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チベット問題で考えてみました
チベットポタラ宮
ダライ・ラマ14世お留守中のチベット・ラサにある朝日に輝くポタラ宮


先日のNHKTV番組、クローズアップ現代の「中国の若者たちの出家の現場に密着」のレポートにちなんで、「チベット問題に触れていなかったことに違和感を感じた。」という方がおいでになりましたので、これをきっかけに、私のブログでも触れたことのなかったチベット問題を自分なりに考えてみようと思います。

実は、重いお話なので、この件を深く知らない私の考えなど書くに値しないと思っておりましたし、安易に発言しないほうが良いと考えていました。
というのは、この問題の本質がどこにあるのかよく分からなかったからです。

ですので、今回、私の私見をまとめるにあたって、日本に居ながらにして知ることのできる情報だけに頼って書かねばならないことのいい加減さを気にしながら書くことを、お許し願いたいと思います。

宗教、この場合は仏教なのですが、宗教を取り入れ、利用しようとする権力はどの時代であれ、どの国、地域でも同じだったように思います。
ですので、共産主義というひとつの思想で括ろうとする中国で、その思想を徹底するために宗教弾圧や迫害を繰り返してきたと思うのですが、何がどうなったのかは分かりませんが、共産主義国家が経済を重要視するようになった現在では、人民の欲望をコントロールし、「統率する手立てとして宗教を許容するしかない。」に至ったのでしょう。
私はこのことに、特別に違和感は感じておりません。

宗教とは、そもそもそういうもので、政治とはそういうものだと思っております。

共産主義であれ、経済至上の自由主義であれ、国民の心が満たされていれば、宗教は興隆しないと思います。

日本も、聖徳太子の時代からそうでしたし、仏教は時の権力者に良くも悪くも利用されて来ました。
今でも公明党という政治団体なのか宗教団体なのか曖昧なまま、与党として日本の政治を動かしています。

チベットに住む人々の宗教観は、過酷な自然環境故に宗教に救いを求めなければ生きていけません。
生まれ変わって真の幸福を得ようという輪廻願望思想と、心の持ち方として内に向かう仏教がマッチし育まれたのだと思います。

その地域の環境に適合した宗教観を持つ個の集合である地域または国に住む人々をうまく統率しようとするところがネックなのでしょうけど、これを政治力とするなら、チベット仏教の教主であるお立場であるはずのダライ・ラマ法王は、チベット政府が仏教を軸に存続しているため、仏教を説き伝えるだけではなく、政治という生々しい仕事にも大きく関与しなければならいような、厄介なお立場に、仏教徒としての悲劇があったのだと思われます。

当時のダライ・ラマ法王を指導者とするチベット政府は、武力による侵略から国土や国民を守れなかったことになります。
今も仏教的平和主義ということで、武力による攻撃に対しては、ただ受身であれと指導されているようです。
ですので、軽い抵抗は許容できても軍事力で交戦したり、チベット以外の同じ仏教徒が、軍事力で助けることもままならないということになります。
最近まで焼身による抗議が後を絶たなかったそうです。悲劇としかいいようがありません・・・。
耐えることしかないのでしょうか・・・。

政府であれ教団であれ、大きな集団ができた時には必ず「権力」という「力」が自然発生するものです。

性質の良し悪しはあるものの、清らかなはずの思想で集まった宗教団体の中にも、統率する側とされる側があり、統率する側にはある種の権力が発生します。自然なことです。
権力を得た者は、弱者である善良なる国民を守るべきで、守れなかったら、ただのお山の大将に過ぎないと思うのですが・・・。

チベットを侵略した当時や文革当時の中国政府は、仏教思想が共産主義思想と競合すると恐れたのか、遊牧民族の自由な生き方やその文化が共産主義と合致しなかったのか分かりませんが、いづれにせよ、手っ取り早く力ずくで侵略し改革しようとしたのだと思います。
実は、その統率する側の権力、権限、暴力といった、いただけないシステムさえ除けば、思想的には、よく似ている部分もあるのですが・・・。

共産主義という思想を元に国を統率しようとする術(戦略)は、洗脳教育であったり、力ずくであったり、いろいろあるとは思います
が、聞くところによりますと、10年ほど前から、中国政府が、仏教の素晴らしさに気づいたのか、利用しようと考えたのか、分かりませんが、国民にとっても政府にとっても必要なものとして、その考え方を急速に柔軟にシフトしたようです。
これは今回の放送でも伝えていたように思います。

したがって、チベット問題は、失礼な表現で恐縮ですが、「武力による侵略に、なす術もなく屈っせざるを得なかった国民(民族)の悲しい事件」だと思うのです。

今の現実として、今回のレポートによっても分かるように、チベット亡命政府が、『中国政府による仏教弾圧』として世界に同情を訴えてきた戦略が、中国政府のラルン・ガル・ゴンパ(五明佛学院)に象徴されるように、仏教容認シフトで通用しなくなっていることは確かなことですので、チベットが独立した地域に戻ることを望むチベット亡命政府の悲願を達成させる術(戦略)は、ある程度、仏教と分離したところに、その方法を見つけ出さなければならないのだろうと思います。

仏教は、仏教を命がけで守ることを説いていませんし、命をかける類のものでもありません。

必要とする人さえあれば仏の教えは不滅です。

仏陀は、あくまでも、あらゆる過酷な環境に置かれても、個を苦しみから救い、個を安定させ、輝かせるための思考方法を説いたに過ぎません。

敬虔な仏教徒が武器を持って権力者や侵略者に立ち向かうという図式はあり得ませんので、チベット地域が中華人民共和国という枠組みに入ってしまった以上、やはり、これからも多数派の漢民族と一緒になって民主化にむけて、国内で地道に戦うしかないように思います。

番組のレポートであったように、力ずくで統率してきた共産政府とはいえ、今でもそのような緩やかなシフト傾向はあるのですから、完全民主化に成功すれば、チベット密教をはじめとした仏教文化は一気に広まり、独立国家としてのチベットが決して理想的だとは思いませんが、独立国家も夢ではないと思います。

今の中国の仏教僧を目指すエリート学生たちをはじめとする若者が、真のりっぱな僧に成長し、中国人民を正しい方向に導けば、中国は必ず民主化され、いい国になる。 そう信じて応援し、見守りたいと思っています。




うだうだ | 12:55:04 | Trackback(0) | Comments(0)
中国の若者たちの出家の現場に密着 - NHKクローズアップ現代を観て
nhk


『経済減速 中国で仏教が大ブーム!? かつてすべての宗教が否定された中国で、いま仏教を信仰するエリート学生が急増している。「金に目がくらんで豹変した人がどれだけいるか…」「私たちはどこへ向かえばいいのか…」 頭を丸め出家した名門大学の学生たちが声をふり絞る。経済が減速する中、目標を失い、さまよう中国の人々の心。番組は、中国の若者たちの出家の現場に密着。彼らを信仰へと駆り立てる中国社会の現実を見つめる。』

という番組の紹介がNHKのウェブサイトにありましたので、昨晩放送されたこの番組を興味深く拝見しました。

特に「いま仏教を信仰するエリートが急増している。」といった部分がどのようにレポートされるのかたいへん気になりました。

番組では、「頭を丸め出家した名門大学の学生たちが声をふり絞る。」と、いった視点でこの現象を捉えていましたが、ちょうど今、私の主宰する仏画工房にも、1年前から、中国でも1・2を競う大学を卒業したいわゆる超エリートといわれる青年が、ビザの関係で短期間限定ですが、今、必死に仏画を勉強しているところでもあります。
密教系の大学で学び、僧籍も得、あとは密教の流儀を授かれば母国に帰り、空海ゆかりの寺として知られる西安の青龍寺で修行したいと言っています。

私は、その彼の想いや目的が、どこに向かい、それが何を意味するのか、はたまた本気なのか、最近少しですが理解できてきたところでもあったものですから、私の内ではちょうどタイムリーだったことになります。

番組では、仏教をひとつのブームとして捉え、まるでオウムが事件を起こす前の時のように、エリート学生までもが、そのブームに乗り、仏教に帰依し出家していることを、異常な事態として伝えていったように感じました。

番組は、出家する彼らの本当の理由にまでは食らいつかず、ただの社会現象としてレポートしていたことに気づきます。

日本の社会でも同じようなことがありましたし、今もそうだと思うのですが、物の豊かさでは満たされることのない思慮深く知的な人たちは精神的な豊かさを求めようと、内なる自分に向かうため、仏教に深く傾倒することが多いように思われます。

その現象をどう捉え伝えるかが、番組制作側の「仏教に対する深い造詣と優しさ」がないときちんとレポートできないわけですから、さて、どんなレポートになっているのか、とても気になっていたのですが、やっぱりなぁ・・・という感じです。

エリート学生たちは、心の豊かさを求めるなら仏教を信仰し、学べば良いわけなのに、なぜ、それを通り越して出家までするのか・・・そこまで突っ込んで欲しかったのですが、やはりちょっと中途半端で、レポートの視点が浅かったようです。

「彼らは、仏教を実践することでしか、幸福感や充実感を得ることはできない、知識だけでは心の豊かさを得ることができない。彼らはすでに仏教の素晴らしさ、本質を知っているんですよ。」と私の工房で勉強する彼らと同じ立場の青年は言います。

「心の豊かさを求めることは、物欲と何らかわらない。出家することでしか、真の仏教を実践できない。
仏教の本質や本当の素晴らしさを知らないのは、取材したNHKの番組制作者、しいては日本の仏教徒や仏教学者、そして出家をせず僧籍をもつほとんどのお坊様かもしれない・・・。
お経や書籍を読み、仏教を知れば知るほど、勉強すればするほど、出家こそが仏教の実践であることに気づくはずです。」
と、片言の日本語で静かに言いきります・・・。

確かに、仏教を実践(出家)できれば、残りの人生を必ず穏やかで清らかに生きることができ、そして心安らかに死を迎えられる・・・。分かっているのですが、65年も生きているのに、いや、もしかして65年も俗世で生きてきたからなのかもしれませんが、自分にはできません。 

今の私にとっては、2500年前の仏跡を訪ね、その跡に立ち、かつての真の求道者達のエネルギーを感じ、想いを馳せることが何よりもの楽しみであり、救いとなっているのですが、今、中国では、若くて思慮深くて頭の良い人たちが、現在に生きる求道者として修行を始めたということのようです。

※巨大化する中国・東チベットのカム地方。チベット仏教の修行聖地 ラルン・ガル・ゴンパ(五明佛学院)に入る漢民族の若者も多いといいます。




うだうだ | 18:08:25 | Trackback(0) | Comments(0)
藤野正観のちょっと書いてみます(2016年5月号原稿より) 
2016-5月号用-東近江市五個荘の重要伝統的建造物群保存地区
東近江市五個荘の重要伝統的建造物群保存地区


受 賞

 先日、私の故郷、東近江市五個荘地区まちづくり協議会から「ふるさと輝き大賞」を受ける機会がありました。賞を受けるといったことは、染織図案家時代以来のことで、仏画を生業にしてからは、まったく無縁なものになっていました。

「賞」とは、個人または団体に対して審査・判定をした上で、業績を讃える目的で贈呈あるいは授与されるもの。と定義されているようです。
私は、この賞が決まった。と、報告を受けた時には、意味や内容が分からなかったこともあり、素直に喜べませんでした。
 なぜなら、私の業績に対して、審査し判定があったことになるわけですから、その判定をした方がどんな方なのかが気になったのです。
 私のような職人絵師の業績を正当に評価できる人は、「五個荘地区まちづくり協議会」でないことは明らかだったからです。
 私の辿ってきた経験に基づいて書きますと、作家は賞を頂くと、経歴の内容が華やかになります。
 しかし、実際その賞は、作家なり職人の所属する会や組合といった団体の選出した役員が審査し、決めるのが一般的で、いわば、会員に都合の良い互選システムで成り立っています。つまり、身内が身内を評価するといった手前味噌的な選出方法が一般的なのです。
 こういった賞には、一人でも多くの会員または組合員が、順番に受賞できるように、とまでは言いませんが、総理大臣賞から市長賞、各団体賞まで多数設けられ、そういった賞取りメリットがないと作家や職人は会費を納めて席を置くことはしません。
 また、そういった団体は、賞に留まらず、会員の能力を一般に誇示する為に、国や都道府県名義でその技能を認定するといったこともします。当然ながら専門家の知識がないと、その賞や認定される人を選ぶことなどできはしませんから、仕方ないといえば仕方ないのですが、逆にこの賞や認定欲しさに会や組合を利用し、入会するといったつわ者も登場してきます。
 私の関わった団体以外のことは分かりませんが、ほとんどの団体は、こんなことだと思います。
ただ、長年の画業に対して授与される場合もありますので、一概に手前味噌と一括りにすることはできませんが、いづれにせよ、○○賞は、一人で生活しなければならない作家の是非とも欲しい営業アイテムとなるのです。
 で、話を元に戻しますが、頂いた賞状の文面をよく読んでみますと、「画業の功績を通じて故郷の住民に元気を与えてくれた。貴方は郷土の誇りだ」。ということなのです。
 賞を営業アイテムぐらいの認識でいた私は、仏画を生業にしてからはどの組織にも所属していませんから賞を頂く機会はない筈でした。
 故郷の人たちがくれたこの賞は、営業アイテムにはなり得ませんが、十八歳から故郷を離れて好きに生きてきた私に、「輝いている」と賛辞を呈してくれたのです。
今、何となく肩の力がほぐれていくのを感じています―。


冊子原稿より | 13:55:04 | Trackback(0) | Comments(0)

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