FC2ブログ
 
■プロフィール
■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■ブログ内検索

藤野正観のちょっと書いてみます(2016年1月2月合併号原稿より) 
2016-1月2月号-2015年-下図となる白描画の最終チエック作業の様子
曼荼羅の下図となる白描画の最終チエック作業の様子



我を殺すことは我を知ること

 正月から「殺す」とは縁起でもないとお叱りを受けそうですが、今回は、私の仕事と、それを受け継いでくれるであろう弟子のことを書こうと思います。
 仏画を描く仕事がしたいといって私のところに来る若者が後を経ちませんが、数年も経たないうちに志半ば以前で辞めることがよくあります。
 
 仏画を描くのに、描き手の個性は必要ありません。

 現代の絵画作家、いわゆるアーティストは個性であるところの感情や思想を作品に反映させます。それをアートと呼びます。現代美術教育ではそう教えています。ですので、そういう教育を受けた若者は、この仏画を描くことに憧れを抱いたものの、自分の個性など何の必要もないとされるのですから、修行当初は、自分を否定されたような錯覚に囚われ、そのまま辞めて行くことも多いのです。
 今の学校教育では、個性を尊重し過ぎていますから、そういった気持ちになるのも仕方が無いのかもしれません。師である私に、自分が否定されたように思うのでしょう。
 仏画制作の「勉強」と表現せずに「修行」「弟子」と表現する所以はここにあるのです。このことを真に理解できるようになれば、本来の修行に身が入るのですが、そこまで到達するだけでも、今の若者は、たいへんなのです。
 我々の描く仏画は、ほとんど全てがそうですが、まず下図ともいえる白描画を作成します。この下図ができればほとんど完成なのですが、一番時間をかけます。
 この面相筆で描いた白描画の細い線をなぞり、絵絹に写し取ります。
そして、その上に彩色し、塗った絵の具で隠れた線をまた描き起こすといった作業を経て完成します。
 細い面相筆で下図の線をその通りなぞっても、己を殺して挑んでるはずなのに、まさにコンマ何ミリの差でその描き手によって「仏の面相」は変わってきます。 
 そこそこ年数を経た私のようなベテランでも描く人によって変わってきます。 では、己を殺して修行した絵師が、寸分の狂いもなく下図に沿って描いているのに、なぜ面相が違ってくるのかという疑問が沸いてきます。実は、このベテランが描いた場合、その線の様子は微妙に違っても、それぞれ同じ慈悲の目線として描かれているのです。
 技術不足の未熟な線は論外なのですが、その差こそが、本来のその描き手の本質、良い個性、鍛えられた個性と呼べるのではないかと気付かされるのです。

 一昔前の大人は、己を殺さないと生きていけない上下関係からくる規律正しい社会システムの中で育ちました。
 自由で安っぽくて未熟な個性が自分だと信じている今の多くの若い芸術家は、己を殺しても殺しても殺しきれない残り滓のようなものが本当の自分なのだということに気付く機会が少なくなってしまったように思います―。


冊子原稿より | 13:29:33 | Trackback(0) | Comments(0)