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図案家のルーツ
先日、ふとしたことから、明治期に活躍した図案家の名前を目にしました。
飯田始晃という図案家で、私の師と同世代である大先輩の師ということです。 興味を持って、ネットで調べますと、アマゾンで「飯田始晃筆 小倉百人一首」という古本が売っていました。ポチッとすると、3日後には我が工房に届きました。古本なので、宮崎県の古書店からの郵送でした。それでも、早いものです。
さっそく、この本を開きますと、昔、私も勉強したことのあるあらゆる古典といいましょうか伝統的な絵画が懐かしいタッチでそれぞれの歌に沿って描かれています。我が国の伝統絵画で装飾されたこれもまた国の代表的文学である「百人一首」。
美しい本です。

その本の末頁に、解説があり、私の「仏絵師」としてのルーツである「図案家」の歴史にも触れてありましたので、あまり、世に知られていない京都における図案家という職業絵師の成り立つに至った歴史の一端をネット上に残す意味で、OCRで読み取り、その部分となりますが以下に記録しておくことにします。


飯田始晃筆 小倉百人一首歌絵    
藤井健三(染織研究家)解説より部分 芸艸堂発行

iida


近代の王朝美と図案家・飯田始晃

 明治初めの染織図案の発展は、友禅染下絵を手掛けた日本画家の岸竹堂榊原文翠今尾景年らをはじめとした日本画家らによって形作られるようになった。
維新後の経済成長に伴って、多くの国民による絹繊維の利用ときものの普及が友禅模様図案の需要を増し、急成長した手描友禅や型友禅染の発展が、多量の図案を必要としたのだった。
また一九〇〇年に開催されたパリ万国博覧会の影響から海外の意匠図案が注目されて、美術や流行性の高い図案が求められだしていき、そこから現役の画家ばかりでなく美術学校を出た優秀な人材が図案家として育っていった。
こうした有能な図案家に京都の丸紅伊藤忠合名会社の意匠部で、裾模様を描いていた山本雪桂がいる。
雪桂は京都生まれで先輩の古谷紅麟雪山兄弟を師として、独特な京都風の図案を完成していた。
紅麟と雪山兄弟は近代琳派を創世した工芸図案家の神坂雪佳の弟子であり、雪桂もその孫弟子となって近代琳派の図案家として活躍する。ただ紅麟が雪佳の画風を得て美術工芸風だったのに対し、雪桂は産業的な独自の近代琳派を表していった。

 この山本雪桂に就いた図案家の一人に飯田始晃がいた。
始晃は明治ニ十九年に大阪で生まれ、幼い頃に京都へ移って育ち、書画に特別な才覚をみせていたという。成人後は別府市に移って絵画教師になるが、大正九年に再び京都に戻って山本雪桂の門に入塾し、図案家を志して日本画と友禅図案の技術を修得する。
その頃に、雪桂の弟子達が集まって設立したのが「桂友同机会」であり、雪桂を顧問に始晃を始めとして河原崎晃洞、磯田存在、宮川叢平、都路帖陽、下倉不宵、宮川麗明、竹内雪華、中川巌らがいた。「社友同机会 第一-三〇」、「秋物服飾図案創画集」、「創苑帖」、『四季花卉の巻一-一○輯』、「源氏模様」、「創華集」、『新考能楽模様』といった人気の図案書を多数刊行した。

 この桂友同机会でとくに活躍したのが始晃と河原崎晃洞(奨堂)であり、師の雪桂が優雅で鷹揚な図案を著したのに対して、弟子の二人は繊細優美で技巧的な図案を得意としていた。独立後の始晃は昭和三年に「晃友会」を組織して、『晃友』、『方圓帖』を刊行して独自な図案世界を確立していった。
そうした析、始晃は昭和七年に佐々木信綱著の著す『百人一首講義』を読んで特別な想いをすることとなり、独白の絵風で百人一首の歌絵を描きたいと発念して製作にかかる。
早くも、昭和十年に描き上がった一部を極彩色摺りの木版画で『小倉のにしき』と題する第一巻を芸艸堂から刊行し、昭和十二年に構想より五年有余を経て全五巻を完結する。

飯田始晃の『小倉のにしき』

 始晃が『小倉のにしき』を著した昭和十一年頃は第二次大戦を控えた五年前で、日中関係のみならず世界との関係が一段と深刻になっていった時期である。
満州事変を経て中国北東部満州に傀儡政権を作って大陸への侵略を進めようとしていたし、天皇機関説が唱えられたり二・二六事件があって国情が騒然としていた。社会政党もファッショ化を進めて世に軍国の風潮が増して国際連盟の脱退へと進んで国政が極右へと傾いていた。
また昭和初期はプロレタリア文学が退潮して、文芸復興の波のもとに耽美的なロマンス文学が喜ばれだしていたし、絵画の世界も新時代の後期印象派やキュビズム(立体主義)、フォービスム(野獣派)といった西洋の流行を受けて洋画界が独自な新世界を開いていった。
一歩リードする洋画界を倣って洋行によってのみ新しい境地を模索していた日本画の世界は、日中戦争を間近にして自らの立場を捕らえかねて動揺していたのだった。
世の動きと共にそれは洋化から和様へと方向転換を見せ、古典の東洋絵画や歴史画の復活へと向いていったのである。

 欧米から渡ってくる大胆なモダン意匠に洗脳されながらも、戦争を目前に右傾化していく国民感情の狭間で、歴史画や古典美術、伝承図案が回帰していく様了が見られた。
洋風のみを由としない和装の図案家達が、王朝風の描写や花模様で美的感性を際立たせていたのであって、そんな古典文様をモダンな明るい色調で、流行の大胆さを明快に表した和様図案が作られた時期だった。
また、こうしたモダンと伝統の極端が入り交じる図案界の流行事情を受けて、日本画や洋画はややもすると古典的な表現にのめり込まざるを得ない時代感があった。
始晃自身も絵画性の強い美を図案に求めて、歴史と文学性のある華やかな王朝美を現代感覚で表そうと試み、有職故実を踏まえた自然な写生描写で描いた。
ただ始晃の著した「小倉百人一首歌絵」は、図案というよりは絵画の意識で描かれたのはいうまでない。

 またこの頃に風俗的ではあるが、関西の宝塚少女歌劇団の俳優名の多くが『百人一首』に因んで命名されている。
歌劇団開設の大正二年から戦前までの人勢が、そして以降も多く見られる。
年配者の知る「雲井浪子」や「天津乙女」「小倉みゆき」「霧立のぽる」、戦後でも「神代錦」「淡島千景」「越路吹雪」「小夜福子」「存口野八千代」らがいる。大正から昭和前期とはそんな風だった。
 始晃の『小倉のにしき』には特徴のある絵様が幾つか指摘できる。
その一つは「道長取り」などの継ぎ紙装飾による意匠構成であり、二つに古典の装飾経に見る模様表現や山水屏風に貼付される色紙取り、また絵巻や絵伝の風景の図法など古典的な図画技法の応用がある。
こうした執拗な古典画に対する技法研究が知れる。

 道長取りの継ぎ紙装飾による構成は、天智天皇、柿本人麿、光孝天皇、在原業平、藤原敏行、中納言兼輔、壬生忠見、清原元輔、藤原道信、儀同三司母、和泉式部、紫式部、源俊頼、後京極摂政前太政大臣の図に見られ、十四図以上に及んでいる。また古典の装飾経や装飾色紙、粘葉装冊子に見られる繊細華麗な模様表現は、持統天皇、猿丸太夫、三条右大臣、皇嘉門院別当の図に窺え、さらに山水屏風に貼付される色紙の構図は、山部赤人を始めとして多くに見られる。
絵巻や絵伝の風景の図示法による図は、中納言家持、喜撰法師、素性法師、菅家、源宗于、壬生忠岑、恵慶法師、右大将道綱母、大納言公任、崇徳院とすこぶる多い。源氏絵や大和絵の描法は、阿倍仲麻呂、小野小町、僧正遍昭、伊勢、藤原義孝・実方、儀同三司母の図に見られる。

 他にも浮世絵風や蒔絵調もあり、『源氏物語絵』から引いた図柄や狩野派風の絵もある。近代では幸野楳嶺や今尾景年らの巨匠画家の絵を彷彿させるものがあり、同僚の河原崎晃洞の図案さえも思わせることがあって、参考や応用する于本の範囲が限りなく広い。
 『小倉のにしき』で始晃がこうした技法を駆使するのに参考にしたのが、『西本願寺三十六人家集』や『平家納経』、『佐竹本二十六人歌絵』である。
『西本願寺三十六人家集』は藤原公任が撰んだという三十六歌仙の家集を集めたもので、三十六人集の古写本でもっとも古く、書は藤原定実・定信親子ら二十人ほどの能書家の筆になり、料紙の美しさと併せて平安後期を代表する工芸品である。
全体で三十九帖が西本願寺に伝えられるが、伊勢集と貫之集が粘葉冊子の形を解体して、昭和四年に一葉づつの断簡に分割されて好事家の手元に割愛されて話題になった。
約六十種類に及ぶ文様の装飾唐紙や羅紋紙をはじめ、紫や紅、藍色紙や量し染をした染紙をちぎって継ぎ合わせる継紙装飾は、この上ない優美で華麗なものであった。
当時に印刷物で紹介されたのを利用したのだろうし、この継紙技法は染織図案に応用されて、「道長取り」と呼ばれて今日の染織意匠の代表にもなっている。

 始晃が『小倉のにしき』を手掛けるのに好機といえる『西本願寺木』の公開があったからこそで、その意匠が『小倉のにしき』に、ふんだんに応用されている。また、佐竹家に伝えられた似絵の画人藤原信実が描いたといわれる『佐竹本三十六人歌絵』が、その前の大正八年に各歌仙が切断されており、これなども始晃の図案資料として重要なものとなっている。
さらに、木版技術や印刷技術がさらに発達して『平家納経』や各種の絵巻、絵伝が模写や模刻、印刷されるなどして、『小倉のにしき』を描くに十分な態勢が世の中に見られたのである。
『平家納経』の金勧を使った優美な砂子に切箔や野毛箔の技法が、「小倉のにしき」の歌絵に華麗に再現されているのである。              (染織研究家)

参考本 『だれも知らなかった《百人.首》』 吉海直人 春秋社




神坂 雪佳(かみさか せっか、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和17年(1942年)1月4日)
近現代の日本の画家であり、図案家。京都に暮らし、明治から昭和にかけての時期に、絵画と工芸の分野で多岐にわたる活動をした。本名は吉隆(よしたか)。
京都御所警護の武士・神坂吉重の長男として、幕末の京都・栗田口(現・京都市栗田口)に生まれる。1881年(明治14年)、16歳で四条派の日本画家・鈴木瑞彦に師事して絵画を学び、装飾芸術への関心を高めたのちの1890年(明治23年)には図案家・岸光景に師事し、工芸意匠図案を学ぶ。琳派の研究を始めたのはこの頃であった。1901年(明治34年)には、イギリスのグラスゴーで開催されたグラスゴー国際博覧会 (Glasgow International Exhibition) の視察を目的とし、世界各地の図案の調査を兼ねて渡欧。当時のヨーロッパではジャポニスムが流行し、日本美術の影響を受けたアール・ヌーヴォーが花開いていた。神坂もそこで日本の優れた装飾芸術を再認識したという。 琳派に傾倒し、デフォルメ、クローズアップ、トリミングを用いた大胆な構図や「たらしこみ」の技法など、琳派の影響を受けながらもモダンで明快な作風である。染織や陶芸・漆芸など暮らしを装う工芸品の図案も積極的に行った。蒔絵師の神坂祐吉は雪佳の実弟で、雪佳が図案した作品も多い。 1942年(昭和17年)1月4日、77歳で死去した。

鈴木瑞彦(すずき ずいげん1848-1901)
日本画家。京都生。号は文昇・松夢斎。画は塩川文麟に、詩文は市村水香に学んだ。内国絵画共進会や内国勧業博覧会などで褒状を受賞。のちに京都美術学校の教授として後進の育成に努めた。明治34年(1901)歿、54才。

岸光景 (きし-こうけい1839-1922 明治時代の図案家)
天保(てんぽう)10年9月15日生まれ。父岸雪にまなび,土佐派,琳派(りんぱ)などの影響もうける。内務省,大蔵省の製図掛となり,図案の改良にあたる。石川県や京都などの陶業・漆業地で図案を指導し,香川県に工芸学校を設立するなど,美術工芸の振興につくした。
帝室技芸員。大正11年5月3日死去。84歳。江戸出身。号は無宗。

岸竹堂(きし ちくどう 1826年5月28日生まれ: 滋賀県画家)
岸 竹堂は、日本の幕末から明治時代に活躍した日本画家。幼名は米吉、名は昌禄、字は子和、通称は八郎。竹堂は号で、他に残夢、真月、虎林、如花など。岸派の4代目で、明治期の京都画壇で、森寛斎、幸野楳嶺とともに3巨頭の1人に数えられた画家である。 ウィキペディア

榊原文翠(さかきばら ぶんすい日本画家。江戸生 明治42年(1909)歿、86才)
幕臣榊原長基の子。幼名は芳太郎、名は長敏、別号に佳友・鶴松翁・気揚山人。初め谷文晁の門に入り、のち大和絵を描く。有職・歴史的人物画を能くする。京都に住した。


今尾景年(いまお けいねん 画家 1845年9月13日~ 1924年10月5日, 京都府 京都市)
今尾 景年は、日本の明治から大正にかけて活躍した四条派の日本画家。幼名は猪三郎、のち永観。字は子裕。景年は画号で、別号に三養、聊自楽、養素斎。 色彩豊かな花鳥画を得意とし、「綺麗濃褥」と評された。 ウィキペディア




うだうだ | 10:18:48 | Trackback(0) | Comments(0)
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