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「仏の顔も三度まで」という言葉のほんとうの意味
2015-4-8おしゃかさまを讃える夕べ

昨晩は、京都仏教会の主催する「おしゃかさまを讃えるゆうべ」という催しに出席してきた。
仏教徒の皆さんが集っておしゃかさまのお誕生日のお祝いをしようというわけだ。
毎年4月8日のこの日には参加させていただいているが、もう、10年は経過しただろうか。
毎年、宗派ごとにその僧たちが担当する法楽で始まり、仏教会の常任理事やゲストの挨拶や祝辞があり、その後のメインゲストの記念講演を聞く。
その後、食事を頂いて、最後に常任理事の挨拶で終わるというわけだ。
丸いテーブルには、ほとんど初対面の人達が隣り合わせに座る。
もちろん毎年のことなので、1年に一度だけお会いし挨拶を交わす人も多く出来た。
昨日は、各宗派の管長をはじめ、京都市長やインド総領事等400人のそうそうたる人達でANAクラウンプラザホテルの会場は、いっぱいになった。

会の終わりの常任理事のお一人の挨拶が、考えさせられたので、ちょっとまとめておこうと思った。

この方とは、インドの仏跡にもお供したことのある、お歳の割には実にお元気なご門跡で、いつも憲法九条を死守する意味のお話をされ、この催しを締めくくられる方である。

お坊様が、政治思想のお話をおもしろおかしくされるのは、積極的で好感はもてるのだが、今まで私は笑えなかった。
昨今の隣国の理不尽な日本バッシングに、そぐわないお考えだなぁ、と密かに思っていた。

「でも、こんな時、仏陀ならどうするのだろう・・・。」ともすれば、隣国の過剰な反日情報に苛立ちと怒りを覚える自分に問いかけていたのだが、答は見つからなかった。

しかし、昨日の催しの最後の挨拶で、その常任理事のお坊様のお話された内容は、私の仏陀ならどうするだろう・・・といった疑問に一石を投げられた形となった。

「仏の顔も三度まで」という言葉をご存知だと思う。

三度は許すが、4度目は許さない・・・そんな意味で理解している方が多いと思う。しかし、これは違います。 

と、釈迦の生まれた釈迦族の国カピラ城と強大な隣国コーサラ国のお話をされた。

自宅に帰って、ネットで確認すると、知恵袋にそのお話があったので、以下にコピペさせてもらうことにする。

-----------------ここから転載--------------------------------

お釈迦様がおられたカピラ城の隣にコーサラ国という強大な国がありました。 
この国王パセーナディが妃を釈迦族から迎えたいと思って、使者をカピラ城に出しました。 
使者の口上の中にあった「もし不承知ならば力ずくでも」という一言に、釈迦族は憤慨しましたが、コーサラ国は強大でとても相手にできる国ではないので、ある長者が下女に産ませた娘を長者の娘としてパセーナディ王に嫁がせました。 

妃は、王子ビドゥーダバを産みました。 
王子が八歳になった時、弓術を学ぶためにカピラ城に留学させられました。 
新しくできた講堂でビドゥーダバが修行をしているのを見て、釈迦族の人々は「下女の子をなぜここに入れたのか」と言って、王子の帰国後、彼のいた場所の床を削り、その下の土を七尺も掘って清浄な土と入れ換えました。
 
このことを聞いたビドゥーダバは身を震わせて怒り、お付きのバラモンに「もし自分が王位についたら『釈迦族に辱められたことを思い出せ』と一日に一回必ず私に言い聞かせよ」と命じました。 

父王パセーナディが死んで、王子が王位を継いだ時、バラモンは命令どおり実行しました。
 
ビドゥーダバ王は、軍を率いてカピラ城へと向かいました。 

これを聞かれたお釈迦様は、やがてカピラ城へ通ずる街道にある一本の枯れたチークの木の下で端座されました。
 
その前を通りかかったビドゥーダバ王は、お釈迦様を礼拝してから「ほかに繁った木があるのになぜ枯れた木の下にお座りですか?」とお尋ねすると、
「王よ、親族の蔭は涼しいものだ」というお応えでした。(チーク樹は釈迦族発祥に関係していて、いわゆる親族の象徴的なもの) 

王はお釈迦様が釈迦族出身であることと、「遠征のとき沙門(男性修行者)に会ったなら兵を返せ」という言い伝えを思い出して、その場から兵を引き揚げさせました。
 
しかし、王はまもなく、あの屈辱を思い出し、耐え切れなくなり兵を出しました。 
すると、またお釈迦様が枯木の下で座っておられたので、王はまた兵を返しました。 

同じことが三度あったのですが、四度目にはお釈迦様の姿は見えませんでした。
 
お弟子の目連が神通力でカピラ城を救おうとしたのですが、「釈迦族の積んだ業の報いは、自ら受けるより仕方がない」とお釈迦様は、目連をおとめになりました。
 
お釈迦様は三度目まではかつての故郷、親族の人々の為に滅亡から救おうと努力されたのですが、四度目には『因果応報の理』にまかせられたのです。 

この為、釈迦族はビドゥーダバ王に滅ぼされましたが、王もまた帰国後、遊びの時に突風が起こって兵と共に水没したということです。 

これは『増一阿含経』二六・「瑠璃王経」に出てくる話ですが、悲しい話の中にも、人としてのお釈迦様の情を偲ばせる一面があります。

-------------------ここまで修正加筆して転載-------------------------------


ということだった。

この常任理事のお坊様は、何が言いたかったのだろう・・・。

昨今の日本人の右寄り思考を懸念し、せめて仏教徒だけでも、戦わないという平和を実践した仏陀のように、強大な隣国の侵略を受け入れ、日本文化がないがしろにされ滅ぼされても、仏陀のようにドシッと構えていろと言うことなのだろうか・・・。

『因果応報の理』が日本国にも適用されるのだろうか・・・。

いやいや、やっぱり、意図的に作りあげられた濡れ衣とそれとは違うと思うのだが・・・・。




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うだうだ | 17:55:16 | Trackback(0) | Comments(0)