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ケサリア kesaria stupa 2014

ケサリアは、ヴァイシャリ(ベーサリーとも呼ぶ)から北西に48㎞、ケサリアから7㎞南東のガンジス川を渡るとパトナ。その先にナーランダやラージギルがある。

我々一行は、ネパールから陸路でインドに入ったので、ルンビニを最初にお参りした。
したがって、インド側のカピラバストゥからクシナガラを目指したので、『ブッダ最後の旅』とは逆に訪ねることになる。これを「順打ち」に対して、「逆打ち」というらしい。

クシナガラからケサリア経由でヴァイシャリを目指している時のこと、何の抗議デモか知らないが、通行止めに伴う大渋滞に遭遇し、ヴァイシャリ行きを断念せざるを得なくなり、大幅に遠回りしてパトナに向かうことになった。

車が横転するほどの凸凹悪路にサトウキビの輸送トラックで渋滞する中をノロノロとラージギルに向かった。ラージギルのホテルに到着したのは、予定の時刻を8時間ほど過ぎた早朝の午前4時だった。

ヴァイシャリは、ブッダ出家後の最初の訪問地でもあり、最後の旅でクシナガラに向かう最終の長期滞在説教地でもあり、また、仏法に帰依し教養もある遊女アムラパリの心温まる接待を受け、弟子たちに自身の死を予告した地でもある。

最後の旅でヴァイシャリの町を後にした頃、執着から解き放たれたはずのブッダが、巨大な象が大きく振り返るように身をひるがえし、なつかしそうにヴァイシャリの町を眺めながら「ヴァイシャリの町は美しい・・・人生とはなんと甘美なものだろう・・・。」と名残惜しんだといわれている。
その場所は、見返りの丘として仏跡のひとつに加えられている。
今回は行けなかったが、この丘も、田園に囲まれ、大きなマンゴー樹が聖樹として大切にされている。

さらに、ブッダの前世を綴るジャータカ物語(本生譚)によれば、ブッダが前世で菩薩であった時、この王国を支配したということになっている。

ブッダと同じ時代に生まれたジャイナ教の創始者マハーヴィラもここの出身だし、ブッダの死後100年には、ここが第2回目の結集(経典編集の集まり)の地になった。

ヴァイシャリのリッチャヴィ族は、ブッダのご一行をここケサリアまで見送ったが、涅槃を迎えるブッダが「見送りは、ここまでで結構」と別れを告げ、托鉢椀を記念に与えられ、リッチャヴィ族は、その記念に泥のスートゥーパを作ったという。これがこのケサリアストゥーパの基礎となったといわれている。

瀕死のブッダとアーナンダ一行(数名)は、ここから入滅の地、クシナガラまで旅を続ける。ここから80Kmほど先となるのだろうか・・・。

さて、私は、ここケサリア遺跡には初めて訪れたのだが、そのストゥーパは、開放的な自然の環境にその美しい姿を半分だけ現した、当時の姿を感じさせる生々しい魅力的な様子だった。
ご一緒した人達と、まるで、そのブッダの時代に迷い込んだような、そんな気分にさえなる。

広い敷地の端にある入場門から見える小高い丘がそれだった。門から見ると右半分が丘で、左半分が掘り出したストゥーパだ。
アショカ王の時代250年頃から800年頃までかかって造築といえば良いのだろうか、付け足しながら大きくなったのがこのストゥーパだ。

まだ、発掘途中なのである。最下層の基壇は、地震で沈み地面の下にあるといわれている。
インドネシアのジャワ島にあるボルボドゥール遺跡もこのケサリアのストゥーパを見本としているそうだ。
このボルボドゥールのストゥーパと同じようにいづれ世界遺産になるのだろう。

辺りが整備されないうちに、ぜひ、またゆっくり時間をとって行きたいものだ・・・。




【動画】けなげに働く少女に出遭った・・・。

インド全土で、こんなシーンによく出くわすのだが、ここケサリアでも、けなげに働く子供たちの子供らしい姿に、私の幼い頃の懐かしさと、「頑張れよ!」と、エールを送りたくなるようなシーンに出くわした。

記録ビデオにたまたま写っていたので、私のこころの動きを表現したくて、別に編集してみた。

遺跡に入場する中流以上の子供連れの家族の横を、汚れたボロボロの服を着た少女が、頭に刈った草を大量に乗せて、こちらに歩いてくる。

昭和30年代の日本、私の幼い頃の光景と似ているが、大人も子供も皆前を向いて希望に胸を膨らませ生きていた。

ここインドではどうなのだろう・・・法律では禁止されているカーストが色濃く残るこの独特の社会で生きる人達の、特に下層の人達やカースト外、つまり不可触民のことが気になる。

どんな気持ちなのだろうか・・・。この少女の心の中を覗いてみたい・・・。




| 09:03:31 | Trackback(0) | Comments(0)
クシナガラ Kushinagar 


クシナガラといえば。涅槃の地。
釈尊最後の旅の終着の地だ。

何度、この旅の終着地点の出来事である「仏涅槃図」を描かせて頂いたであろうか・・・。

ここクシナガラは、釈尊が涅槃に入った地である。上の動画は今回、私が撮って、編集した。

2004年依頼2度目だが、あの時はもう夜だったので、辺りの雰囲気の印象がないし、当時の写真もない。
でも、今回も早朝なので、濃い霧が立ち込め、まるで、墨絵の世界がそこにあった。あいかわらず、辺りの景色が見えないのだ。つまり、余計なものが一切見えないのだ。見えるのは涅槃堂と沙羅樹と周辺の木々の間から見えるご来光のみ。

涅槃像には相変わらず、ミャンマーの仏教徒が掛けたという袈裟のような布が頭部と足を残し覆い掛けてある。
一度その布を取って拝みたいものなのだが、そうもいかない。今回も、御尊体の部分の造作は見ることができなかった・・・。

●お釈迦さまの最後について、『大パリニッバーナ経(大般涅槃経)』には次のようなことが書かれている。

ある日、釈尊は死を予感し、生まれ故郷を目指して、弟子アーナンダと二人で最後の旅に出る。
霊鷲山から出発してガンジス川を渡り、釈尊が好きだった街ヴァイシャリの町へ向かわれます。
ベルーヴァ村で雨安居に入られた時、「恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こった」という。
釈尊80歳。老いと衰弱は避けられなかった。

アーナンダよ、そなたたちのために説いた教えと戒律とが、私の死後、そなたたちの師となるのだ。

また、今、そなたたちは互いに『友よ』と呼び合っているが、私の亡き後はその習慣はやめなくてはならない。
年長の修行僧は、新参の修行僧を、名または姓を呼んで、あるいは『友よ』と呼びかけてつき合うべきである。
新参の修行僧は、年長の修行僧を『尊い方よ』とか、『尊者よ』と呼んでつき合うべきである。


ここで、仏陀は、「年上の僧や先輩の僧を敬うべきである。年下の僧や新米の僧は、決して年上の僧や先輩の僧を友」などと呼んではなるぬ」と言っている。
 在家の社会システムにおいても同じことが言えるとすれば、仏教が我が国に輸入される過程において、中国で儒教の教えに影響され、仏陀の直接の教えではない「倫理」が説かれるようになったと勘違いしている私を改めさせた一説であるが、これはたぶん、師が居なくなった時点で、誰をよりどころに修行するのかという弟子たちの不安に応えたのだと思われる。つまり仏法を、自分より知る人を、敬い、そしてよりどころとすれば良いということになる。在家にとっては、自分より仏法を知る人は、「僧」ということになる。)

私の死後、修行僧の集いを望むなら、ささいな戒律は廃止してもよい。

この、ささいな戒律・・・とはどんなことをさすのだろう・・・。
たぶん、仏法を学ぶことの本質から外れた戒律のことをさしているのだろう。例えば、修行者が集団を組織するがゆえに必然的に生まれる決め事などは、どうしても行き過ぎる傾向があるが、原点に立ち返って思考すれば、その必要性が見えてくるということなのかもしれない。現代の仏教寺院の組織にもそれが言えるような気がするのだが・・・。

 アーナンダよ、ひねくれ、戒律を守る気持ちを欠いている修行僧チャンナには、私の死後、「清浄な罰」を加えなさい。
「清浄な罰」とは、チャンナは何を言ってもかまわないが、他の修行僧は誰も彼に話しかけず、忠告もせず、教えさとすこともせず、彼を独りにしておくことだ。
それが彼を立ち直らせるであろう。


※ここでも、仏陀は、僧団の規則の守れない修行者に対して、自身が、その規則、規律の必要性に気付くまで、求めるまで、誰も何も言うな、諭すな、と言っている。求道の心が生じて初めて仏法が理解できるといったところだろうか。

また、修行僧の誰かの心に、ブッダについて、法について、僧団について、道について、あるいは実践について、疑問が生じるかも知れない。もし、そういうことがおこりそうならば、今尋ねなさい。

後になって、『師の目の前にいながら、師に面と向かって尋ねることをしなかった』と後悔することがないように。」

この言葉に修行僧たちは黙っていました。
お釈迦さまは同じことを3度繰り返されましたが、修行僧たちは沈黙したままでした。
そこで告げられました。

「修行僧たちよ、お前たちは師を尊敬するがゆえに尋ねないのかも知れない。仲間が仲間に尋ねるようにしなさい。」
このように言われても修行僧たちは黙っていました。そこでアーナンダは尊敬する師にこのように言いました。

「尊敬する師よ、不思議なことです。驚くべきことです。1人の修行僧にも疑い、疑念が起こっていません。」

「アーナンダよ、そなたは清らかな信仰からそのように語る。

私は、このように認識している。
『この修行僧の集まりにおいては、1人の修行僧にも疑念が起こっていない。この5百人の修行僧のうちの最後の修行僧でも聖者の流れに入り、堕落から身を守り、至高の智に到達する』と。

さあ、皆にもう一度思い出させよう。
一切の事象は衰滅していくものである。

心して修行に励みなさい。」



と、言い残し、2本の沙羅樹の間に、当時の縁起が良いとされていた習慣にのっとり、頭を北にして静かに涅槃に入られたのである。
その場所こそが、ここクシナガラの涅槃堂のある位置なのだ。

全ての事象や姿、形のあるものは、ことごとく無くなるのだよ。執着すれば苦しいだけ。
大切なのは、人として修行に励むこと、つまり「善」を求めて生きることが、結局「楽」なのだよ。と教えている。

仏跡は、何処に行っても、どうしてこんなにのどかでいつまでも居たくなるのだろう・・・。
お参りする人々の直向で素直な信仰心が辺りを幸福のエネルギーで満たしているからだろうか・・・・。




| 09:59:14 | Trackback(0) | Comments(0)
インド不可触民を救う日本人仏教指導者、佐々井秀嶺


佐々井師、2009年の8月に44年ぶりに帰国というニュースを聞いてから、すでに5年も経った。
この動画の内容を観ると、38年間帰国していないというくだりがあるので、このフジテレビが取材した時期は、2009年から遡ること6年。2003年と推測される。調べると2004年12月28日に放送したものらしい。当時69歳。現在79歳か。

インド仏跡旅行で撮り溜めたビデオをまとめている中、インドの不可触民のことで調べていたら、懐かしい人物の名前に出会った。その人物というのが、佐々井秀嶺師。

東京の高尾山薬王院の大山貫首直々のご依頼で「釈迦涅槃図」を描かせていただいた時、その大山貫首からこの弟弟子の佐々井師のことを聞かされていたからだ。

もともと、何かで佐々井師の存在を知っていた私は、彼の破天荒な生き様と、彼の仏教の捉え方に興味を持っていたので貫主のお言葉に深く聞き入った記憶がある。

「また、インドに行かれたら、ぜひ、彼に会ってやってください。」という貫主のお言葉が気になっていたが、今回の旅は、仏教クラブの皆さんとご一緒の旅。日本仏教会においては、異端のお坊様なのだ・・・。

またの機会があれば、お会いしたいと思っている。

鎌倉時代の宗祖を彷彿とさせる佐々井師の動きに、尊敬と憧れに似た気持ちを抱く私は、このビデオを自分のブログに貼り付け、このビデオを通じて、インドに、しかも、日本人で、こんな坊さんが居るということを知って欲しいと思った次第である。




ユーチューブよりお気に入り | 10:25:28 | Trackback(0) | Comments(0)
カピラヴァストゥ(ピプラーワー Piprahwa)Kapilavatthu 参拝 2014年2月7日


ネパールのティラウラコットというところにあるカピラヴァストゥ(釈尊のお生まれになった国)と、今回訪問した、インド側にあるカピラヴァストゥは、両者こそが本当のカピラヴァストゥだということで、政治的に決着がついていない。
いずれにせよ現在のインドとネパール国境付近に位置するわけで、国境や道路さえ無視すればキョリも近い。
たぶん、どちらも関係があると思う。

ルンビニでお生まれになったゴータマ・シッダータは、ここで、たくましく、賢く、優しく育った。そして、耶輸陀羅(やしょだら)を妻に迎え一子ラフーラを授かるが、やがて真理の獲得の為に家族を捨てることになる。

今回行った、インド側のカピラヴァストゥは、始めての訪問となるが、ネパール側のカピラ城にも実は行ったことが無い。
カピラ城と書くが、小国のことで城壁で囲まれていたことからこう呼ぶのだろう。
出家前の釈尊が王子として暮らしていたカピラ城には、華やかな物の溢れた豊かな城のイメージしかない。釈尊、いや、ゴータマ・シッダータは29歳で善の真理を知るためにここを出る。生・老・病・死に疑問を持った何不自由の無い29歳の青年が婆羅門の習慣とはいえ、出家し苦行に入るわけだ。
仏足跡を辿る旅なので、ここは欠かせないわけだ。

ネパールの国境の町バイワラから陸路でインドに入国してまもなくして到着する。
バイワラの国境付近はインド側からの大型トラックが列をなし、大混雑だ。
時には、仏陀の過ごした時代の2500年前と同じように牛車が大量の荷物を積んでゆっくりと歩んでいる光景に出くわす。2頭が引くその荷車は、ゆっくりとそのトラックの行列を追い越す。
じつに面白い光景だ。過去と現在が入り混じって実在している。これがインドなのだ!

このインド領内にあるピプラーワーの遺跡からは「カピラヴァストゥ」の文字が刻まれた出土品がいくつか出ていることが知られている。
このピプラーワーの遺跡はルンビニーから南に29Kmほど行ったところにあり、ストゥーパ(仏塔)と僧院の遺構が残されている。

また、ここからは、仏舎利を納めた舎利容器が出土されている。これは1898年(明治31年)にペッペというイギリス人がこのストゥーパを発掘したところ、地下6メートルの所から舎利容器が発見されたという。
その舎利容器は現在、カルカッタのインド博物館に保存されている。

舎利容器には紀元前数世紀の文字で、『これはシャカ族の仏・世尊の遺骨を納めた厨子であって、世尊を名誉と思う兄弟ならびに姉妹・妻子どもが祀っていたものである) 』とあるそうだ。
この舎利容器に納められた遺骨はタイ国の王室に譲り渡され、その一部が日本の仏教徒に分与され、現在、名古屋にある日本で唯一のいずれの宗派にも属さない日本の全仏教徒のための寺院、覚王山日泰寺に納められている。
人間釈迦の実在をものがたる。

広大な平地に城壁で囲まれた小国、カピラ城。
周囲には山など無い。地平線がどこまでも続く。
広大な田畑が広がる。
ここには、しつこい物売りも居ない。

のんびりした清らかな時間が流れていた・・・。

懐かしい田舎があった。 また、ゆっくり来たいところだ。





| 15:39:28 | Trackback(0) | Comments(0)
ルンビニ(世界遺産)参拝 2014年2月7日


ここに一番最初に行ったのが、1997年なのでもう、17年も前になる。当時の工房の近くにネパール料理屋があって、そのネパール人の店主の『カトマンズに住んだことある内縁の妻?』の企画したネパール旅行に、工房の弟子たちと参加した。
仏画を描き出し、仕事が順調に進んでいたその頃、1993年のスリランカ、1995年のインドネシア旅行に続き、2年ごとに仏跡に行っていた。
当時の弟子たちは、私と年齢が近く、乗せられては、仕事も、旅にも積極的に計画を立て実行していた。

カトマンズ観光の後、チトワン国立公園に行くグループと、我々ルンビニ行きのグループに別れ、バイワラからルンビニに入った。
当時のルンビニは、まだ発掘途中で、公園整備が始まったばかり。
丹下健三氏設計による図書館が際立って違和感があったことを覚えている。
1978年に、日本の建築家丹下健三氏がマスタープランを作成。
現在もこの計画に基づき整備が進められているそうだ。

今回のルンビニ訪問は、1997年と2004年に続き3度目となるが、2004年に訪問した時にはすでにそうだったのだが、遺跡の上にお椀を被せるように、白いペンキで塗られたマーヤー・デーヴィー寺院(別名:目玉寺)が建ち、違和感を感じさせた。
周辺も当時の原野の面影は微塵も無くなっていた。来るたびに変貌していて違和感しきり。

当時と変わらない場所は、摩耶夫人が産湯を使った池と大きな菩提樹、それとアショカピラーぐらいのもので、あの頃の素朴な原野の中の遺跡風景が懐かしい。

そうそう、あの時泊まった法華ホテルから歩いて原野の道なき道を歩いてルンビニ園に向かっている時、疲れた様子の鶴が三羽、低空を飛来して来た。聞くと、8000mのヒマラヤ山脈を越えて飛んで来るのだという。アネハ鶴 という種類らしい。あの時は、丹頂鶴のように見えたのだが、頭の上は黒いようだ。
命をすり減らしてヒマラヤを超えて来るこの疲れきった鶴の勇姿に感動したものだ。

で、今回のルンビニ訪問は、土産物店や売り子の居る、サイクルリキシャの乗り場から、入口までそれで行き、そこからまた徒歩で、入場門まで行く事になる。
サイクルリキシャの通る道の横には、タージマハルの中庭のような長い直線の人造池がお堀のように造られ、1Km以上はあったように思う。リキシャを降りると、そこには不滅の法灯が点る。
その先には、巨大な誕生仏が我々を迎えてくれていた。ビックリだ。
変われば変わるものだ・・・。

私は、もう行かないと思う・・・。 

最初に行った、原野の中のルンビニ遺跡。あの頃のルンビニに行きたくても、もう今はない。
でも、初めて行った人たちは、釈尊の生まれた場所ということで、感動されていたようだ。
整備された世界遺産も、いかにもそれらしくて良いのかもしれない。



| 14:24:54 | Trackback(0) | Comments(0)

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