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集団的自衛権の憲法解釈
私が、インド仏跡旅行で撮ってきたビデオを観ながら旅の思い出に浸り、その編集に時間を割いている間に、たくさんの事件というか、マスコミを賑わす話題があった。
いろいろ書きたいことがあったが、私にとっては、一番大切な位置を占める人間釈尊の生き様を感じ取ることに無我夢中になっていて、すべて後回しになっていた。
小保方博士のネイチャー誌論文に対する疑惑と科学者集団の倫理問題、佐村河内という似非作曲家らしい人物の倫理問題。韓国のフェリー沈没に韓国救助体制の貧弱さの露呈とそれに対する朴大統領の謝罪の様子報道の違和感等々気になっていることがある・・・。

それと、何をおいても、米国オバマ政権の軍事覇権力の低下や中国の強引過ぎる台頭、北朝鮮の核ミサイル戦力の増強によって東アジアをはじめとする国際情勢が不安定化している今、それ等に派生して戦後の防衛体制の見直しが急がれる中、それに伴う安倍政権の急ぐ集団的自衛権の憲法解釈に対して平和を願う国民の反対意見等々・・・。

今も工房のラジオが、安倍政権が解釈を急いでいる様子を伝えているので、そのことについて、まずは考えてみようと思う。

そもそも、自国が攻撃を受けた場合にのみ武力行使を認める個別的自衛権に対して、集団的自衛権があるのだが、この集団的自衛権・・・良く分からないが・・・調べてみると、これは、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国(日本)が直接攻撃されていないにもかかわらず、武力等をもって阻止する権利」と定義される。

これは日本が戦後一貫して守ってきた(守らされてきた・・・)専守防衛の考え方とは根本的に異なるわけで、先に書いたように自己防衛の枠を出るに等しいことになる。

日本国が攻撃を受けた場合にのみ最小限度の武力の使用を認める専守防衛は、日本国憲法第9条によって武力行使が基本的に禁じられている中での、最低限の自衛権と解釈されてきた。

では、「日本国と密接で親しい関係にある米国を筆頭とする外国に対する武力攻撃を、日本国が直接攻撃されていないにもかかわらず、軍事力をもって阻止する権利」は、あって良いものだろうか・・・。

憲法解釈の前にその意味とその国益をよく考えてみたい。

私の直感的で恐縮だが意見はこうだ。

何でも権利は、ないよりあった方が良いに決まっている。
その権利を行使するかどうかは、その都度、時の政府がよく考慮し、議論して決定すれば良い。 論じるべきはその権利を使うか使わないかで、国民の倫理観や道徳観で決めれば良い。今の日本人なら正しい判断が出来るはずだ。
意味無く権利を放棄しておくと、それにつけこんで来る無慈悲で理不尽な「ならずもの国家」が今も直、居るのだから・・・。

権利を放棄する理由など、まったく無い。

日本国は、その権利を行使するか否か判断の元となる倫理、道徳教育、そしてその奥にある正しい(平和的な)宗教教育も同時に進めれば良いのだ。

今回のロシア政府による強引なクリミア併合、中国政府によるベトナムが排他的経済水域と大陸棚だと主張するパラセル(西沙)諸島の強引な石油掘削等、両国が何故、常任理事国で居られるのか、世界中が疑問を抱いていることからして、世界中が国連安全保障理事会にその無意味さとむなしさと腹立たしさを感じている。
もはや、この国際連合安全保障理事会は悪の枢軸ともなり得るようになりつつある。

つまり、素人ながらこう考える。

今の国際連合などと、名称だけは世界の価値観を共有する連合といったようで、もっともらしいのだが、米国オバマ政権の軍事覇権力の平和的な動きとしての消極性を感じとるや否や、他の安全保障常任理事国個々のエゴを行使するだけの、ただの戦勝国の利権集団に陥ったことは、この度のロシアや中国の動きで明白となった。

こういった常任理事国の拒否権行使により、安全保障理事会は国際社会の平和の維持や回復のためには、まったく機能していない。存在の意味どころか世界平和実現の足かせとなっている。

阿部首相のゆるぎない自信ありそうな姿勢を見ていると、集団的自衛といった本来の連合軍的な連帯推進姿勢に、もはや、別の連合国としての世界的標準価値である『民主主義』の国々でまとまるような新しい連合国を構築しようとしているのではないか・・・とさえ見える。

そうでも思わないと、この首相の想いが分からない。

そう、この強引なまでの集団的自衛権憲法解釈の裏には、こういった密かな準備が進んでいるのではないか?

私が総理の立場なら、新しい連合国の構築に密かに汗を流すだろう・・・、表立って世界発信できないが、自由と民主主義を世界共通の平和的価値基準とするには、今のままの国際連合の形態では世界平和など成り立たないし、存在そのものが平和への足かせになってることに気付くべきではないだろうか。

平和とは、いったいどういった状態をいうのだろうか?
平和を維持するということはどういうことなのか? はたまた、維持とはどういった状態をいうのだろうか?
次回は、武力に否定的な人がよく使う『平和』について、ちょっと考えてみたい。


ご意見 | 08:38:42 | Trackback(0) | Comments(0)
自灯明 法灯明


自灯明 法灯明 という信心の根本的な姿勢を示す重要な仏の教えがある。

「自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きなさい。」
「師(釈尊)亡き後、自分は、何にすがって何を頼りに生きていけば良いのですか?」仏陀80歳、最後の旅の途中、釈尊が自身の死を予言した時、当時20歳ぐらいだった侍者、阿難(あなん・アーナンダ)の問いに応えられた釈尊のお言葉である。

ブッダ最後の旅の様子が書かれているマハ-パリニッバーナ・スッタンタ(偉大で完全なる長い涅槃の経典=大般涅槃経)という経典に書かれているのだそうだ。日本では、これを、自灯明 法灯明 と訳される。

当時のインドで一番栄えていたマガダ国の首都、王舎城の霊鷲山(ラージギル)から、涅槃の地クシナガラまでの最後の旅の様子と、その旅の間に釈尊が説いた話が実にリアルで人間味溢れる道中物語となっているのだそうだ。

もちろん、私は言語で読めるわけがないので、中村元博士の訳された「ブッダ最後の旅(大パリニッパーナ経)」を読むしかない。
ので、「そのようだ」という言い回しになってしまうので、お許し願いたい。

今回の「インドお釈迦さまの足跡を辿る旅」は、この「最後の旅」を辿る旅でもあったわけだから、釈尊のその時代を想い描いて、釈尊の教えの集大成というか結論のようなものを感じ取りたいと思った。

インドの原始仏典に書かれたパーリ言語で発音する「ディーパ」は、「島」とか「州」という意味があり、南アジアでは、島と訳して理解されているそうだ。
つまり、パーリ語の直訳では、「自身を島とし、その島を頼って生きなさい。」とこうなる。
日本語で表現されるところの「灯明」なる語は、花園大学教授の佐々木閑氏曰く、良く似た発音の「ドゥビーパ」の意味らしいが、どちらも同じ意味で捉えることができるので、どちらでも良いと思う。
故中村元博士著の「ブッダ最後の旅」では「島」と訳されている。後に中村博士がテレビ出演された時には、日本人にはすんなり理解でき、心に入って来る「灯明」の訳で良いと思うと言っておられた。

今回の仏跡を辿る旅を終え、ビデオや記事でまとめる為に改めて仏陀の足跡を振り返る時、何でこんなにも清々しい気分になれるのか、雨の連休の一日(5月5日)を、一人、工房に来て、中村元著「ブッダ最後の旅(大パリニッパーナ・大般涅槃経)」に書かれている内容と照らし合わせながらもう一度自分なりに振りかえってみたいと思ったわけである・・・。

この時、釈尊は、「私や他者に頼ってはならない。自己とダルマ(理法)を拠りどころとせよ。」と、仏教において最も重要な教えを説いたとされているのだが、やはりこれは常時、釈尊の傍に居た阿難に言われた言葉ではなかったのだろうか・・・。
「自分しか頼るな、他者に頼ってはならぬ」という単純な解釈で良いのだろうか?もし、この言葉が、我々凡夫に対しての教えだとしたら、この部分が今ひとつ私には理解できない。

やはり、この単純解釈には誤解が伴うのではないだろうか・・・。「自分」とはどの時点での自分なのか・・・。

阿難は、仏陀の下で、数多くの理法を学び、精神修行を行っている求道者である。
あくまでも、その阿難に言われた言葉であることを忘れてはならない。と、私は思う。

「他の価値観や理屈に惑わされずに、私が説いた理法を頼りなさい。」をそのまま確信も無く鵜呑みにする人こそ、あやふやで危険な存在ではないだろうか・・・。

自称、仏教徒といえども、我々、凡夫に発しられた言葉ではないと思うのだが・・・・、仏教ではこの教えを根本思想として説いている。

修行僧の為の仏教(上座仏教)であった時代の弟子に対する説法であり、いわゆる一般的な理法、真理ではないと思うのは私だけではないはずだ。

釈尊の説いた真理は、異教徒にさえ理解できる真理なので、異教徒にいきなり自身を灯明とせよと説くには無理がある。
あくまでも、その自身とは、本気で仏教を学ぼうとする志をもった自分でないといけないのだ。

自灯明、法灯明とは、仏教を学ぼうと仏に対して心を開いた人に限定した「迷うな」という釈尊の意思を示した「自灯明」と、ゆるぎない真理、理法を頼りに生きなさいという「法灯明」のことだと思う。

と、いうことで、ビデオの編集もぐだぐだ考えるきっかけになったので、けっこう有意義な時間だったことになる。

明日の夜、センチュリーホテルで、私の撮影・編集した旅の記録ビデオを参加者全員で観ようということになっている。
旅から帰って、約一ヶ月間、仕事もそこそこに仏跡旅行のビデオの編集をしていた。
Windows7に付属しているムービーメーカや、XP時代のフォトストーリー3をWin7に強引にコピーし、その無料の編集ソフトを駆使して経費0円で作った。

仏教クラブのホームページには、この記録のビデオが約3時間分ほど会員限定公開でアップしてある。クラブ会員なら会員専用ページで観ることができるようにしてある。

私のホームページでは、「Visit the footprint of Buddha」と題して、1時間に編集してアップしてある。

上の動画がそれである。ブッダに興味をもたれた方は、ぜひ、時間をとってブッダ最後の旅をイメージしながらブッダの足跡をじっくり感じていただきたい。せっかく作ったのだから・・・。



| 09:15:03 | Trackback(0) | Comments(0)

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