■プロフィール
■最近の記事

■最近のコメント
■最近のトラックバック
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■ブロとも申請フォーム
■ブログ内検索

■RSSフィード
■リンク
サールナートSarnath


初転法輪の地サールナートは、バラナシの北方約10kmに位置する。
ブッダガヤで釈尊が悟りを開いた後、苦行当初のお仲間の五人の比丘に対して、初めて法を説いた地である。
ここから仏の教えが世界中に広がっていった。初転法輪の地。仏教の四大聖地(ルンビニ、ブッダガヤ、サールナート、クシナガラ)のひとつ。鹿が多くいたことから鹿野苑(ろくやおん)とも呼ぶ。

説法を決意した釈尊は、古来からの聖地であったガンジス河が南から北へ流れる場所、バラナシに向かう。
ブッダガヤからバラナシまでは直線距離にして約200Kmほど。街道を歩けば300Km近くあろうか。釈尊は、この長い道のりを八日かかって歩いて向かわれたというのだが・・・。そうとうな速足で歩かれたのだろう。一日8時間歩いたとして、一時間で4.7Kmは歩かないと到着しない。しかも、休憩無しでだ・・・。12月だと思うので、気候はベスト。苦行を経験された釈尊なので、この旅など何でもなかたのかもしれないが・・・。

なぜ、そんな遠くのバラナシへ向かったのかというと、そのバラナシ郊外にあるサールナートというところに、苦行時代の五人のお仲間が居たからだそうで、苦行を共にし、また、釈尊が苦行では何も得られないと山を降りようと決めた時、その判断をとがめたた五人のかつてのお仲間に法を説こうと思われたのだそうだ。
悟りを開いた覚者の想いにしては、けっこう、普通の人ぽい発想と感じるのは私だけだろうか・・・。

現在のサールナートはインド政府によって整理され遺跡公園になっている。またこの周辺からは「サールナート仏」と呼ばれる仏像が多数出土し、最高傑作とも評される「初転法輪像」やインド国家の国章であるアショカピラーに乗る四頭のライオン像がサールナート考古博物館に収蔵されている。

サールナート参拝は、まずは、その手前1㎞くらいにある迎仏塔・チャウウカンディーストゥーパChaukhandi Stupaから始まる。
ブッダガヤの菩提樹下で悟りを開いた釈尊がサールナートに着いたとき、かつての仲間だった五人の修行僧が釈尊を歓迎したところというわけだ。このストゥーパーの特徴である頂上の八角形の建物は後世(といっても最近)に作られた見晴らし台ということでまったく遺跡とは別物だそうで実にややこしい・・・。日本人なら考えられないことが行われているのだ。
ナーランダ大学跡のところで書き忘れたが、あの中心的な建造物の舎利弗のストゥーパー付近の大小のストゥーパーも発掘中にいろいろ移動させて作っているそうだから、当時の形や場所とは少し違うと思って正解なのだそうだ。

「常識」という言葉の意味を、やたらむなしく感じさせてくれるのがインドなのだ。

遺跡公園となったサールナートは、ナーランダ大学跡のように広大で静かで緑豊かなところ。やはり世界中からお参りに来る仏教徒で賑わっているが、広大な遺跡公園なので混雑と言うほどではない。

やはり、あちこちから読経が聞こえてくる。

この遺跡公園内では、売り子のお兄さんが、ひそひそ声で近寄って来る。
この遺跡から出たという小さな仏像を隠し持っている。いや、そのように振舞う。なかなかのものだ。おもむろに、そっと見せ1万円だという。あきらかに偽物だ。
こういったお兄さんと楽しい会話を楽しみながら広大な遺跡を巡る。
参拝も二度目となると、慣れるもので、わずらわしいというよりこの状況を楽しめるようになるのだ。

どうしても、公園内にある中心的な存在の巨大な建造物(ダーメーク塔 Dhamekh Stupa)が目立つのだが、由来は諸説有るが何なのか分からないらしい。周囲28m、高さ43mとでかい。
以後の仏教寺院の荘厳の元となった素晴らしい彫刻(レリーフ)が数多く施され、仏教美術を生業にする私としては、実に興味深い。
かつては、窓らしき穴に仏像があったらしい。

最初の説法はここで・・・という場所は、実は、ダメーク塔ではなくて、ダルマラージカストゥーパ跡 Dharmarajika Stupaなのだが、18世紀にバナラシ藩王によって壊され、レンガを何かの建築に使ってしまったそうである・・・・。

「えぇー!」 である。

このサールナートに隣接して、釈尊が雨季に滞在して説法をした所に建つ、スリランカの寺、ムルガンダ・クティ精舎があるのだが、別名を根本香積寺とも呼ばれ、1931年に建造された。日本仏教会より寄贈された、梵鐘もある。
中には金色の御本尊(サールナート出土の転法輪印仏のレプリカ)と、日本画家、野生司香雪(のうすこうせつ1885-1973 )の筆によるブッダの生涯を描いた壁画がある。まだ剥落もせずしっかりと基底物(壁の素材)に接着している。
 ここには、スリランカ僧が常時居て、お参りした我々の手首に黄色く染められた絹の糸を結んでくれる。10年前に来た時にも結んで貰ったがその時は2ヶ月くらいで外れた。 
自然に取れるまでそのままにしておくと良いらしいが、何が良いのかわからない・・・。
たぶん、「お釈迦様とご縁を結んだ証だよ」といったことなのかもしれない。
実はこの記事を書いている今も、左手首にはその糸がしっかりと付いたままになっている。無意識にこの黄色い絹糸を保護している自分が居るのだ。帰国してすでに2ヶ月半が過ぎた。今回は3ヶ月は長持ちしそうだ。

この後、サールナート博物館で、転法輪印のブッダや、インド国家の国章となったアショカピラーの4頭のライオン像を見学した。カメラ持ち込み厳禁なので、画像はない。

お決まりの「さち子の店」という名の土産物店で工芸品や絹の染織裂を買い求め、新しく?できたワーラーナシー空港 (Varanasi Babatpur Airport) よりバンコク経由で関空まで帰って来た。

仏跡を辿る旅のビデオ記録と覚え書きブログも、これで一応完成!




| 11:15:39 | Trackback(0) | Comments(0)
ワーラーナシー(ベナレス・バラナシ) Varanasi Ghat

Varanasi は、ヴァーラーナシー、ヴァーラーナスィー、バラナシとも発音する。
かつてはイギリスの植民地時代に制定された英語表記のBenaresの誤読により「ベナレス」と呼んでいた。この呼び方が一般的だったが、最近では「バラナシ」が一般的な呼称となっているようだ。
ガイドのマルカス氏が、ワーラーナシーという街の呼称は、「ヴァルナーとアッスィーに挟まれた街」ということから由来すると言っていた。

二度目のガンガーだ。 前に来た時と何も変わらない。 
まだ暗いバラナシの街は、インド全土から集まってきた熱心なヒンドゥー教徒に混じって、そんな祈りの光景を見てみようと、世界中から物見遊山で集まって来た我々のような旅行客やバックパッカーのガート(河岸にある階段。河に出入りできる場所)に向かう姿でごった返す。
ガートでは、早朝にも関わらず、辺りは、祈りのための鐘や太鼓があちこちで打ち鳴らされ、船のエンジン音等騒音と交じり合ったバラナシ独特の音が、そこに居る人々の内臓にまで響き渡る。

彼らの祈る姿と共に、暖色の電球で照らされた薄暗い石造りの建物が朝日に照らされ、濃紺の空をバックに徐々に立体的に浮き上がっていく。

もっともインドらしい、『ど迫力の光景』が現れる。

船から見るガートには、聖なるガンガーの流れに身体を清め朝日に向かって真剣に祈る人々でいっぱいになる。
朝日がスポットライトとなり、凝った舞台背景のお芝居を観ていいる様な気分になる。

岸から少し離れると、騒音も小さくなる。
世界中から見物に来た人達の乗った船が、ビデオカメラのファインダーの中を通り過ぎる。

対岸の東方向の中州から上る朝日が何とも厳かでありがたく感じる。

毎日同じ太陽にお目にかかってるのだが、ここの太陽はやはり違う。
マルカス氏は、シャッターを押す人達に、今日の太陽は、旨く撮れば、日本で数十万円で売れるかもと言う。そう言わせるくらい値打ちのある朝日、光景なのだ。

釈尊が、五人の比丘に対して最初に説法された初転法輪の地、サールナートはここから北西に10キロほどのごく近いところに位置する。
ので、仏跡を訪ねる旅では必ずこのバラナシが組み込まれるのだ。

ここを早朝に観光すると、後は、そのサールナート(鹿野苑)周辺をお参りした後、その足で帰国の途につくことになる。


| 12:05:42 | Trackback(0) | Comments(0)
スジャータ村 Sujata Village 


前の記事で書いたように、仏画『出山釈迦図』でお馴染みのお話である。
6年に渡り生死の境をさ迷うような激しい苦行を続けたが、苦行のみでは悟りを得ることが出来ないと判断(仏教の根本思想である中道を意味する)し、山(前正覚山)を降りる。
そのやつれた身体を癒し清めるため、やっとの思いで辿り着いた付近の尼連禅河(ネーランジャラー河)で沐浴をした。

付近のセーナ村に住む娘スジャータは、やつれ果てた姿の釈尊に遭遇して供養した。釈尊は、スジャータから供養された乳がゆを食して、体力を回復した。

(※スリランカに伝来の最後の旅が書かれた『スッタニパータ』では、スジャータはこの乳がゆに、諸天妙汁を加えていたと記しているそうだが、これが何なのか分からない。)

空腹に乳がゆの補給で、心身ともに回復した釈尊は心を落ち着かせて、乾季で水がほとんど無くなった尼連禅河を渡り、対岸(ブッダガヤ)まで歩いた。

余談だが、12月というこの時期、ネーランジャラー河には水は一滴も無い。まるで、砂漠のような川床が続いている。(我々一行は、この状態の川床に降り、砂を採集した)
当時はどうだったのか分からないが、乾季に入ったばかりなので、まだ沐浴できるほどの水が流れていたのだろうか・・・、少々疑問が残るのだが・・・。もし、流れがあったのなら、対岸のブッダガヤの森までどうやって行ったのだろう・・・。

現ブッダガヤの森の中にある大きな菩提樹の下(現大菩提寺)の岩(金剛宝座)の上に、通りがかった村人に干し草を貰って敷きつめ、その上に結跏趺坐(あぐら)し、瞑想に入った。
あらゆる誘惑(降魔)に打ち勝ち、釈尊35歳、旧暦12月8日の明け方(東アジアの伝承)、遂に成道し、仏陀となった。

悟りを開いた釈尊は、この素晴らしい悟り・真理が、他の人に理解してもらえるかどうか、その真理を他人に説くべきか否かを悩んでいた。
しかし、そこに、梵天が現れ、すみやかに衆生に説法するよう勧めた。そこで、釈尊は自らの悟りの内容をいかに説き、どう表現説明すればいいのかを求め、また七週間の冥想に入った。

一般的に、釈尊がスジャータから乳がゆの供養を得て悟りを得た後に、鹿野苑で最初に説法して弟子となったのは、五比丘であり、優婆夷(うばい)ができたのも、その後と考えられるが、スジャータが最初の優婆夷とする仏典もあるそうだが、スジャータは、後に仏陀に帰依するが、当初は、悟りを得た仏陀の帰依者ではなく、悟りを開く手助け、きっかけになった女性として、後に聖人として祀られ、ストゥーパーが存在しているのだと思う。

※(仏教徒の中で、在家の女性信者を優婆夷という。男性は優婆塞(うばそく)という。

遺跡は、いかにもスジャータの『村』といった感じで、当時は「セーナ村」といったそうだ。ここは、今も日本の昭和初期の田舎を彷彿とさせる。ここも大好きな遺跡、ストゥーパだ。
10年前に来た時は、まだ発掘中で、半分だけレンガの遺跡が掘り出されていた。インドの発掘は、発掘しながら修理をするということで、「いきなり修復とは・・、だいじょうぶかいな・・・。」と思わずつぶやいた記憶がある。
しかし、今回も印象は変わらなかったが、遺跡は全容を現し、きれいに修復もされていた。遺跡の塀の中は、脱穀機に繋がれた耕運機のエンジンの音も小さくなり、時間が止まったようなのどかな光景が現れる。
ほんの一時だったが、静かなスジャータ村を堪能させてくれた。
遺跡の周囲の農家の佇まいも私の幼い頃の田舎を思い起こさせてくれた。

豊かな大地はここに住む貧しい人々をやさしく包み込んでいる。

勝手知ったる遺跡に、ビデオカメラを持って一人で走り入り、観光客の居ないストゥーパ周辺を撮った。ビデオカメラを回していると、豊かに青々とした野菜のなる畑の近くに、決して裕福とはいえない身なりの少女が映りこんだ。
遺跡に訪れた参拝客に有刺鉄線越しに物乞いする農家の人達も私に向かって、口元に手をやり「食べ物」という身振りをし、「何か食い物をくれ」とばかりに手を差し出し、その動作を繰り返す。
この人たちは、不可触民ではなく、お百姓さんだと思われる。

物を持っていない人が、物を持っている人に手を差し出し、物をねだるのは当たり前のことと聞いたことがあるが、たぶん、彼女たちからすれば、我々が外国から来た裕福な観光客に映っているのだろう。
こつこつ旅費を溜めてやっと10年ぶりに来たとは思って貰えない。

その少女は、若いお母さんの元に駆け寄り、我々一行のことを告げたのであろう。畑のあぜ道を、物見遊山なのか、二人でこちらに近寄ってくる。
逆光でその姿を捉えると、まるで、スジャータが映りこんだような錯覚を覚える。
良い絵が撮れたと思う。その部分をスロー再生にして編集した。

動画をご覧頂いた皆さんも、スジャータに会えたのでは・・・。


| 17:36:48 | Trackback(0) | Comments(0)
ブッダガヤ Bodh Gaya


10年ぶりに訪れたブッダガヤの町は、ものすごい活気と信仰のエネルギーに満ち溢れていた。
インド人ガイドのマルカス氏も、ここは、一番、様変わりしました。言葉は通じません。ここはインドではなくなりました・・・。と興奮して言う。

なるほど、町を歩く人達はほとんどが外国の人達、一番多いのはチベット僧、チベット人、タイ人、台湾人、香港人、それに白人や世界中から集まったバックパッカーも多く見かける。
夜でも、10時を過ぎてもチベット人の開く店には客が居る。 
10年前にも、ややその傾向があったが、ものすごい仏教のパワーを感じる町となった。

10年前にも泊まったスジャータホテルのすぐ横の空き地は相変わらずゴミだらけで汚いが、その周辺の様子は、まったく変わっていた。
聖地ブッダガヤに限らないが、ここは特に人が多くなったせいか、汚れていた。
牛の糞や皮膚病の犬たちの存在は仕方が無いにせよ、特に捨てられたビニール、発泡スチロール、プラスチック製の袋や容器が、土に戻らず町のあちこちに散らかっていた。
インド全土がこの傾向にあって、貧しくても美しい町並みや自然を汚している。どうにかならないものだろうか・・・。いったん遺跡の中に入ると、ゴミひとつ無くきれいに掃除が行き届いているわけだから、インド人の美意識に問題があるようには思えない。
まだ、職業差別のカーストが残っていると聞くが、清掃職の仕事を犯すまいとしているのだろうか・・・。
お掃除隊ツアーでも組んで、ブッダガヤの町だけでも一気に清浄にしたいものだが・・・・。世界遺産のある町、仏教徒の聖地なのに・・・。 話がそれた。元に戻そう。

しかし・・・、仏教のパワーを感じるといってもそれは、チベット仏教で、いたるところに臙脂色の僧衣を着た年配の僧(ラマ)や若い僧、それに子供の僧が忙しそうに往来する。
タルチョといわれる経文を印刷した旗が、仏跡のいたるところで風にたなびき、そのチベット仏教的雰囲気を荘厳している。
チベット仏教は、ポン教に仏教が融合し、ラマ教という俗称があるが、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れたため、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が伝わっているので、チベット僧の行きかうブッダガヤに居ると、ナーランダ大学が隆盛だった頃の様子を感じることができるのだ。

そんなことで、釈尊が悟りを開いた町、ブッダガヤの町は、国際的な仏教の聖地として強力に変貌していた。

大塔のある大菩提寺は、昨年のテロの為か、二重のボディチェックを受け、靴を脱いで参拝しなければならい。

菩提樹の辺りには、各仏教国の特徴ある読経があちこちから聞こえ、それは交じり合って濃厚な祈りの渦となって大塔を包み込んでいる。

そこに居る誰もが、自身の本体がその祈りの渦の中に引き込まれていくのを感じているはずだ。

大菩提寺は、世界中の仏教徒の熱気で溢れている。
たまたま、その日と時間に釈尊の面影の元に集まった確固たる縁者なのだ。同じ心の人達、和合衆でごったがえしているのだ。

そのブッダガヤの町に、1973年に落慶した印度山・日本寺で、世界平和を祈る法要を執り行った。 テーラワーダ(上座・原始仏教)の僧とチベット仏教(大乗仏教)の僧を客僧に迎えた。

仏画でいうなら、私の好きな画題で、『出山釈迦図』にその様子が描かれているのだが、この釈尊が瀕死の苦行では何も得られないと悟り(仏教の根本思想:『中道』)山から降りて、ボロボロになった身を清めなおした、尼連禅河(ネーランジャラー河)では、遠くに見えるその苦行をされた山、前正覚山を拝みながら、砂を採取した。

法要を終えた時、日本寺に出張中の日本の若い僧にお聞きしたのだが、何でも、この砂、亡くなった人の額にちょっと乗せてあげると、釈尊の功徳がいただけるとか・・・。

我々仏教徒にとってはガンジス川の砂より、この『尼連禅河の砂』が何よりも『ありがたい砂』ということのようだった。

半ば挫折に近い状態の釈尊は、この尼連禅河で身を清めて、セーナ村のスジャータという娘に乳粥を貰い、元気を取り戻して、ブッダガヤの聖なる樹、菩提樹の下に再度座り直されるのだ。
次は、その乳粥を差し出した娘、聖人となったスジャータのストゥーパを参拝する。

| 09:01:54 | Trackback(0) | Comments(0)
杉本哲郎画伯の言葉
杉本哲郎画稿


人の住むところに宗教があり、宗教のあるところに芸術がある。
宗教が芸術の力を借りて立体化され荘厳され、芸術はまた宗教的情操によって深められる。
宗教から芸術を引いたら何が残るのか。
それなのに今は完全に袂を分かってしまって、宗教はその魅力を失い、芸術もまた空疎化して感覚だけを追っている。
二つの復縁がならなければ、共に衰亡の道を歩むだろう。


この言葉は、私と同じ滋賀県に生まれ、また同郷の山元春挙に学び、後には中央画壇と袂を分けた宗教画家 杉本哲郎が、 昭和36年、62歳の時に発した言葉である。

今、私も63歳。 まったく同感なので、この偉大な画家の存在をご紹介し、この言葉を記して、継承させていただくことにした。

----------------------------------------------------------------------
■杉本哲郎 Sugimoto Tetsurou

1899-1985 大正-昭和時代の日本画家。
明治32年5月25日生まれ。山元春挙に師事。昭和12年インドでアジャンタ壁画を模写,その後も東南アジアの仏教美術を調査する。
55年「世界十大宗教壁画」を完成した。昭和60年3月20日死去。85歳。滋賀県栗東市出身。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。本名は哲二郎。
既成画壇とは離れ独自の宗教画世界を築く。印度国立中央大学教授。京都市文化功労者。
----------------------------------------------------------------------



仏画 | 08:06:24 | Trackback(1) | Comments(0)
ナーランダ大学跡 Nalanda university Ruins


このブッダガヤの北東に位置する町、ナーランダという地は、ゴータマ・ブッダ が時おり訪れ、"Pavarika" と呼ばれるマンゴーの木立の下で説法していた。
弟子の智慧第一と言われるシャーリプトラ(舎利弗)、神通力第一のマウドゥガリヤーヤナ(目連、モッガラーナ)の幼馴染の二人は、このナーランダ出身だ。
釈尊より早く亡くなった舎利弗の墓もここにあった。大学遺跡の中心的存在のストゥーパがそれで、後に建造されるナーランダ大学もこの智慧第一の舎利弗の墓を中心に規模を整えていったようだ。

当時のナーランダ大学には、釈尊の入滅後900年経った4世紀頃、仏教を学ぶ重要な場所となり、10,000人までの学僧が滞在した。
世界最古の大学で、それまでの歴史で最大の居住型の学校、最多で1万人の学僧と、1,500人の教員がいた。
高い塀と、1つの門、図書館は9階建てだったという。多様な分野の教科の講義があったという。西洋に大学ができる800年も前のことだそうだ。

チベットに残された記録によると、大学が建造された時代と合わないと思うのだが、高僧で日本仏教の祖、龍樹(ナーガールジュナ)(150~250年頃に活躍した大乗仏教の祖)が講義を行ったとされるらしいが、これはたぶん、舎利弗のストゥーパが、そういった講義を受けるのにふさわしい場所だったのだろう。そういった雰囲気が大学の建造に結びついていったのだろう。

大学の元となった建物はグプタ朝(427年頃)時代に、クマーラグプタ1世によって建造され、645年(唐時代)には、唯識派のシーラバドラ(戒賢:古代インドの僧、唯識派)は、玄奘三蔵に唯識を伝え、玄奘は657部に及ぶ経典(般若心経等)を中国に持ち帰った。

761年に中観派のシャーンタラクシタ(寂護:ナーランダ大僧院に所属していたインドの大乗仏教・中観派の僧)がチベット仏教を起こし、774年にはニンマ派の開祖パドマサンバヴァ(蓮華生)がチベット仏教に密教をもたらしたとされる。

サムイェー寺(チベットに建立された最初の仏教僧院 792年~794年)の宗論によると、インド仏教のカマラシーラと中国仏教の摩訶衍が宗教論争を行い、チベット仏教の方向性を決定した。

1193年に、トルコイスラム人の侵略によって、このナーランダ大学は破壊された。
インド仏教の衰退はグプタ朝時代から始まっており、イスラム侵入以前にも、ほぼ衰退していたが、イスラム勢力によるナーランダー大学の破壊はインド仏教の滅亡を決定づけた。

私が現聖護院門跡の宮城泰年師とご一緒に訪れたのが、2004年だから、今から10年も前になる。
その時に比べても遺跡の数が増えていた。まだまだ発掘途中なのである。
来るたびに遺跡が広くなっている。
全て発掘が済むと、5km×10Kmぐらいはあるそうだが、周辺の住宅にまで広がるらしい。学僧で埋め尽くされた大きな町のようなキャンパスだったことがうかがわれる。

結局、時間が少なく、ここに居たのは1時間ぐらいだっただろうか・・・。
私の大好きな場所なので、もっともっと長く居たかった。

次回は、このナーランダや霊鷲山あたりに、ゆっくり滞在して時空を越えたひと時を過ごしたいと思う・・・。


| 11:32:28 | Trackback(0) | Comments(0)
ラージギル Rajgir


霊鷲山(りょうじゅせん)  Grdhrakuta

クシナガラからケサリアを経てガンジスを渡りパトナを通り過ぎると、大平原の一角が岩山で囲まれたラージギルがある。かつてのマガダ国の首都だ。

デモの通行止めに遭って遠回りを余儀なくされた我々一行は、到着予定時間をはるかに過ぎた午前4時過ぎ、「法華ホテル」にたどり着いた。
ベッドに体を横たえようものなら、いっきに眠りに落ちることは誰もが知っていた。
荷物を部屋に置き、各自参拝用の衣服に気替え、休息も朝食も摂らないままロビーに集まった。
5時半には、霊鷲山に向かってホテルを出発した。

2度目の参拝である。その時、6年前にも早朝の登山だったので、同じような時間帯だ。辺りは真っ暗で、東の空が明るくなりつつある状態だった。この登山参道ではやはりウキウキする。

インド第一の強国マガダ国の王、頻婆娑羅(ビンビサーラ)が、お釈迦さまに頻繁に会いたいが故に、寄進した道である。ビンビサーラロードと呼ぶ。

私は、仏絵師なので、過去に観経変相図(当麻曼陀羅)を思い出せないぐらいの数を描いている。
この曼陀羅の構成は、韋提希(いだいけ)夫人の懇願により釈尊が説かれたのが『観無量寿経』で、この釈尊の教えが図式化されている。

図の向かって左側には、韋提希夫人が、釈尊に救いを求め、西方阿弥陀浄土に導かれる様を描いた、「王舎城の悲劇」の物語が描かれているが、その舞台も、ここ王舎城なのだ。
そして、図の右側には十六観想のうちの十三観想、下には下品(げぼん)から上品(じょうぼん)までの九品が描かれる。
その向かって左側に描かれた韋提希夫人の物語の一番上段に、鷲の頭のような大きな岩山の窟の前で、説法する釈尊を描く。

34歳からそんな仏画を描かせて頂いているが、45歳ではじめて仏跡に呼ばれたような気がして、縁あって実際にスリランカに行った。そこから、私の仏跡に対する思いが募っていくことになるわけだ。

それまでは、曼陀羅の舞台は、私にとって、単に想像の風景でしかなかった。
過去に描かれたほとんどの仏画には、中国の建物や景色が描かれているわけだから、本来のインドの風景を感じるには、実際にインドに行くしかないのである。

ほんとうに、マガダ国があって、国王ビンビサーラの寄進した道路があったし、その岩山があった。弟子たちが瞑想した洞穴もあちこちにある。まさに2500年~2600年前の遺跡なのだ、日本のどの遺跡よりも古く、言うなら縄文時代の後期にあたる時代の遺跡だから、これは凄い。
ブッダの入滅後アショカ王が仏足跡を定めるために旅するのが、弥生時代の前期・・・と、やはり古い。

霊鷲山、耆闍崛山(ぎじやくせん)ともいう。その名の如く、そのままだった。上空には鷲が旋回し、大きな鷲が翼を休めているような岩がある。曼陀羅の図、そのままなのだ。

ここには2回目の参拝だが、やはり、厳かな気分になる。

一年ほど前に、肺癌の疑いで、肺の4分の1を切り取っている私にとって、またここに元気に来られたことと、訪れた今、間違いなく聖なる霊気に包まれている自分に、感謝の念がふつふつと沸いてくるのを感じさせてくれる・・・。

80歳になったブッダは、ここ霊鷲山から、生まれ故郷を目指して『最後の旅』に出発する。

この辺りの仏跡には、最初の仏教寺院である竹林精舍、名医ジーヴァカの寄進したマンゴー園という名の病院跡、王舎城の悲劇の舞台(母韋提希と父頻婆娑羅の息子阿闍世が父を幽閉した牢獄跡)、南門の城壁跡、それにブッダも湯に浸かったであろう現役の温泉(温泉精舍)もある。


| 11:27:30 | Trackback(0) | Comments(0)

FC2Ad