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藤野正観のちょっと書いてみます(2015年10月号原稿より)
2015-10月号用-1969-内弟子時代の筆者
1969年-内弟子時代の筆者



遠回りが良かったようです

 前号では、仏画の描法やその精神性を後進に伝える手段として、古い徒弟制度のようなやり方で伝承していると書きましたが、所詮、戦後生まれの私です。その昔の徒弟という制度を良く知りません。
 自分の図案家修行時代の経験をより緩和した関係・・・と表現したほうが良いのかもしれません。
当仏画工房では、その緩い師弟の関係が創立当初から続いています。

 一九六九年三月、幼い頃から絵筆を持って生活することが夢だった私は、進学せず十八歳で京都の染織図案家・本澤一雄先生の内弟子となり、日本の伝統的な形や色の研究、それ等を日本古来の絵の具と筆で表現する技術の練磨に専念することになります。

 ここで、私が仏画に出会うまでお世話になった染織図案家という職業絵描きのことも少し書いておこうと思います。
 主に染や織りの和風文様の図案画を制作するのが仕事なのですが、弟子入りした直後は、師のご自宅の一角にある仕事部屋、それと、弟子達が共有するスペースの掃除の仕方から習うことになります。
 仕事といっても最初は絵の具の調合や紙の切断等雑用がほとんどです。仕事を終えた夜、先輩たちの写した線画の写しをします。先輩には面相筆の持ち方から習います。仕事を手伝わせて貰うまでは新弟子と師とは一切関わりがありません。
 描画の勉強方法としては、家が傾くぐらいの多くの和洋多種の美術書から選んだ古画の写しと、ただただ図案の基本である草花の写生のみなのです。あとは、仕事の実践で技術を身につけていきます。
 絵を描くことが好きでその世界に入ったわけですから、図案に多少違和感はあったものの絵筆を持って生活できることに満足し、毎日が新鮮で充実していました。
 弟子生活九年のうち、師と私語を交わしたのは僅か三回。極端に寡黙な師でしたが、仕事に関しても目線と十種類程度の言葉だけで意思の疎通ができていました。いつも傍に居ると、師の美意識や価値観を共有できるようになるものです。
 図案家の祖といわれる絵師に丸山応挙や尾形光琳等がいます。
 明治になり、京の絵師たちの中で器用な者が友禅型の登場と共に図案家として専門化し、自分たちの修行した方法で弟子を育てますが、 この伝承方法は、美術学校には残らず、職人絵師の世界にだけ受け継がれていきます。
 独立後、プロの図案家として三十四才まで活動しますが、その頃、仏画と出会うことになります。
 私の元に弟子入りしてきた美術系大学を卒業した者に聞いても、私が修行したその内容とは大きく違い、教育と徒弟とでは、教える側も習う側もその姿勢がまったく違ってくるようです。
 仏画制作が生業として成り立った頃、「ずいぶん遠回りをしたがこれで良かったのか、私に『仏画』を描かせる為に誰かがそうさせたのかもしれない・・・。」と、妙に納得したのを覚えています。


冊子原稿より | 17:02:40 | Trackback(0) | Comments(0)