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トランセンデンス を観てきた


ウォーリー・フィスター監督、ジャック・パグレン脚本による2014年のイギリス・中国・アメリカ合衆国のSF映画である。
昨日、兼ねてより楽しみにしていた映画『トランセンデンス』を、京都駅の近くにあるTジョイ京都に朝一番(9:10上映開始)に観に行った。※中国は出資しているが、映画のその内容には、その匂いはない。

Tジョイはイオンモールビルの5階にある。
以前来た時のように、ビルの外にある長いエスカレーターで上がれば良いと思い込んで行った。しかし、イオンモール自体がまだ開店前。シーンと静まりかえっている。

もちろんその当てにしていたエスカレータも止まったまま・・・。

9時10分からの上映と言うことで、8時45分には到着したのだが、さて、どこから5階まで登るのだろうと、当たりを見回してもそれらしき入口は閉まっている。

しばらく立ちすくんでいると、何人かの人達が足早にビルの際を足早に歩いていく姿が見えた。
着いて行った。
すると、映画を早朝に観る人用のエレベーターが動いていた。さすがである。
めったに街中には出歩かない私は、初めて見る物経験するもの、何にでも妙に感心してしまう。

それに飛び乗り5階まで上がる。駐車場の通路を通ると映画館の入口だった。朝一番の上映といえども、結構な人が入っていて賑わっていた。
前日にネットで予約してシニア価格の1100円を支払ってある。これは経験済みである。
プリントして来た予約席の引換券のバーコードを券売機にかざし入場券に代え、390席の最大収容の「シアター10」に入った。上映15分前でも席には誰も居ない。
前日の予約席状況では、たったの4人だった・・・。
結局映画が始まる頃には、30人くらいは入っていただろうか。ほとんどガラガラ状態だった。ロードショー直後だというのにこんなものなのだろうか・・・。

さて、この映画『トランセンデンス』、楽しみにしていたのだが、この奥深いテーマにしては、テーマが描ききれていない。
単なる娯楽映画並の出来で、今ひとつ、腑に落ちないところも多々あった。

あらすじはこうだ、世界初の人工知能PINN(ピン)を研究開発するコンピューター科学者のウィル・キャスター(ジョニー・デップ)とその妻エヴリン(レベッカ・ホール)は、コンピューターが人間の能力を超えることができる世界を構築する為の技術的特異点を目標に活動していた。
しかしそのさなか、ウィルは反テクノロジーを唱える過激派テロ組織RIFT(リフト)の凶弾に倒れてしまう。
エヴリンは夫を救うべく、死の際にあったウィルの意識をPINNにアップロードする。
彼女の手により人工知能としてよみがえったウィルは、軍事機密から金融、経済、果ては個人情報にいたるまで、ありとあらゆる情報を取り込み、驚異の進化を始める。

やがてそれは、誰も予想しなかった影響を世界に及ぼし始める。

人工知能と化した科学者の姿を通して、行き過ぎたテクノロジーがもたらす危機を描いている・・・・。

と、ウィキペディアにあった。映画を要約するとこのとおりなので、コピペで済ませた。

テーマが素晴らしい。
人の意識がコンピューターに入り、ネットに繋がったその人格を得た人口知能は人類の知り得た全ての情報を一瞬にして獲得する。
コンピューターが自我を得る時代が来る。人の意識が機械に移植されるのか機械が人格を得るのか・・・。
人にとっての便利さだけを追求するようにプログラミングされた人類は必ず『究極の便利』に到達する。
柔な肉体と決別する日が来るに違いない。その時代はすぐそこまで来ている・・・。私の日頃の持論だ。

だから、期待して観に行った・・・・のだが、

我々日本人と西洋人の神に対するイメージがあまりに違い過ぎ、過激派テロ組織RIFT(リフト)の意識が今ひとつ理解できない。

ウィルの意識でコントーロールされた人工知能PINNは、ほぼ神に近い存在だから、この過激派テロ組織RIFTは、脅威と捉え、この人工知能を破壊しようとする。
我々、鑑賞するものは、まず、どちらが正義なのか理解できないまま鑑賞する羽目になる。
これは、映画を見終わった後にも尾を引き、何やらスカッとしないのだ。

いづれにせよ、西洋人の『神』は畏敬の念を越え、神に対する恐れ、その絶対神に対し服従しなければならないといったそんな感覚が心の奥底に潜んでいるのだろう。絶対神は、あくまでも一人でないといけないのだ。

我々日本人の『八百万の神々』は、畏敬の念、感謝の気持ちが先に有り、直接的に『神の怒り』を恐れるといった観念は「ばちがあたる」程度で、さほどないように思うし、日本の神々はそこいらじゅうにおわすものなので、トイレの神様だって居るし、当然ながらネットの神様だって居ることになる・・・のだが・・・。

この映画の脚本家は、意思を持った人工知能を作ることは、やはり「神に対する冒とく」と捉えているのだろう・・・。

「コンタクト」という私の好きなSF映画もこの『神の怒り』を恐れる過激派テロ組織が未知の建造物の制作を邪魔をするシーンがある。

科学と宗教は相反するものなのか、同じものなのか、つまり科学の進歩に宗教が着いていけるのかどうか、宗教者はそろそろ真剣に考えなければならない時期に来ているのだろう。

この映画を観て感じたのは、結局このことなのかもしれない。

動画 | 15:27:53 | Trackback(0) | Comments(0)
川魚の稚魚を獲って来た 2014年6月15日


昨日、自宅近くの善峯川で川魚の稚魚を30匹ほど獲って来た。今朝、工房の水槽に入れた。

サッカーも日本が敗れ、早朝からのテレビ観戦の疲れもあり、午後から工房に行く気もせず、自宅近くの善峯川の堤を散歩していました。
その途中にふと、川底を見ると、梅雨の真っ只中というのに雨が少ないせいか、川は干上がり、小さな水溜りがありました。
工房で、3週間ほど前、ふとしたことからメダカを飼い始めたのですが、今では10匹から2匹に減り、ヤマトエビ4匹とその生き残った2匹のメダカが元気に暮らしている水槽があります。
このメンバーでは少し寂しいので、また新人さんを買い求めないと・・・と思っていたこともあり、もしやと、その2m×30cmほどの水溜りに何か棲んでいるかも・・・・・と、確認しに川底に降りました。

するとどうでしょう、
その水面には、たくさんのアメンボウが泳ぎ、その水面下では期待通り小さな命がいっぱい見えます。
あと一日もすれば、その水溜まりは必ず干上がります。そして彼等は全滅です。

その少なくなった水の中に孵化したてと思われる彼等はいました。
明日にも水が無くなるその事態を知らされず、どこかの国の住民と同じように平和に生きていました。

私は自宅に足早に帰り、台所に吊るしてあったステンレスの網でできた何というのでしょうか、水切り網とでもいうのでしょうか、それを妻に文句を言われながら持ち出し、バケツを持ってその現場に戻りました。

そっとすくい上げると、その稚魚の腹がその網の中できらきらと輝いています。
何度か繰り返し30匹以上は獲れたでしょうか、ちょっと小さ過ぎて、しかも動き回るので正確に数えることが出来きません。

今日から、我が工房の水槽で、のんびりお過ごし下さい。

おかげで、2匹のメダカも心なしかうれしそうに、はしゃいでいるようにみえます・・・。
でも、カワムツと思われる彼等が大きく育った時には食べられるかもしれないのに・・・。

めだかの為にも、大きくなったら、また、工房近くの桂川に放してあげましょう。


うだうだ | 11:03:07 | Trackback(0) | Comments(0)
Paul McCartney - Please Please Me


Paul McCartneyの先日の日本公演では、身体を壊して全てが公演中止。そのニュースが何度も流れ、たくさんの老いたファンがテレビに映し出された。
ポールの老いた姿を「まだやりますか!?」と冷めた目で見ていた。

私の記憶にある、ポールの姿とは程遠いまでも、あのいかにも人懐っこいリバプールの青年の面影は75歳になった今でも十分に感じることができた。
1963年、私が13歳、中学1年生の頃、私より12歳上、一回り上の25歳のお兄さんたちだった。
カブトムシの背中のようなへアースタイル(マッシュルームカット)の青年たちは、私たち少年を魅了し続け、出す曲全てが、私のその後の青春時代を荘厳してくれた。

今朝、たまたま、この動画を見つけ、弟子たちが工房に来る前の時間、スピーカーのボリュームを上げて見て(聞いて)いた。

この動画の最後のほう、画面右下に、私と同世代だろうか、その白人の女性が思わず感極まって涙をこらえているシーンが映る。

私も思わず、彼女につられて涙してしまった・・・。

Please Please Me この曲がヒットしたのは50年も前とは・・・。



新聞原稿より | 09:07:24 | Trackback(0) | Comments(0)
爽やかなすれちがい
最近、気候も良いので7Km離れている自宅から工房まで自転車で通うことが多くなった。
自転車を工房に置いてあるので、帰宅に自転車を利用すると、次の日の朝には自転車で出勤ということになる。

そんな朝、国道9号線(五条通り)の芋峠付近にさしかかると、市内方面から急な坂を自転車で元気良く登って来る女子高生とすれちがうことがある。
制服から近くのR高校の生徒だ。

この女子高生、どこかで会ったことがあるのだが、何時何処で会ったのか思い出せずにいた。

昨日のすれちがいで、やっと思い出した。

3年ほど前だっただろうか、彼女が工房近くの中学生だった頃、大きなラッパ(ホルン?)を抱えたお仲間二人と、近くの公園や桂川の堤下などで、よく練習をしていた、未熟ながら結構良い音が出ていた。彼女たちは、M中学校に上がりたての吹奏楽部の新入生だった。

まだ一年生の彼女たちには、まだまだ幼さが残り、工房から見える公園で、熱心に練習するその様子は可愛かった。
2年生になっても、コンクールが迫っているのだろうか、部活が終わった後も、同じ場所では近隣に迷惑がかかると考えてか、毎度場所を変えて一生懸命に練習する姿には好感がもてた。

自転車の彼女は、そのうちの一人だった。

その中学生の少女は髪の毛がカールしていて、細めのすらっとしたキャシャな姿だったが、その体で大きな楽器を運ぶ姿を思い出す。
くっきりした二重の目と引き締まった口元は、幼いながらも理知的で直向でまじめな印象を感じさせた。

一年生から三年生まで、コンクールの時期が来ると必ず部活以外の時間帯、夜もうす暗くなるまで、その練習する音が聞こえていた。
時々その大きな楽器を抱えて暗くなった道を帰る彼女にも遭遇したことがあった。
彼女の通っていた中学の近くに住む人たちは、私だけでななく、彼女の活き活きした顔を覚えていると思う。

その少女が中学を卒業し、早2年、当然ながら工房近くから姿が見えなくなった。

彼女たちの後輩部員たちの練習する音も今は聞こえない。練習に熱心な彼女のことも記憶から薄れていた。

昨日会ったあの少女は、もう女子高生だった。何度かすれ違っていたが、あの時の少女とは気付かず、何度かすれちがっていた。
私にとっては、通学時間帯にはよく見かけるR高校の生徒さんの中の一人に過ぎなった。

自転車の彼女は、もう高校二年生ぐらいなのだろうか、美しく聡明そうな女子高生に成長していた。
相変わらず柔らかくカールした髪の毛は、肩まで伸び、きれいにブラッシングされていて風になびいていた。

吹奏楽で全国大会にも出場したことのあるR高校を選んだのであろう。
いくつかの丘を登り降りしないと辿り着けない彼女の通う高校は7Km以上西にある。彼女はそのR高校に自転車で通っている。

13歳から、吹奏楽に興味を持ち、今もなお楽しみながら一生懸命練習しているのであろう。
『好きこそものの上手なれ』彼女の実力は、想像がつく。

将来、何になりたいのか知る術は無いが、彼女なら何でも必ずやり遂げるはずである。

17歳の、ある女子高生の光り輝く未来を感じさせてくれた、私にとっては「爽やかなすれちがい」の一瞬だった。


うだうだ | 15:28:25 | Trackback(0) | Comments(0)
平和とは?それを維持するということは?
平和という何とも抽象的で魅力的な語は、世界中の人々の心を惑わしている。

現安倍政権が、集団的自衛権という憲法での権利解釈を今までの「自衛」より、だいぶ広い範囲で解釈しようとしている。
私は、国語的にいうとこの解釈に無理があるとは思うのだが、憲法自体を変えて、自衛隊という呼称を「日本軍」に変えても良いぐらいに思っている一人でもある。
そもそも集団的自衛も個別的自衛も『自衛』といった意味からして同じだと思うのだが、与党内でもぐだぐだと空論が展開しているようだ。
で、「自衛隊は日本軍でいいじゃないか」と言うと、「あんたは右翼か!」と言われそうだが、この「平和」という語の意味を深く考えたら、当たり前のことと思わざるを得なくなるのだから仕方がない。

カントの『永遠平和のために』を読むと、平和という状態の曖昧さが見えてくる。
侵略や暴力の脅威に晒されながら存続する国は、決して平和とはいえないし、平和を維持するために常備軍を保持する国はいつ戦争になるか危険をはらんでいるので、平和とはいえないという。
残念ながら、人類は「平和」という理想を維持できていないのだ。
現在のところ、われわれ人類は、「永遠平和という理想」と「戦争・紛争・テロの絶えない現実」との狭間に生き続けていることになる。

誰かから『平和にむけて』とか『平和の為に』とかいうセリフを聞く時、私はよく心の中で、知らず知らずに『平和ってあなたにとって何なの?』と突っ込んでいる。

前から気になっていた『平和』という語について、その本来の意味を考えてみた。

結論からいうと、『平和』とは、その場所や心持が穏かで心地よい状態のことをいうと思うのだが、その心持や状態を維持し続ける努力は、その平和という概念からほど遠い。
『平和』という状況とそれを維持することとは、もしかすると相反することなのかもしれない。
国民皆が、このことをしっかり考えてみないといけないような気がする。いや、しっかり考えて発言しないといけない。

我々は、『平和』というと、ただただ平和・・・漠然とした平和、きちんとイメージしないで、まるで理想的な何かとして捉えている傾向があり、平和という「まやかしの目的」のようなもので『有り得ない世界』を、まるで「平和」と唱えれば得られる「ご褒美」のように語っているに過ぎないのではないかということである。

『平和』は、元々は「永遠の安寧」「灼熱の中で、涼しい池の上の蓮の上」などのようなイメージを持った仏教用語であると、何かに書いてあった。

一方で、英語の「Peace」はラテン語の「Pax(パックス)」が語源であり、その意味は「戦争と戦争の間」「停戦期間」「武力による平和」「次の戦争のための準備期間」という意味だそうで、仏教用語のそれとはだいぶニュアンスが違う。

「世の中を平和にしよう」といった場合は、大抵が『平和=人間にとって都合の良い世界』というイメージで成り立っている。

『平和は人間にとって都合の良い世界』であり、決して『平和は昆虫(害虫)にとって都合の良い世界』ではない。
また、『平和はウィルスやバクテリアにとって都合の良い世界』ではない。平和は『放射能で汚染されたり、南極の氷が溶けるなど、人間が住めなくなる環境』のことではない。とこれも何かに書いてあったが、うまく言い当てている。

これらは、人間は常に人間中心の物の考え方から抜け出すことができないという現れでもある。

「人が誰も居なくなった地球は、たぶんこれこそが平和なのだろう。」と私は常々思っている。

平和とは、全ての均衡が保たれた状態であると定義するのならば、『平和な状態』になった場合、人間にとって争いや心の葛藤がなくなることになる。
真の意味で平和になった場合は、幸せやそれを感じる心も無くなってしまうことに等しいし、それはもう「人」ではなくなる。
ということは、人の居ない状況が平和だとも言える・・・。

つまり、ボウフラがあっちに行っては、コツンと当たり、またこっちに行ってはコツンと当たり、何も感じることなくそれを永遠に繰り返している状態こそが『平和』ということになる。 

いやいや、そんな「人の居ない世の中が平和」と言ってしまえば、それこそ平和を語る意味がなくなってしまう・・・。
我々はそういう平和な世界を求めているのではないはずだが、平和を叫ぶ人達はもしかして、こんな『平和』を望んでいるのだろうか・・・。

平和を求める力、求めようとする意思が結集し、実っていくその過程こそが「平和」というのではないだろうか。
そのように概念付けるしかないようだ・・・。

それなら・・・、平和な範囲の外側には平和ではない状態があってしかり、その境は頑強な壁を作り平和を維持しなければならいことは、誰でも分かる。

では、その壁とは、「得体の知れない平和」を構築し、それを守る壁とは何を意味するのか・・・。

日本人は、普通、恒久的で争いのない社会を『平和』と解釈していろいろなところで発言する傾向にあるが、史学では『平和』を戦間期とも表現され、戦争終結から次の戦争開始までの時間を意味するし、西洋では、次の戦争に備える期間も『平和』という概念で括っている。

日本の大学でも教えたことのある、ノルウェーの政治学者ガルトゥングは、平和を単純に戦争のない状態と捉える「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない「積極的平和」を提起し、平和という状況の概念解釈に画期的な転換をもたらしたとされる。
構造的な暴力とは、文化そのものから派生した価値観の具現のひとつだから、これを暴力的に抑えつけて表面にでないようにすることを決して『平和』とは言ってはいけないような気がするのだが・・・。ちょうど今の中国がその様子を伝えている。暴力によって平和らしき状態を維持しようとするのが、「共産主義的平和」の形なのだろうか・・・それとも共産主義とは関係がなく、『平和』を求めるということは、必然的に暴力に繋がるのだろうか・・・。これが真理なのだろうか。

貧困は不幸なのか?
抑圧された者は不幸なのか? 差別する人、される人は不幸なのか?
不幸な人が多いと『平和ではないのか』・・・・?
また、皆(大多数)が幸せなら『平和』なのか・・・?というと、そうとは言い切れないし、権力者が幸せかというとそうでもない。

つまり、幸福感と『平和』という状態は必ずしも一致しない。
そこに居る皆の幸福状態が持続し続けている状態を『平和』というのだと思うのだが、たぶんこれは人が人である以上は所詮、無理な話だ。
なので、積極的平和というガルトゥングの概念は、有り得ない。と、私の中ではそういうことになる。

では、阿部首相のよく使う積極的平和とは・・・。

前に書いた、壁のことを言っているのではないかと思う。

壁を構築すること。

より頑強で、他国の脅威に堪えられる壁。

憲法解釈でも改変でも良い。ボウフラのようにされた日本人は、今のままでは、『平和』すら追求できない。
先ほども、『中国政府は、旧日本軍が多くの中国人を殺害したなどとされる「南京事件」といわゆる「従軍慰安婦」の問題に関係があるとされる資料の、ユネスコの「記憶遺産」への登録を申請した。』と報道があった。

こうして、中国政府や韓国政府はボウフラ化した怒らない日本国民を今後も安直に侮辱し続けボーフラ状態にしておいたほうが、いろいろ都合が良いわけだ。

理論武装でも、武力武装でも良い。『平和』を構築し、維持するには『頑強な壁』が必要なのが見えてくる。
今に生きる日本国民そのものが、他国からの悪意を悪意、侮辱を侮辱、脅威を脅威と感じないようなボウフラ状態では、決して今の日本を『平和』とは言ってはいけないのではないだろうか。

■ここまで書いてみたが、うまくまとまらないので、この記事の内容は変化し続けることになると思う・・・。



ご意見 | 11:09:47 | Trackback(0) | Comments(0)

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