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靖国神社公式参拝に思う
今年も8月15日がやって来る。その終戦記念日に、公人が靖国にお参り「する」「しない」でザワザワと日本中が騒がしくなる。そこで、私なりに、今の私自身の考えや想いをまとめてみた。

今年も、真宗教団連合が『非戦平和を願う者』として、首相に靖国神社公式参拝をしないように要望した。また、全日本仏教会も、『政教分離』の立場から公式参拝をしないように要請した。

以下、リンク
真宗教団連合の要望 http://www.shin.gr.jp/activity/offer/doc/20130805.html
全日本仏教会の要請 http://www.jbf.ne.jp/assets/files/pdf/548yasukuniyousei/20130805yousei.pdf

この要望・要請の文言を読むとき、私はいつも違和感を覚えてしまう。

私はてっきり、「一向専念無量寿仏」(阿弥陀仏一仏を信じ、他の仏や菩薩、神を拝んではなぬ)を生涯叫ばれた親鸞聖人を祖師と仰ぐ、浄土真宗の立場では、靖国神社という、神を拝むという行為は、当然反対すべきものだから、反対されるのだと思っていた。
しかし、この声明文を読むと、「世界平和」だの、「非戦平和を願う者」だの、ちょっとまどろっこしい表現が気になった。

平和には、『消極的平和』と『積極的平和』があり、消極的な平和は信心による個人の心の平穏をいい、信心の強さでどんな過酷な環境でも心を平穏に保つことができるということで、社会システム(秩序)における平和をいうものではない。

修行を積んだ完璧な仏教徒で、万人がその境地になれば、社会秩序は保たれる。
つまり「平和」ということになるわけだが、あくまで宗教的理想であって、仏教でいうなら、現代日本のサンガ(僧の集団・組織)でさえ、民主的ではあるものの権力闘争など露骨にあって、平穏な状態とは言いにくいのが現実だ。

一方、積極的平和を願うなら、やはり防衛的武力は必要で、平和な秩序を乱そうという者が居れば阻止したり、平和な社会を維持しようとすれば、その「境」を防御しなければ、その内の平和維持はできない。
平和な世界と平和でない世界との境を無防備で放ってはおけない。

つまり、消極的な『非戦平和を願う者』では平和を維持できないし、『非戦平和を願う者』は、平和を維持する者にお世話にならないといけないことになる。

今のチベット仏教の指導者がそうするように、力で制圧しようとする相手に力を用いないで彼らの平和を勝ち取ることは不可能なのだ。
いづれ、『積極的平和』を望む者が『非戦平和を願う者』に代わって、自前の武力、もしくは他者の武力を借りて命がけで戦う時が来るのかもしれない。

このことから、先の大戦で命がけで平和を守ろうとした先人に対して敬意と感謝を表することは、あたりまえの気持ちであって、宗教者として、もっとも忘れてはならない、尊い心持ちだと思う。

政教分離の本来の精神は、確かにその成り立ちから靖国神社の存在が気になるところではあるが、今では緩やかな政教分離という考えが主流で、穏やかであるべき仏教徒が、声を荒げて発するような、たいそうな政教分離ではなくなっている。
もし、これを厳格に受け止めるなら、権力側にある公明党の存在や、宗教者の参政権剥奪等、非現実的な対応が必要となってしまう。

宗教法人である以上、どんな宗教団体も、たぶん、すべてにおいて民主主義の原則でその集団内の権力構造が成り立っていると思うし、一方では、政治が宗教に関与してはいけないといった政教分離本来の考え方もすでに無意味になっている。
民主主義が確立された日本社会には、もう、無用の法律ではないかと思う。

靖国神社は、天皇を神とし、主に先の大戦で国民の為に命を懸け亡くなった人達を合祀し、尊い存在(神)として祀ったもので、いわゆる神話に出てくるような神々が祀ってあるわけではない。

通常、宗教によくある、教義は無い。日本の八百万の神々を祀る神道は、「教え」なるものは発信していない。
お参りしようがしまいが自由なのがいわゆる古くからある神道の基本的なスタンス。
人どころか、狐や狸、蛇、それに山や川等、森羅万象すべてが、感謝の対象であるのが日本の神道文化である。

よって、神道系新興宗教は別として、教義のない神道は宗教ではないと捉えるほうが妥当かもしれない。

むしろ、ある宗教団体が、その信者の代表のようなふりをして、その教義解釈から派生した政治的なご意見を借りて、公人といえども個人の信教の自由を否定する事のほうが違和感を覚えるし、本来あるべき平和を求める宗教団体の代表者が摂るべきことではないと思う。危険である。


余談だが、そもそも、日本では仏教も明治までは仏道といって悟りを開くまでの道を説いた。宗教という言葉も明治以降に概念が輸入され造語された言葉だ。
明治前までは、仏教と神道は融合し協働していた。

明治維新直後に政府は神仏分離令を発し、「神道は宗教ではない」として天皇を現人神(あらひとがみ)とした「国家神道」をつくり、その一方で仏教は異端邪説として激しい廃仏毀釈を行なった。

これにより日本の精神文化を支えてきた神仏運営システムが国家によって強制的に分離させられ、「国家神道」は天皇制のバックボーンとなり、戦争の道へと進む為に創り利用され、「神」は神社に、「仏」はお寺にというように、別々のものとした。
しかし、この神仏分離政策はあくまでもシステムの分離となっただけで、結果、神仏融合思想は何等変わらず、人々は神仏を同じように崇めた。
むしろ現在では、神社と寺院が明治以前の神仏融合思想に戻るように、お付き合いを再開し始め、その具体的な協働を模索している。

話を戻すと、宗教団体固有の考えや教義上、どうしても靖国神社にお参りしたくない人はお参りしなければ良いだけなのだが・・・。
でも、お参りしたいけどできないといったお立場の信者さんは不幸だと思うが、今回要請や要望を出したこれ等の宗教団体の代表者は、こういった信者さんをどう扱われるのだろう・・・。

それでは、本題の大臣や首相など公人はどうなのだろう・・・。
私は思う。公人である前に「人」であるわけだから、その心が自由でないとおかしい。国民の操るロボットではない。
仏教徒でもキリスト教徒でもイスラム教徒であっても、心ある日本人として自由に行動すればよいと思う。
公人参拝を受け入れられない人は、選挙という民主的な意思表示システムがあるので、靖国神社に参るかもしれない人を議員に選ばなければ良いだけである。

いづれにせよ、倫理観や道徳観は、確かな宗教観から生まれ、その倫理観や道徳観を元に憲法や法律が作られていることを忘れてはならない。
事細かな法律ばかりが増え続ける現代社会はその国の質の低下を意味する。
いつまでも「過去を自虐的に捉え過ぎた政教分離」などと言っていないで、そろそろ確かな宗教、私の場合は、神仏融合仏教だが、政治はそれを積極的に受け入れ、それに裏打ちされた確固たる理念をもって新しい憲法を制定し、国を運営して欲しいと思っている。

ところで、私自身はというと、東京には何度か行っているが、靖国神社には立ち寄ったこともお参りしたこともない。
誰かに強制的に行けと言われることもなく、お参りする機会がなかっただけで、お参りには行けていない。
特に、わざわざ東京まで出かけてお参りしようとも思わない。

ただ、先の大戦で日本の平和を守るために、命がけで戦ったすべての先人達に、感謝の意を込めて手を合わせることを惜しまないし、その想いを汚したり否定することは、私にはできない。


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