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師の墓参り
昨日、あまりに天気が良いので、私の図案家の修行時代の師、本澤一雄先生の墓参りをした。
墓は、我が工房と近い。
ここ松室に引越ししてきて始めてのことになる。ほぼ毎年行っているのだが、今年は盆にも行けずに気になっていた。お彼岸は済んでしまったが、墓参りはいつでも良い。
図案家の修行時代には、仏画を制作するのに必要なほとんどの基本的な作画方法、それと描法や伝承方法を学んだ。
もともと、図案家という仕事は、江戸期には存在せず、その役目は、円山派の祖、円山応挙や現在でもその垢抜けたデザイン力を評価される尾形光琳をはじめとする絵師が受け持っていた。
明治の時期に型で染める『型写し友禅染』が考案され、大量に染めることが可能になり、着物のデザイン(図案)画も大量に必要となった。
四条円山派や土佐派等、京で学ぶ数多くの絵師たちが、金銭を稼ぐ為にそのセンスや技量を競って図案を描いたことに始まる。
優秀な図案を残したことで有名な最後の琳派と評される神坂雪佳も四条派の絵師で、明治時代に活躍した。
当時の巨匠、竹内栖鳳と肩を並べたといわれるぐらいの逸材だったそうだ。
図案の需要が増えると共に、その図案を描く専門絵師達が集団化し、差詰め、現代で言うなら「デザイン事務所」とでもいうのだろうか、大正、昭和時代に入ると着物の爆発的な需要により、京の町にはいくつもの私画塾が生まれ、図案を専門に描く弟子を募り育てるようになった。
と、いっても描くものが、着物・帯をはじめ、陶器、蒔絵、襖絵に至るまで、和の生活空間を装飾するといった日本独自の美術工芸品の元となる「図案」なので、その描法や元になる美意識は、京で学ぶそれぞれの画塾に属する絵師たちの作画・表現法とその技術の伝承そのものだった。

西洋の芸術的美意識を目指すのが美術学校。日本の生活空間における美意識を構築するのが職人絵師。
明治に入るとその二つの美意識(絵画文化)に分かれた。 絵画制作における技術やその精神性は、芸術性ばかり追うことによって学校制度では伝承されにくく職人絵師の伝承方法(徒弟制度)にだけそれが受け継がれた。

私の今があるのは、その弟子時代を過ごしたことにある。つまり、私自身が仏画制作の為、アレンジ工夫したとはいえ、その基本的な描法を受け継いだことで、現在の私の弟子たちにも脈々と受け継がれていることになる。

ということで、これは、私の直接の師ではあるが、私の現在の弟子二人にとっても師に当たる。
午後1時前、その二人と、お手伝いの女性一人と私。自転車で師の墓の有る嵐山の法然寺に向った。
嵐山・渡月橋には、自転車だとものの10分で到着する。渡月橋を渡るとJR嵯峨野線の踏み切り手前にその寺と墓はある。

自転車で着くと、今の工房と非常に近いところに師が眠っていることにあらためて気がつく。
線香に火をつけ、彼岸に身内が供えたと思われるまだ青さが色濃く残る樒に水を足し、全員で手を合わせた。

「私の育てた弟子たちが、苦難を乗り越えて一人前になってくれますように、先生も助けてやって下さい・・・合掌。」

墓参りを済ませ、渡月橋を渡る頃、先日、早朝に行った「気になっていた絶景ポイント」に寄り道して行くことにした。
最近、死ぬ前の足掻きなのだろうか、工房までの7kmを自転車で往復したり、この日の朝には、往路7Kmプラス松尾橋から渡月橋の4Kmほどをすでに一周している。
この体力なら30歳前後の若い弟子たちにも、ある程度ついて行けると確信していた。
が、現実は違った。
やはり、無理だった、自転車で急な坂を上るスピードも、長い石段を上がるパワーも・・・、まだまだ鍛錬しないと、若者にはついていけないことを思い知った。

彼等と一緒の愛宕山登山などまだまだ無理かもしれない・・・。

突き出た岩の間をゆったりと流れる保津峡の乳緑色の流れには、前の早朝に来た時とは違い、川下りの船が多くの客を乗せ亀岡方面から次々と下って来る。
客が我々を見つけ、手を振る。我々もハンドルから片手をはなし、大きく手を振る。
弟子
道の突き当たった所に自転車を停め、弟子たちに「もう少し登るスピードを配慮しろ!」と文句を言いながら、息を切らしながらも、その先の石の階段を登る。結構きつい!
やっとのことで、あの看板にあった山の上の大悲閣千光寺に辿りつくと、寺男と思われる男性二人が、集金に近寄ってきた。一人400円の入山料を納めると、朽ち果てかけた小さな建物の中に入れと言う。
例の『絶景ポイント』『great view』だ。
なるほど、目の前に比叡山、左には仁和寺の塔、双ヶ丘、京の町、東山三十六峰等が見渡せる。
美しい景観に、ひととき心を奪われる。
内部  大悲閣 千光寺

三方が障子で囲われた内部には、北側に佛壇があり、幾つかの座卓が並べられ、その上には氷入りのペットボトルに麦茶が入れてあり自由に飲めるようにしてあった。その周りには数多くのノートがあった。ここを訪れた人々の徒然なるままの記なのだろう。
開けると、結構人が訪れていることがわかる。境内?は100坪もあっただろうか?
本尊のある本堂も、叱られそうだがまるで野小屋のようで、ビックリした。
かつての本堂は台風で壊れたそうだが、現在の本堂をどうするつもりなのだろう・・・仮本堂のまま時が経過し、今では「この趣が訪れる人々に愛されている」と住職が言っていると、その真っ黒に日に焼けた寺男は言う。
臨済宗の寺だそうだが、どこかの本山には属さず、よくわからないが単立寺院ではなく、単独寺院なのだそうだ。
夢窓国師(夢窓疎石)の座ったとされる坐禅石がある。本当らしい。天龍寺にあれば、触らせてもらえないと思う。
夢窓國師
その寺男の流暢な説明と、専門的なお話、楽しいおしゃべりに、ほっとするひと時を過ごし、嵐山中ノ島公園にて大好物のソフトクリームを頂いて、工房に帰った。3時を過ぎていた。
「私が死んだら、お前たちもせめて年に一回は墓参りして、顔を見せてね」と弟子たちに御願いをしてみた。
すると「先生、どこに眠るんですか?」と返ってきた。
私の親の墓は滋賀の東近江にある。先祖代々の墓とある。私は、その墓に一緒に入るのだろうか・・・?」
そろそろ自分の入る墓を何処にするか考えておかないと・・・・。

あぁぁァ・・・(^^;
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うだうだ | 11:19:16 | Trackback(0) | Comments(0)
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