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昔の色褪せた紙焼き写真
ネパールのある村にて03
1997年ネパール旅行。釈迦生誕の地ルンビニからカトマンドゥに戻る途中の貧しい村の子供たちに
ビデオカメラのモニターを見せている筆者。この旅から帰国すると出版社は無くなっていた・・・。



3週間ほど前、民放TVのある局の制作部の方より電話があり、ある番組で当工房に訪問したいと言ってきました。
変わったことをしている私と私の仕事に興味があるらしいのです。

気軽に「いいですよ(^o^)」と応えるとさっそく次の日に打ち合わせに来られました。
私の娘位のお年でしょうか、電話の主の女性とアシスタントという若い女性お二人が来られました。

制作局の制作部と名刺にありましたので、たぶんこの方がディレクターなのだと思いました。
小一時間、いろいろお話をさせていただいたのですが、やはりショックなことは、「仏画」という絵画の知識が皆無であったことなのです。
お二人は、仏教のこともほとんどご存じなく、それでもそれなりに興味を持っていただけたようですが、やはり最大の関心事といいますかご興味は私のプライベートなことのようです。私のこれまでの「変わった人生」に興味を持たれたようです。

一週間後に収録しますということで、お帰りになったのですが、私はその番組を時々見ることがあって、以前にも私の知り合いが出演し、、録画をして、観たことがあったのです。
ですので、この人気番組がどんな内容になるかは、うすうす分かってはいたのですが、快諾したことに、多少後悔の念も拭えなくはありませんでした。

ちょうど昨年の今頃も、NHKの「日曜美術館」という長寿番組のディレクターからお電話をいただき、その番組の制作の打ち合わせをしていましたが、本番の収録が今年の1月、放送が2月ということでした。
若い頃から観ていた人気番組で、恥はかけないということで、ちょうど一年前の今年の正月は一夜漬けで猛勉強をしていました――。

話を戻して、この番組スタッフ一行、18日には工房に来られて収録は無事終わったのですが、この番組のディレクターから、編集時に挿入する私の幼いころの写真や私が仏画を描き始めた頃の写真を要求され、久々に古いアルバムを見ています。

思い出します・・・。
それは、ある出版社の仕事一本で、仏画を生業に切り替えはじめた当初、順調に仕事をさせていただいていたのですが、その頃、弟子も7人ぐらい居たと記憶しています。
弟子と言ってもスタッフ的な要素が多く、今のように志をもって私の元に居た人たちではないように、今から思うと、そう思えます。

仕事が順調だったものですから、その弟子たちと、スリランカ旅行、インドネシアのジャワ・バリ島旅行へ出かけたりしていたのですが、3回目のネパール旅行(写真)から帰って来たら、そのお世話になっていた出版社の事務所が無くなっていて、大慌てしたのですが、忘れもしません大雨の夜でした。
帰国し、自宅の最寄りの駅に到着したその足で、大雨の降る御池通りにある事務所に行きましたが、もぬけの殻で、請け負っていた制作の仕事も宙ぶらりんで、行き先不明となりました。
アパートを借りて1年半ほど制作を続けてきた両界曼荼羅も行き先不明のまま、その後、6ヶ月かけて完成させたことも記憶に生々しいのです。(※この曼荼羅は、今も工房付属のギャラリー「京都・仏画館」に展示しています。)

得意先を一気に無くした仏画工房楽詩舎に残った弟子は二人だけでした・・・。

あとの弟子は、仕事が無くなるということに見切りを付けてか、気を遣ってか、一人辞め、二人辞め・・・・その二人を残し、ほとんどが辞めてしまったのです。

当初から、教える人が私で、教えを乞う人が弟子で、弟子は私を「先生」と呼ぶものですから、私は全員、私の弟子だと思い込んでいたのですが、その当時、弟子として私の元に来ていたのは、工房が窮地でも私を信じて残ったその二人だけだったということに気付かされた時でもあったのです。

こういう仕事をしていますと、神仏とでも言った方が適切かもしれませんが、何か大きな力が働き、まるで「人」を選んでいるような、試しているような、そんな出来事がたくさんありました。
また、逆にその大きな力が、この仕事に必要な「人」を招き入れたとしか考えられないような不思議なめぐり合わせ体験もいくつかあります。

「ジタバタせず、この何かしらの大きな力に自分の身を任せ、私の人生も託してみよう・・・」と、なんとなく思い出したのもこの頃です。

20年ぶりに開いた古いアルバムの色褪せた紙焼き写真から、当時のいろいろな思いが蘇ってきます。
1月7日までに、あと数枚の当時の写真を探さねばなりません。




うだうだ | 14:48:41 | Trackback(0) | Comments(0)
藤野正観のちょっと書いてみます(2018年1月2月合併号原稿より) 
2018-1月2月号用 -善峯寺前住職掃部光暢筆による 『善峯寺に集う作家たち展』の立て看板
善峯寺前住職掃部光暢筆による 『善峯寺に集う作家たち展』の立て看板


  職人絵師の本音(その二)

 毎年、十一月の紅葉の頃になると、西国二十番札所の善峯寺で、『善峯寺に集う作家たち展』を開催していると先月号に書きました。
 その記事中で、最近、惰性といいましょうかマンネリといいましょうか、それとも、「老い」のせいか、何事をするにも、全てが面倒になり、新しく何かに挑戦したり、積極的に計画を立て、前に出ようという気が失せてしまった。そんな「老い」に対してそれをを受け止めようとしている自分と、「このままではだめだ、まだ終われない」という、新しく創作家として頑張ろうとする自分が混在していることを正直に書いたつもりなのですが、その先月号をお読みになった同じようなお年ごろの知人お二人から、「私の今の心境を興味深く読んだ。共感する。」と感想を貰いました。

 創作家としては、この惰性的精神構造では、新しい何かを創造することは所詮、無理のような気がしていましたが、記事の最後に自分に期待するようなことを書いてまとめました。
 今の職人絵師としての自分の生き方の延長線上で人生を全うするのが良いのか、もう一度、創作家として新しい画境を開くべきかということでしたが、実はこの、『善峯寺に集う作家たち展』の最終日に、自分の今のモヤモヤした気分を整理できる出来事があったのです。

 それは、最終日の二六日、開場一番に名古屋から来られた四人連れが、入り口から満面の笑顔で一直線に私に向かって入って来られました。そのうちのお一人の五〇歳を前にした女性が、私の目を真っ直ぐ見つめ、こう言ってくれたのです。
「以前よりサイトを通じて先生のことを存じ上げていますが、今日、初めてお会いできて幸せです。最終日の早朝なら会場におられると思い、同じく先生の描かれる仏画のファンの母と叔母と姪と四人でやって参りました。」と、仏絵師の私に語りだしたのです――。
  私は、会期中、初日と最終日の二日間だけ会場に居たのですが、最終日の朝、目が覚めると外は明るく良い天気でしたので、早々に朝食を済ませ、その日は八時半に一人で家を出、九時には会場に到着していました。
 十時の開場を待たず一時間も早く、入り口の障子を開けて、広い境内の会場付近に、看板を立てて準備完了です。
会場の大正時代に建てられた大書院の懐かしい歪んだガラスの嵌った障子越しに温かい朝の陽光が差し込む縁側に腰をおろし、一人ひなたぼっこをしながら、新しく手に入れたスマホをいじっていたところでした。

 三〇分ほど、その方たちとお話しできたでしょうか、気恥ずかしくなるほどの私への多くの賛辞と感謝の想いを聞かされ、「ぜひ、今後も元気でお続けいただきますように。」という温かいメッセージを頂戴したのです。
その言葉が、私の心に深く突き刺さり、その方の話される言葉の数々が、今の私には、「神仏の戒めと励ましの言葉」として心に残ったのです。
 七〇歳を三年先に控えた仏絵師は、自分の今の職人絵師人生をこのまま終えることに、忸怩たる思いがあったのですが、この日の朝、「このまま迷わず進みなさい」と、神仏に目を覚めさせて貰ったような気がしたのです。


冊子原稿より | 09:22:52 | Trackback(0) | Comments(0)

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