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クシナガラ Kushinagar 


クシナガラといえば。涅槃の地。
釈尊最後の旅の終着の地だ。

何度、この旅の終着地点の出来事である「仏涅槃図」を描かせて頂いたであろうか・・・。

ここクシナガラは、釈尊が涅槃に入った地である。上の動画は今回、私が撮って、編集した。

2004年依頼2度目だが、あの時はもう夜だったので、辺りの雰囲気の印象がないし、当時の写真もない。
でも、今回も早朝なので、濃い霧が立ち込め、まるで、墨絵の世界がそこにあった。あいかわらず、辺りの景色が見えないのだ。つまり、余計なものが一切見えないのだ。見えるのは涅槃堂と沙羅樹と周辺の木々の間から見えるご来光のみ。

涅槃像には相変わらず、ミャンマーの仏教徒が掛けたという袈裟のような布が頭部と足を残し覆い掛けてある。
一度その布を取って拝みたいものなのだが、そうもいかない。今回も、御尊体の部分の造作は見ることができなかった・・・。

●お釈迦さまの最後について、『大パリニッバーナ経(大般涅槃経)』には次のようなことが書かれている。

ある日、釈尊は死を予感し、生まれ故郷を目指して、弟子アーナンダと二人で最後の旅に出る。
霊鷲山から出発してガンジス川を渡り、釈尊が好きだった街ヴァイシャリの町へ向かわれます。
ベルーヴァ村で雨安居に入られた時、「恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こった」という。
釈尊80歳。老いと衰弱は避けられなかった。

アーナンダよ、そなたたちのために説いた教えと戒律とが、私の死後、そなたたちの師となるのだ。

また、今、そなたたちは互いに『友よ』と呼び合っているが、私の亡き後はその習慣はやめなくてはならない。
年長の修行僧は、新参の修行僧を、名または姓を呼んで、あるいは『友よ』と呼びかけてつき合うべきである。
新参の修行僧は、年長の修行僧を『尊い方よ』とか、『尊者よ』と呼んでつき合うべきである。


ここで、仏陀は、「年上の僧や先輩の僧を敬うべきである。年下の僧や新米の僧は、決して年上の僧や先輩の僧を友」などと呼んではなるぬ」と言っている。
 在家の社会システムにおいても同じことが言えるとすれば、仏教が我が国に輸入される過程において、中国で儒教の教えに影響され、仏陀の直接の教えではない「倫理」が説かれるようになったと勘違いしている私を改めさせた一説であるが、これはたぶん、師が居なくなった時点で、誰をよりどころに修行するのかという弟子たちの不安に応えたのだと思われる。つまり仏法を、自分より知る人を、敬い、そしてよりどころとすれば良いということになる。在家にとっては、自分より仏法を知る人は、「僧」ということになる。)

私の死後、修行僧の集いを望むなら、ささいな戒律は廃止してもよい。

この、ささいな戒律・・・とはどんなことをさすのだろう・・・。
たぶん、仏法を学ぶことの本質から外れた戒律のことをさしているのだろう。例えば、修行者が集団を組織するがゆえに必然的に生まれる決め事などは、どうしても行き過ぎる傾向があるが、原点に立ち返って思考すれば、その必要性が見えてくるということなのかもしれない。現代の仏教寺院の組織にもそれが言えるような気がするのだが・・・。

 アーナンダよ、ひねくれ、戒律を守る気持ちを欠いている修行僧チャンナには、私の死後、「清浄な罰」を加えなさい。
「清浄な罰」とは、チャンナは何を言ってもかまわないが、他の修行僧は誰も彼に話しかけず、忠告もせず、教えさとすこともせず、彼を独りにしておくことだ。
それが彼を立ち直らせるであろう。


※ここでも、仏陀は、僧団の規則の守れない修行者に対して、自身が、その規則、規律の必要性に気付くまで、求めるまで、誰も何も言うな、諭すな、と言っている。求道の心が生じて初めて仏法が理解できるといったところだろうか。

また、修行僧の誰かの心に、ブッダについて、法について、僧団について、道について、あるいは実践について、疑問が生じるかも知れない。もし、そういうことがおこりそうならば、今尋ねなさい。

後になって、『師の目の前にいながら、師に面と向かって尋ねることをしなかった』と後悔することがないように。」

この言葉に修行僧たちは黙っていました。
お釈迦さまは同じことを3度繰り返されましたが、修行僧たちは沈黙したままでした。
そこで告げられました。

「修行僧たちよ、お前たちは師を尊敬するがゆえに尋ねないのかも知れない。仲間が仲間に尋ねるようにしなさい。」
このように言われても修行僧たちは黙っていました。そこでアーナンダは尊敬する師にこのように言いました。

「尊敬する師よ、不思議なことです。驚くべきことです。1人の修行僧にも疑い、疑念が起こっていません。」

「アーナンダよ、そなたは清らかな信仰からそのように語る。

私は、このように認識している。
『この修行僧の集まりにおいては、1人の修行僧にも疑念が起こっていない。この5百人の修行僧のうちの最後の修行僧でも聖者の流れに入り、堕落から身を守り、至高の智に到達する』と。

さあ、皆にもう一度思い出させよう。
一切の事象は衰滅していくものである。

心して修行に励みなさい。」



と、言い残し、2本の沙羅樹の間に、当時の縁起が良いとされていた習慣にのっとり、頭を北にして静かに涅槃に入られたのである。
その場所こそが、ここクシナガラの涅槃堂のある位置なのだ。

全ての事象や姿、形のあるものは、ことごとく無くなるのだよ。執着すれば苦しいだけ。
大切なのは、人として修行に励むこと、つまり「善」を求めて生きることが、結局「楽」なのだよ。と教えている。

仏跡は、何処に行っても、どうしてこんなにのどかでいつまでも居たくなるのだろう・・・。
お参りする人々の直向で素直な信仰心が辺りを幸福のエネルギーで満たしているからだろうか・・・・。




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| 09:59:14 | Trackback(0) | Comments(0)