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藤野正観のちょっと書いてみます(2017年10月号原稿より) 
2017-10月号用-某寺院に描いた襖絵(蓮池図)より部分 平和とは灼熱の中の涼しい蓮池のような状態
某寺院に描いた襖絵(蓮池図)より部分(平和とは灼熱の中の涼しい蓮池のような状態)


平和を維持すること

 花火をあげるように北朝鮮がミサイルを何発も打ち上げ、テレビでは満面笑顔の金正恩が映し出されています。経済制裁一辺倒で、何の手立てもできずに苛立つ日本政府。
 現憲法下では強靭な戦闘力を持てない我が国は、平和国家として、中立を目指す為の自主的な外交は出来なくなっています。今回は、『平和』についてちょっと考えてみました。

 『平和』という何とも抽象的で魅力的な語は、世界中の温厚な人々の心を惑わしているようです。テレビ等で『平和にむけて』とか『平和の為に』というセリフを聞く時、私はよく心の中で、『平和ってあなたにとって何なの?』と突っ込んでいます。
 『平和』とは、その居場所や心持が穏かで心地よい状態のことをいうと思うのですが、その心持や状態を「維持する努力」とすると、その『平和』という私の認識からは、ほど遠い概念であると気付くのです。『平和』という状況とそれを維持することとは、もしかすると相反することなのかもしれません。
このことをしっかり整理し、考えてから『平和』について発言しないといけないと思うのです。

 『平和』は、「永遠の安寧」「灼熱の中の、涼しい池の上の蓮の上」などのようなイメージを持った仏教用語であると、何かに書いてありました。
 私たちは、ともすれば『平和』を、このような理想的な何かとして捉え、恒久的で争いのない社会を『平和』とし、祈り唱えれば得られる「ご褒美」のように捉えていないでしょうか。
 
 「世の中を平和にしよう」といった積極的平和を構築する場合は、貧困や抑圧された人や差別する人、される人が居ないことを一応前提として考えますが、大抵が特定の人間にとって都合の良い世界を目指すことになり、人のエゴも見え隠れします。
 また、人それぞれの幸福感の充実度と『平和』という状態は、必ずしも一致しないわけですから、ほとんどの国民が不幸であってもとりあえず、戦争のない時を、『平和な時』とすると、思考し安いのかもしれません。
 英語の「Peace」はラテン語の「Pax(パックス)」が語源であり、その意味は「戦争と戦争の間」「停戦期間」「武力による平和」「次の戦争のための準備期間」という現実的な状況の意味だそうで、仏教用語のそれとはだいぶニュアンスが違うようです。

 永世中立国スイスは、銃の保有率が世界4位、殺人率世界一八五位、平和度ランキング五位、核シェルター普及率 百%だそうです。
『平和』の本質を追究し『平和』を実現しているスイス人にとって『平和』とは、『戦争』のない状態に過ぎません。『戦争』を抑止するのは武力と戦闘力と愛国心による、高い戦争能力であるという本質を、スイスという国は見事に示してくれています。
 前の大戦でスイスはドイツ側、連合国側どちらにも付かず、中立を守るために戦った事実があります。
スイス空軍は、双方の領空侵犯機と戦い、なんと半数以上が撃墜されていたそうです。スイス空軍の多くの戦死者が、永世中立を守ったのです。
 平和を維持し、守ることとはこういうことかと気付かされます。


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冊子原稿より | 14:10:44 | Trackback(0) | Comments(0)