の昭和20年冬はこの世の地獄であった。

その頃の私は、黒河省アイゴンの第六国境守備隊に所属していた。
(※「第六国境守備隊」昭和十三年創設の精鋭部隊で通常「六国」と呼ばれ、ノモンハンへも出動している)

そこで終戦を迎え、全員がこのシベリア収容所に収容された。

 収容されてからは、一日として、生存維持のための最低限の食糧さえも与えられず、過労と栄養失調から発疹チフスの患者が続出した。
そして医療品もなく次々と倒れていく。40度の高熱が続くと思考力も狂ってくる。

ただ日本への郷愁の思いだけが燃えたぎり、狂った脳裏の夢の中で、ボロボロに破れた軍服を身にまとい、雑嚢と水筒を肩にして、破れた靴を履き、「おれは日本に帰るんだ。早くしないと汽車が出る」などとうわ言をつぶやきながら、極寒の深夜、戸外へとさ迷い出る。

正面鉄扉までたどり着き、そこで凍死するのが毎夜の繰り返しの光景なのである。

誰も止める者はない。皆、病人なのである。

翌朝、どうにか正気を維持している者が、その死体を兵舎に運び入れ、裸にする。
裸の死体を数人で担ぎ屋外に運び出す。すでにカチカチに凍った死体の山にハシゴをかけ、その上に積み重ねていく。

これが、シベリア収容所での日課だった。

 あれから半世紀、戦争を知らない世代が国民の大部分を占める時代となった。
かっての大戦が、遠い昔の語り草となる感じさえある。
私は今、ここにこの世の地獄のシベリア収容所の事実を記し、二度と悲惨な戦争を繰り返してはならないと訴えるものである。
ブラゴエ3 ブラゴエ2 ブラゴエ1
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東近江市老人クラブ連合会 五個荘ブロック編 結成50周年記念誌『平和の礎』より



うだうだ | 15:20:40 | Trackback(0) | Comments(0)