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平和とは?それを維持するということは?
平和という何とも抽象的で魅力的な語は、世界中の人々の心を惑わしている。

現安倍政権が、集団的自衛権という憲法での権利解釈を今までの「自衛」より、だいぶ広い範囲で解釈しようとしている。
私は、国語的にいうとこの解釈に無理があるとは思うのだが、憲法自体を変えて、自衛隊という呼称を「日本軍」に変えても良いぐらいに思っている一人でもある。
そもそも集団的自衛も個別的自衛も『自衛』といった意味からして同じだと思うのだが、与党内でもぐだぐだと空論が展開しているようだ。
で、「自衛隊は日本軍でいいじゃないか」と言うと、「あんたは右翼か!」と言われそうだが、この「平和」という語の意味を深く考えたら、当たり前のことと思わざるを得なくなるのだから仕方がない。

カントの『永遠平和のために』を読むと、平和という状態の曖昧さが見えてくる。
侵略や暴力の脅威に晒されながら存続する国は、決して平和とはいえないし、平和を維持するために常備軍を保持する国はいつ戦争になるか危険をはらんでいるので、平和とはいえないという。
残念ながら、人類は「平和」という理想を維持できていないのだ。
現在のところ、われわれ人類は、「永遠平和という理想」と「戦争・紛争・テロの絶えない現実」との狭間に生き続けていることになる。

誰かから『平和にむけて』とか『平和の為に』とかいうセリフを聞く時、私はよく心の中で、知らず知らずに『平和ってあなたにとって何なの?』と突っ込んでいる。

前から気になっていた『平和』という語について、その本来の意味を考えてみた。

結論からいうと、『平和』とは、その場所や心持が穏かで心地よい状態のことをいうと思うのだが、その心持や状態を維持し続ける努力は、その平和という概念からほど遠い。
『平和』という状況とそれを維持することとは、もしかすると相反することなのかもしれない。
国民皆が、このことをしっかり考えてみないといけないような気がする。いや、しっかり考えて発言しないといけない。

我々は、『平和』というと、ただただ平和・・・漠然とした平和、きちんとイメージしないで、まるで理想的な何かとして捉えている傾向があり、平和という「まやかしの目的」のようなもので『有り得ない世界』を、まるで「平和」と唱えれば得られる「ご褒美」のように語っているに過ぎないのではないかということである。

『平和』は、元々は「永遠の安寧」「灼熱の中で、涼しい池の上の蓮の上」などのようなイメージを持った仏教用語であると、何かに書いてあった。

一方で、英語の「Peace」はラテン語の「Pax(パックス)」が語源であり、その意味は「戦争と戦争の間」「停戦期間」「武力による平和」「次の戦争のための準備期間」という意味だそうで、仏教用語のそれとはだいぶニュアンスが違う。

「世の中を平和にしよう」といった場合は、大抵が『平和=人間にとって都合の良い世界』というイメージで成り立っている。

『平和は人間にとって都合の良い世界』であり、決して『平和は昆虫(害虫)にとって都合の良い世界』ではない。
また、『平和はウィルスやバクテリアにとって都合の良い世界』ではない。平和は『放射能で汚染されたり、南極の氷が溶けるなど、人間が住めなくなる環境』のことではない。とこれも何かに書いてあったが、うまく言い当てている。

これらは、人間は常に人間中心の物の考え方から抜け出すことができないという現れでもある。

「人が誰も居なくなった地球は、たぶんこれこそが平和なのだろう。」と私は常々思っている。

平和とは、全ての均衡が保たれた状態であると定義するのならば、『平和な状態』になった場合、人間にとって争いや心の葛藤がなくなることになる。
真の意味で平和になった場合は、幸せやそれを感じる心も無くなってしまうことに等しいし、それはもう「人」ではなくなる。
ということは、人の居ない状況が平和だとも言える・・・。

つまり、ボウフラがあっちに行っては、コツンと当たり、またこっちに行ってはコツンと当たり、何も感じることなくそれを永遠に繰り返している状態こそが『平和』ということになる。 

いやいや、そんな「人の居ない世の中が平和」と言ってしまえば、それこそ平和を語る意味がなくなってしまう・・・。
我々はそういう平和な世界を求めているのではないはずだが、平和を叫ぶ人達はもしかして、こんな『平和』を望んでいるのだろうか・・・。

平和を求める力、求めようとする意思が結集し、実っていくその過程こそが「平和」というのではないだろうか。
そのように概念付けるしかないようだ・・・。

それなら・・・、平和な範囲の外側には平和ではない状態があってしかり、その境は頑強な壁を作り平和を維持しなければならいことは、誰でも分かる。

では、その壁とは、「得体の知れない平和」を構築し、それを守る壁とは何を意味するのか・・・。

日本人は、普通、恒久的で争いのない社会を『平和』と解釈していろいろなところで発言する傾向にあるが、史学では『平和』を戦間期とも表現され、戦争終結から次の戦争開始までの時間を意味するし、西洋では、次の戦争に備える期間も『平和』という概念で括っている。

日本の大学でも教えたことのある、ノルウェーの政治学者ガルトゥングは、平和を単純に戦争のない状態と捉える「消極的平和」に加えて、貧困、抑圧、差別などの構造的暴力がない「積極的平和」を提起し、平和という状況の概念解釈に画期的な転換をもたらしたとされる。
構造的な暴力とは、文化そのものから派生した価値観の具現のひとつだから、これを暴力的に抑えつけて表面にでないようにすることを決して『平和』とは言ってはいけないような気がするのだが・・・。ちょうど今の中国がその様子を伝えている。暴力によって平和らしき状態を維持しようとするのが、「共産主義的平和」の形なのだろうか・・・それとも共産主義とは関係がなく、『平和』を求めるということは、必然的に暴力に繋がるのだろうか・・・。これが真理なのだろうか。

貧困は不幸なのか?
抑圧された者は不幸なのか? 差別する人、される人は不幸なのか?
不幸な人が多いと『平和ではないのか』・・・・?
また、皆(大多数)が幸せなら『平和』なのか・・・?というと、そうとは言い切れないし、権力者が幸せかというとそうでもない。

つまり、幸福感と『平和』という状態は必ずしも一致しない。
そこに居る皆の幸福状態が持続し続けている状態を『平和』というのだと思うのだが、たぶんこれは人が人である以上は所詮、無理な話だ。
なので、積極的平和というガルトゥングの概念は、有り得ない。と、私の中ではそういうことになる。

では、阿部首相のよく使う積極的平和とは・・・。

前に書いた、壁のことを言っているのではないかと思う。

壁を構築すること。

より頑強で、他国の脅威に堪えられる壁。

憲法解釈でも改変でも良い。ボウフラのようにされた日本人は、今のままでは、『平和』すら追求できない。
先ほども、『中国政府は、旧日本軍が多くの中国人を殺害したなどとされる「南京事件」といわゆる「従軍慰安婦」の問題に関係があるとされる資料の、ユネスコの「記憶遺産」への登録を申請した。』と報道があった。

こうして、中国政府や韓国政府はボウフラ化した怒らない日本国民を今後も安直に侮辱し続けボーフラ状態にしておいたほうが、いろいろ都合が良いわけだ。

理論武装でも、武力武装でも良い。『平和』を構築し、維持するには『頑強な壁』が必要なのが見えてくる。
今に生きる日本国民そのものが、他国からの悪意を悪意、侮辱を侮辱、脅威を脅威と感じないようなボウフラ状態では、決して今の日本を『平和』とは言ってはいけないのではないだろうか。

■ここまで書いてみたが、うまくまとまらないので、この記事の内容は変化し続けることになると思う・・・。



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