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福沢諭吉「脱亜論」 現代語訳
福沢諭吉
Facebookで誰かがアップしていた画像を拝借


今から130年以上も前の明治18年に、1万円札でお馴染みの福沢諭吉が、すでにこんなことを言っていたのですね。
この問題を、今も引きずり、手こずる日本。
どうすればいいのでしょう・・・? この『脱亜論』、参考になりますでしょうか?

以下、1882年に福沢諭吉が創刊した日刊新聞、『時事新報』に掲載された「脱亜論」 の現代語訳です。
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世界の交通の道は便利になり、西洋文明の風は東に進み、到るところ、草も木もこの風になびかないことはない。
西洋の人物は古代と現在に大した違いはないのだが、その活動が古代は遅鈍、今は活発なのは、ただ交通の機関を利用し、勢いに乗じるがためである。
ゆえに最近、東洋の我が国民のために考えると、この文明が東に進んでくる勢いに抵抗して、これを防ぎきる覚悟であれば、それもよい。

しかし、いやしくも世界中の現状を観察し、事実上それが不可能なことを知る者は、世間と共に文明の海に浮き沈み、文明の波に乗り、文明の苦楽をともにする以外にはないのである。

文明は、いまだ麻疹(はしか)の流行のようなものだ。
目下、東京の麻疹は西国の長崎地方より東に進み、春の暖気と共に次第に蔓延するもののようである。

この時、流行病の害をにくみ、これを防ごうとするにしても、果してその手段はあるだろうか? 
筆者は断じて、その手段はないものとする。

有害一辺倒の流行病も、その勢いにはなお抵抗できない。
いわんや利益と害悪がともない、常に利益の多い文明はなおさらである。
これを防がないばかりではなく、つとめてその普及を助け、国民を早くその気風に染ませることが智者の課題である。

近代西洋文明がわが日本に入ったのは、嘉永の開国を発端とする。
国民はようやくそれを採用するべきことを知り、しだいに活発の気風が生じたものの、進歩の道に横たわる時代遅れの幕府というものがあり、これはいかんともできなかった。 

幕府を保存しようとすると、文明は決して入ってくることができない。
なぜかというと、近代の文明は日本の旧体制と両立するものではなく、旧体制を改革すれば、同時に幕府も滅亡してしまうからである。

だからといって、文明をふせいてその侵入を止めようとすれば、日本国の独立は維持できなかった。
なぜならば、世界文明の慌しい情勢は、東洋の孤島の眠りを許すものではなかったからだ。 

ここにおいて、わが日本の人士は、国を重く、幕府を軽いとする大義に基づき、また、さいわいに神聖なる皇室の尊厳によって、断固として旧幕府を倒し、新政府を立てた。
政府も民間も区別なく、国中がいっさい万事、西洋近代文明を採り、ただ日本の旧法を改革したばかりではない。
アジア全域の中にあって、一つの新機軸を確立し、主義とするのはただ、脱亜の二字にあるのみである。

わが日本の国土はアジアの東端に位置するのであるが、国民の精神は既にアジアの旧習慣を脱し、西洋の文明に移っている。

しかしここに不幸なのは、隣国があり、そのひとつを支那といい、もうひとつを朝鮮という。

この二国の人民も古来、アジア流の政治・宗教・風俗に養われてきたことについては、わが日本国民と異ならないのである。

だが人種の由来が特別なのか、または同様の政治・宗教・風俗のなかにいながら、遺伝した教育に違うものがあるためか、日・支・朝の三国を並べ、日本と比較する時、支那と朝鮮はよく似ているのである。

この二国の者たちは、自分の身の上についても、また自分の国に関しても、改革や進歩の道を知らない。

交通便利な世の中にあっては、文明の物ごとを見聞きしないわけではないが、耳や目の見聞は心を動かすことにならず、その古くさい慣習にしがみつくありさまは、百千年の昔とおなじである。

現在の、文明日に日に新たな活劇の場に、教育を論じれば儒教主義といい、学校で教えるべきは仁義礼智といい、一から十まで外見の虚飾ばかりにこだわり、実際においては真理や原則をわきまえることがない。

そればかりか、道徳さえ地面を這うように残酷破廉恥を極め、なおふんぞり返って反省の念など持たない者のようだ。

筆者からこの二国をみれば、今の文明東進の情勢の中にあっては、とても独立を維持する道はない。

われらの明治維新のように、幸い国の中に志士が現れ、進歩の手始めとして政府の大改革を企て、政治を改めるとともに人心を一新するような活動があれば、それはまた別である。

もしそうならない場合は、今より数年たたぬうちに亡国となり、その国土は世界の文明諸国に分割されることは、一点の疑いもない。
なぜならば、麻疹と同じ文明開化の流行に遭いながら、支那・朝鮮の両国は伝染の自然法則に背き、無理にこれを避けようとして室内に引きこもり、空気の流通を遮断して、窒息しているからだ。

「輔車唇歯(ほしゃしんし)」とは隣国が相互に援助しあう喩えであるが、今の支那、朝鮮は、わが日本のために髪一本ほどの役にも立たない。

のみならず、西洋文明人の眼から見れば、三国が地理的に近接しているため、時には三国を同一視し、支那・朝鮮の評価で、わが日本を判断するということもありえるのだ。 

例えば、支那、朝鮮の政府が昔どおり専制であり、法律に従うことがなければ、西洋の人は、日本もまた無法律の国かと疑うだろう。

支那、朝鮮の人が迷信深く、科学の何かを知らなければ、西洋の学者は日本もまた陰陽五行の国かと思うに違いない。

支那人が卑屈で恥を知らなければ、日本人の義侠もその影に隠れ、朝鮮国に残酷な刑罰があれば、日本人もまた無情と推量されるのだ。 

事例をかぞえれば、枚挙にいとまがない。
喩えるならば、軒を並べたある村や町内の者たちが、愚かで無法、しかも残忍で無情なときは、たまたまその町村内の、ある家の人が正当に振るまおうと注意しても、他人の悪行に隠れて埋没するようなものだ。

その影響が現実にあらわれ、間接にわが外交上の障害となっていることは実に少なくなく、わが日本国の大不幸というべきである。

そうであるから、現在の戦略を考えるに、わが国は隣国の開明を待ち、共にアジアを発展させる猶予はないのである。

むしろ、その仲間から脱出し、西洋の文明国と進退をともにし、その支那、朝鮮に接する方法も、隣国だからと特別扱いするに及ばず、まさに西洋人がこれに接するように処置すべきである。

悪友と親しく交わる者も、また悪名をまぬかれない。

筆者は心の中で、東アジアの悪友を謝絶するものである。

明治18年(1885年)3月16日

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と、こんな記事をアップした数日後の今日28日の産経ニュースに、韓国を「諭吉が匙を投げた国」として『脱亜論』の記事が掲載されました。誰の想いも同じなのでしょうね・・・・。
その記事をリンクしておきます。
http://www.sankei.com/premium/news/170828/prm1708280005-n1.html


うんちくひけらかし | 10:05:09 | Trackback(0) | Comments(0)
防衛大臣は、いつまで「裸の王様」を演じるの?
海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」(1万9500トン)
海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」(1万9500トン)
※大戦初中期のアメリカ海軍主力空母であったヨークタウン級航空母艦と同規模


 防衛大臣は、アメリカ合衆国の国防長官に当たり、日本国の防衛の最高責任者です。
アメリカ合衆国は、軍人が任命されることもありますが、日本の防衛大臣は、日本国憲法第66条の規定により、文民統制の観点から文民が任命されます。
この、シビリアン・コントロール。どういったことかといいますと、『軍に対し文民の政治が優先して軍部を統制するという原則』なのですが、国によってその意味するところは一様ではないようです。

 日本の場合は、「天皇による統帥権」の名の下に軍部の独走を許した第2次世界大戦前の歴史を踏まえて、文官(背広組)が軍人(制服組)を統制する仕組みを取っていて、別名「文官統制」とも呼ばれています。

 しかし、憲法第九条では、根本的に「軍隊」どころか「交戦」すら認めていません。日本人がそう宣言していることになっているんですね。

 その為に、憲法作成当初から、「軍隊ではありませんので・・・」と、憲法さんに取り入り、「軍隊」を「自衛隊」と呼んで、軍隊の存在を曖昧にしてきました。
なのに、なぜか今も憲法そのものを崇め奉てまつろうとする人たちが居ます。

 このなぜか・・・という?の部分は、また後日考えることにしますが、国民誰でも、自国の防衛の必要性を否定する人は居ないはずですので、憲法の強引な解釈として、自衛隊は軍隊ではないことにしています。

 なのに、憲法第66条では、文民が最高責任者でないとダメよと、わざわざ明記しているところから鑑みますと、自衛隊のことを憲法下でも「軍隊」と認識して作成されていることになります。

だって、自衛隊が軍隊でないのなら、自衛隊員は文民ですのでわざわざ文民と軍人との違いを明記する必要はありませんね。

そろそろ、ごまかしはやめて、矛盾だらけの憲法を改憲し、矛盾のないようにする必要があります。

 そうでなければ、防衛大臣を誰がやったって「軍隊」ではない「自衛隊」を、大きな矛盾を抱えたまま指揮することになり、「防衛という本筋」を全うできません。
 今回の稲田防衛大臣の辞任劇もこの根本的な事が原因になっています。
自衛隊が単なるお役所なら機密文書などあり得なく、開示できないという事はないはずですが、自衛隊を軍隊とするなら、軍事機密は当然ありますから、全てを開示することなどあり得ませんね。

 野党は、自衛隊を文民の機関としてお役所と同じ感覚で追及していますが、実際に軍隊を指揮する側(政府)は開示できることとできないことを両方重ね持っています。実は、これ、誰でも理解できることだったんですが、憲法論を振りかざし、議論すると、自衛隊の紛争地域での現場仕事は認められないことになってしまいます。

 このままでは、日本の防衛大臣は、誰がなっても、矛盾だらけの憲法という衣服をまとった裸の王様でしかありません。

「自衛隊」は、誰がどう見ても「軍隊」であり、「国防軍」です。

 自衛隊を認めるなら「軍隊」を認めているのと同じですので、自衛隊という名前を「日本国防軍」とすれば良いのではないでしょうか。

 これで、矛盾がなくなり、国防という真の意味での「日本国の平安を護る」ということがどういうことか、はっきり見えてきますね。

この件、前にも詳しく書いていますので、よろしかったらどうぞ。







うだうだ | 09:04:50 | Trackback(0) | Comments(0)

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