投稿日:2018-07-27 Fri

南印度・アマラバティー遺跡から出土した出家シーンのレリーフ
わたくしはこのように裕福で、何不自由なく育ち過ごしていたが、次のような思いが起こった、(ディーガ・ニカーヤ、II、中村元訳より正観がもっと簡約しました。)
誰でも老いること
無学な人は、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れられないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している。
実は、私もまた同じように老いてゆくものであると心から気づいた時、青年期の若さに対するおごりは、消え失せた。
誰でも病むこと
無学な人は、自分が病むものであって、また病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。
実は、私もまた同じように病むであろうと気づいた時、健康時における健康へのおごりは、消え失せた。
誰でも死ぬこと
無学な人は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。
実は、私もまた同じように例外なく死ぬのだと心より気づいた時、生存時における生存へのおごりは、消え失せた。
老・病・死という、命あるものであるならば誰もが避けられない普遍的現実、真理について、若き釈尊は苦悩されていたのですが、仏教の開祖、釈尊の出家のきっかけが、老・病・死は、避けることができないという、気づきにあったことを、明らかにしています。
私、藤野正観は、自分自身が「老い」や「病い」と付き合う67歳の今、やっと、この普遍的現実である「老・病・死」を、心の底から受け入れ、理解できるようになったのです。
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