FC2ブログ
 
■プロフィール
■最近の記事
■月別アーカイブ

■カテゴリー
■ブログ内検索

藤野正観のちょっと書いてみます(2016年12月号原稿より)
2016-12月号用-山越阿弥陀図より面相の仕上げ
山越阿弥陀図より面相の仕上げ


弟子入り志願者が来るとき

 先月号では、「弟子が辞める時」という主題で、数年にかけて制作しなければならない曼荼羅制作を引き受ける時、「愛弟子が辞めることになるかもしれない」と書きました。また、この胸騒ぎは、これから二年の歳月をかけて描き上げようとするその過程で、曼荼羅自身が描き手を選んでいるように感じるとも書きました。
「曼荼羅が描き手を選ぶ」と言えば何かカルトっぽい表現で、こういった表現はあまり好きではないのですが、描いている間に少しづつ描き上げたいといった気持ちが薄れていくことがあるのです。目の前の仏画から逃げたくなるのです。
 私たちは、毎日、筆を持っていますが、特に同じ仏画を長時間掛かって描いていますと、技術・知識等能力不足もあるのでしょうけど、今までの自分の人生やら、仏に対する己の向かい方等、描き手の内面まで抉られるようなそんな気分になり、心身ともに疲れてしまうのです。
 経験年数の浅い感受性の強い弟子ほど、そういった鬱のような症状になりやすく、挙句の果てにとうとう逃げ出す決心をする。そんなことが、過去に何度かあったのです。
 このことは、なにも仏画制作においてのみ起きることではないと思うのですが、才能を必要とする職業において勉強中の人に起こり得るマイナスの心境だと思います。極めようとする者は、これ等負の境地を乗り越えなければなりません。これを修行と呼ぶのでしょうけど、 完成までの先が見えにくい曼荼羅制作は、その負の境地の引き金になっているのです。
 愛弟子が、心身とも疲れ果て、潰れていく様子を傍で見ている私も辛いのですが、「なんとか、立ち直って欲しい」という願いも空しく、工房を去るといったこともよくあるのです。

 その弟子も入門時には希望に燃え、やる気満々でやって来ます。
 一年目は、基本の基本、筆の持ち方から始め、線描の訓練とその完成を目指します。これは、ただただ没頭すれば、その成果が明確に作品に現れ、己の技の進歩を如実に感じることができます。
 二年目には彩色の練習を始めます。これも初心者の頃は練習や経験数でその成果がはっきり出ます。
 三年目を迎える頃になると、一つの作品を仕上げます。
どれだけ数多くの種類の作品を手掛けられるかで経験値が増えますので、この段階で、プロの絵師としての自信が備わっていきます。
 そんな時期、二年も掛かる曼荼羅のような大作に挑むことになりますと、同じ三年目でも、そのうちの一年間は同じような作業が延々続くわけですから、経験値からすると、その数は極端に減ることになりますから、焦りも生じてくるのかもしれません。
 曼荼羅制作の二年間は、描く要領さえ習得すれば後は、ひたすら我を殺し筆を動かすだけの作業となります。
 曼荼羅が描き手を選ぶと表現しましたが、こういった意味で、曼荼羅制作というのは、修行僧のような強靭な精神力が求められるのです。
 たいして苦労もせず美術学校を卒業し、そのまま入門して来た弟子などは、やはり脆いのです。
 一人の弟子が去り、その空いた席を求め、今、新たに二四歳の女性が我が工房の門を叩いています・・・。 


スポンサーサイト



冊子原稿より | 17:46:02 | Trackback(0) | Comments(0)