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ナーランダ大学跡 Nalanda university Ruins


このブッダガヤの北東に位置する町、ナーランダという地は、ゴータマ・ブッダ が時おり訪れ、"Pavarika" と呼ばれるマンゴーの木立の下で説法していた。
弟子の智慧第一と言われるシャーリプトラ(舎利弗)、神通力第一のマウドゥガリヤーヤナ(目連、モッガラーナ)の幼馴染の二人は、このナーランダ出身だ。
釈尊より早く亡くなった舎利弗の墓もここにあった。大学遺跡の中心的存在のストゥーパがそれで、後に建造されるナーランダ大学もこの智慧第一の舎利弗の墓を中心に規模を整えていったようだ。

当時のナーランダ大学には、釈尊の入滅後900年経った4世紀頃、仏教を学ぶ重要な場所となり、10,000人までの学僧が滞在した。
世界最古の大学で、それまでの歴史で最大の居住型の学校、最多で1万人の学僧と、1,500人の教員がいた。
高い塀と、1つの門、図書館は9階建てだったという。多様な分野の教科の講義があったという。西洋に大学ができる800年も前のことだそうだ。

チベットに残された記録によると、大学が建造された時代と合わないと思うのだが、高僧で日本仏教の祖、龍樹(ナーガールジュナ)(150~250年頃に活躍した大乗仏教の祖)が講義を行ったとされるらしいが、これはたぶん、舎利弗のストゥーパが、そういった講義を受けるのにふさわしい場所だったのだろう。そういった雰囲気が大学の建造に結びついていったのだろう。

大学の元となった建物はグプタ朝(427年頃)時代に、クマーラグプタ1世によって建造され、645年(唐時代)には、唯識派のシーラバドラ(戒賢:古代インドの僧、唯識派)は、玄奘三蔵に唯識を伝え、玄奘は657部に及ぶ経典(般若心経等)を中国に持ち帰った。

761年に中観派のシャーンタラクシタ(寂護:ナーランダ大僧院に所属していたインドの大乗仏教・中観派の僧)がチベット仏教を起こし、774年にはニンマ派の開祖パドマサンバヴァ(蓮華生)がチベット仏教に密教をもたらしたとされる。

サムイェー寺(チベットに建立された最初の仏教僧院 792年~794年)の宗論によると、インド仏教のカマラシーラと中国仏教の摩訶衍が宗教論争を行い、チベット仏教の方向性を決定した。

1193年に、トルコイスラム人の侵略によって、このナーランダ大学は破壊された。
インド仏教の衰退はグプタ朝時代から始まっており、イスラム侵入以前にも、ほぼ衰退していたが、イスラム勢力によるナーランダー大学の破壊はインド仏教の滅亡を決定づけた。

私が現聖護院門跡の宮城泰年師とご一緒に訪れたのが、2004年だから、今から10年も前になる。
その時に比べても遺跡の数が増えていた。まだまだ発掘途中なのである。
来るたびに遺跡が広くなっている。
全て発掘が済むと、5km×10Kmぐらいはあるそうだが、周辺の住宅にまで広がるらしい。学僧で埋め尽くされた大きな町のようなキャンパスだったことがうかがわれる。

結局、時間が少なく、ここに居たのは1時間ぐらいだっただろうか・・・。
私の大好きな場所なので、もっともっと長く居たかった。

次回は、このナーランダや霊鷲山あたりに、ゆっくり滞在して時空を越えたひと時を過ごしたいと思う・・・。


| 11:32:28 | Trackback(0) | Comments(0)
ラージギル Rajgir


霊鷲山(りょうじゅせん)  Grdhrakuta

クシナガラからケサリアを経てガンジスを渡りパトナを通り過ぎると、大平原の一角が岩山で囲まれたラージギルがある。かつてのマガダ国の首都だ。

デモの通行止めに遭って遠回りを余儀なくされた我々一行は、到着予定時間をはるかに過ぎた午前4時過ぎ、「法華ホテル」にたどり着いた。
ベッドに体を横たえようものなら、いっきに眠りに落ちることは誰もが知っていた。
荷物を部屋に置き、各自参拝用の衣服に気替え、休息も朝食も摂らないままロビーに集まった。
5時半には、霊鷲山に向かってホテルを出発した。

2度目の参拝である。その時、6年前にも早朝の登山だったので、同じような時間帯だ。辺りは真っ暗で、東の空が明るくなりつつある状態だった。この登山参道ではやはりウキウキする。

インド第一の強国マガダ国の王、頻婆娑羅(ビンビサーラ)が、お釈迦さまに頻繁に会いたいが故に、寄進した道である。ビンビサーラロードと呼ぶ。

私は、仏絵師なので、過去に観経変相図(当麻曼陀羅)を思い出せないぐらいの数を描いている。
この曼陀羅の構成は、韋提希(いだいけ)夫人の懇願により釈尊が説かれたのが『観無量寿経』で、この釈尊の教えが図式化されている。

図の向かって左側には、韋提希夫人が、釈尊に救いを求め、西方阿弥陀浄土に導かれる様を描いた、「王舎城の悲劇」の物語が描かれているが、その舞台も、ここ王舎城なのだ。
そして、図の右側には十六観想のうちの十三観想、下には下品(げぼん)から上品(じょうぼん)までの九品が描かれる。
その向かって左側に描かれた韋提希夫人の物語の一番上段に、鷲の頭のような大きな岩山の窟の前で、説法する釈尊を描く。

34歳からそんな仏画を描かせて頂いているが、45歳ではじめて仏跡に呼ばれたような気がして、縁あって実際にスリランカに行った。そこから、私の仏跡に対する思いが募っていくことになるわけだ。

それまでは、曼陀羅の舞台は、私にとって、単に想像の風景でしかなかった。
過去に描かれたほとんどの仏画には、中国の建物や景色が描かれているわけだから、本来のインドの風景を感じるには、実際にインドに行くしかないのである。

ほんとうに、マガダ国があって、国王ビンビサーラの寄進した道路があったし、その岩山があった。弟子たちが瞑想した洞穴もあちこちにある。まさに2500年~2600年前の遺跡なのだ、日本のどの遺跡よりも古く、言うなら縄文時代の後期にあたる時代の遺跡だから、これは凄い。
ブッダの入滅後アショカ王が仏足跡を定めるために旅するのが、弥生時代の前期・・・と、やはり古い。

霊鷲山、耆闍崛山(ぎじやくせん)ともいう。その名の如く、そのままだった。上空には鷲が旋回し、大きな鷲が翼を休めているような岩がある。曼陀羅の図、そのままなのだ。

ここには2回目の参拝だが、やはり、厳かな気分になる。

一年ほど前に、肺癌の疑いで、肺の4分の1を切り取っている私にとって、またここに元気に来られたことと、訪れた今、間違いなく聖なる霊気に包まれている自分に、感謝の念がふつふつと沸いてくるのを感じさせてくれる・・・。

80歳になったブッダは、ここ霊鷲山から、生まれ故郷を目指して『最後の旅』に出発する。

この辺りの仏跡には、最初の仏教寺院である竹林精舍、名医ジーヴァカの寄進したマンゴー園という名の病院跡、王舎城の悲劇の舞台(母韋提希と父頻婆娑羅の息子阿闍世が父を幽閉した牢獄跡)、南門の城壁跡、それにブッダも湯に浸かったであろう現役の温泉(温泉精舍)もある。


| 11:27:30 | Trackback(0) | Comments(0)
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