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藤野正観のちょっと書いてみます(2017年1月2月合併号原稿より) 
2017-1月2月号用-2014年の曼荼羅完成披露展の様子
2014年の曼荼羅完成披露展の様子(於:仏画館)


「京都・仏画館」の再開

 私の主宰する仏画工房 楽詩舎には、付属の小さなギャラリーがあります。
三階建ての小さな建物を「京都・仏画館」と命名し、一階をそのギャラリーとしています。
二階は工房として数人の弟子たちに手伝ってもらいながら主にお寺さんから依頼された仏画を制作するためのスペース「仏画工房 楽詩舎」としています。
三階は、一室が資料室、それとマッサージ機や大型テレビの置いてあるリラックスルームと、最も落ち着く畳の和室があります。
 最近は歳のせいか目が疲れ、夜遅くまで仕事ができませんが、少し前までは夜遅くなるとこの畳の部屋に泊まっていました。

 五年ほど前に、新しい道路の建設で竹林と田園が広がる京都西山、大原野の地より、追いやられるように、嵐山から一三〇〇メートルほど南にある松尾大社近くの「松室」というこの地に引っ越しをしてきました。
目の前を桂川が流れる雄大な景色が気に入り、もともと建築会社の事務所だったこの三階建ての建物を買い求めて大改造したのです。
 この仏画館は、桂川の流れが四条通りに架かる松尾大橋を過ぎ、大きく東に流れを変えるその曲がり角の南に位置します。二階にある工房の大きな窓からは、まるで河原の中からその松尾大橋を真横から眺めるような角度で、その橋の左岸(西)から右岸(東)までの全容が望め、その橋の右側には京都で標高が一番高いとされる霊峰愛宕山が、その下方に大文字焼きの鳥居形のある曼荼羅山や嵐山の小倉山が望め。四季折々の表情を楽しませてくれています。

 五年前に、小さいながらも念願だった自分たちの描いた仏画作品の並ぶギャラリーができたまでは良いのですが、この工房をこの地に移して一年が過ぎた頃から、めったにない大きなサイズの両界曼荼羅の依頼が二作、立て続けにあり、このギャラリー部分のスペースの床にベニヤ板を敷き詰め、それまで展示していた作品を片づけて両界一対を並べて制作していたのです。その間、いろいろありましたが、あっという間に四年の歳月が過ぎ去りました。
 そんなことで、念願のギャラリー新設も、ギャラリーとして機能していたのは、当初の一年間と、一作目の曼荼羅が完成した直後の完成披露展の三日間だけとなります。
 
 前にも書きましたが、昨年一〇月に二作目の両界曼荼羅が完成し、その後、ある宗教法人のご依頼で、新設の分院にも同じご本尊画をお祀りしたいということで、本院のご本尊画のレプリカに補彩や金泥を施す作業をしていました。これもサイズが二メートル四方の大きさですので、二階の工房には運び入れることができませんので、そのままベニヤ板を敷き詰めたギャラリーのスペースを使って一か月間作業をしていました。
先月、この作業も無事終わり、ついに二〇一七年一月より、久々に再開することができるようになりました。
 読者の皆さま、お近くにお越しの折にはぜひ、お立ち寄りください。
手前味噌ですが、美しい仏の絵に囲まれ、清々しい気分になれます。


冊子原稿より | 17:48:45 | Trackback(0) | Comments(0)
無財の七施
マンゴー林の中の一本道
仏陀が活躍した北インドのマンゴー林の道


無財の七施


お釈迦さまは、慈悲の実践として『雑宝蔵経(ぞうほうぞうきょう)』の中に「無財の七施」を説いておられます。
物やお金など財力が無くてもできる「七つの布施」のことです。
実は、我が工房の二階のトイレには、その「無財の七施」の中の一つ『言辞施』の説明文が、便座に腰掛たら読めるようにその前の壁に、もう一年以上も貼ったままになっています。
ネットのどこかで見つけた分かりやすい説明文。一か月ぶりにCMが表示され、それを消すためのブログ更新ということで、今日はこれをご紹介しようと思います。


1、優しいまなざしを施す「眼施(げんせ)」。

2、笑顔を施す「和顔施(わげんせ)」。

その次に、

3、「言辞施(ごんじせ)」

を説いておられます。

『言辞施』とは、心からの優しい言葉をかけるという意味です。もっと簡単にいうと、「褒める」ということです。
心からの感謝の言葉を伝えるという意味でもあります。この日本では、簡単にいえば、「ありがとう」と言う感謝を表す言葉ですね。
私たちの日常の悩みは、人間関係上の悩みが中心です。
そうした悩みは、病気や借金の苦しみとは違って、ちょっと心掛けを変えてみることで、ガラリと解決できることがほとんどなのです。
なぜなら、人間関係のトラブルのきっかけになっているのは、ほとんどが言葉遣いですね。
ですから、優しい言葉を使うことに気をつければ、その瞬間から、よりよい人間関係を築けるからです。
 「素晴らしいですね」「大変でしたね」「本当にうれしいです」「感謝でいっぱいです」
苦しい時に優しい言葉をかけてもらったり、自分の苦労や努力をねぎらってもらい、感謝の言葉を言われたりする。
たったそれだけで、人は「やってよかったな」「頑張ってよかったな」と思ってうれしい気持ちになります。
小遣いをもらったり、何かを買ってもらったりするのもうれしいですが、言葉のプレゼントは、それ以上に心にずっと残ります。
うれしい一言は、何年たっても忘れず、自分を励まし続けてくれます。
うれしい一言を相手に届けることができれば、一生、その相手から好意を持たれることだってあるのです。

その通りだと思います。

あとは、

4、自分の身体でできることを奉仕する「身施(しんせ)」

5、他のために心をくばる「心施(しんせ)」

6、席や場所を譲る「床座施(しょうざせ)」 

7、自分の家を提供する「房舎施(ぼうじゃせ)」


を説いておられます。

以下は私の考察ですが、仏の教えって、ともすれば、私たちの住むコミニュティに役立つ教えは、なかなか見つからないものです。
なぜなら仏教は、個の内側に向かって説く教えが圧倒的に多いからです。

つまり、出家した僧に対して、または求道する修行者に対して説かれることが多いのです。
自分の内なる心に問いかけ、物事のとらえ方、考え方を、禅、瞑想、作務、作法、行、読経等を通じて感じ得た真理から己の心の安定を導き出すコツのようなものを説いたのが仏教なんですね。
ですから、仏教は、一般の社会生活を営む人々に対して、いかにすれば円滑にスムーズに利益を獲得したり人の上に立てるかなどとは考えることもせずもちろん、そんな下世話なことなど説いていないのです。

なぜ、その必要がなかったのかといいますと、インドで興った仏教は全て修行者、つまり僧の為の教えで、極端に言えば在家は、出家した僧に施し、布施をするだけで救われるという、徳を積むことだけによって衆生(人々)を救っていたのです。
仏教僧としては、それ以上何を説く必要があるのかといったことだったのかもしれません。

ともすれば、後回しにされていたように思うのですが、財産を持たない、または持てない人々を救うための教えとして、無財の人のための七つの布施の方法を説いたのだと思うのです。これが、仏教の最も核心的教えである「慈悲の心」として的を得ているんですね。

しかし、この教え、特に誰でもちょっと気を配ればできる『眼施』 『和顔施』 『言辞施』の実践は、今の混沌とした時代に、仏の教えとしてもっと布教し、これからの世に生かすことができる気がします。

「無財」というのは現代の日本では譬喩と捉え、「心にゆとりのない人」におき代えたらどうでしょう。

「心にゆとりのない人の七つの布施、心構え」

雑宝蔵経というお経は、多くの因縁物語や譬喩物語を収めた経で、釈尊に関する話のほか、カニシカ王やミリンダ王の物語もあり。『日本霊異記』『今昔物語』などにも影響を与えているようです。

裕福なお坊様も貧乏なお坊様も、裕福な人もそうでない普通の人々も貧乏な人も、人の住むコミュニティで円滑にスムーズに過ごす為の必要な条件、原則。
お坊様や、お寺さんにお布施をして徳を積み救われるだけではなく、直接人の心を和ませ、世の中を明るくするための積極的な心構え(布施の実践)とでもすればわかりやすいでしょうか。

実践することは難しいことではありますが、こんな当たりまえのことが説かれていたのですね。

仏教って、もしかして私たちの住む世の中を良くする教えを説くにおいては、宗派を超え、宗教をも超えるこの『無財の七施』、この教えだけで十分なのではないかとさえ思います。

 「ありがとう」「おかげさま」の気持ちを行動で表す、私たちのコミュニティにおける身近な仏の教えです。

ぜひ、実践したいものですね。


知っておこう! | 17:09:51 | Trackback(0) | Comments(0)

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