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安達原玄先生のこと
本日、群馬県から当工房付属のギャリー、仏画館に来客があった。
今月の28日からこのギャラリースペースで両界曼荼羅を描き始めるので、この仏画展示ギャラリーを2年間ほど閉めることになっていたのだが、ぎりぎりセーフだった。

二階の工房で、当麻曼陀羅と小品の制作。
同時に一階のギャラリースペースを工房にして両界曼荼羅の二作を並べて制作しようとしているわけだから、この年齢にして、たいへんな肉体労働となることは確実である。

この来客、たまたま、当工房で修行中の弟子の実家と近いという事で、その弟子に対応してもらった。
世間というのは狭いもので、弟子の母親の実家も良くご存知ということのようだった。
その方はお年が64歳ということで私と同じ御年。
山梨県の安達原玄先生のところで写仏を習い、退職後3ヶ所の教室で写仏を教えておられるということだった。

その方のお話の中で、今月9日にその安達原玄先生がお亡くなりになったとのことをお聞きした。

安達原玄先生といえば、2002年に私の故郷、五個荘町(現東近江市五個荘)主催で、『藤野正観の仕事展』を催してもらったことがある。
初日だっただろうか、京都から車で毎日出かけたのだが、開館前の早朝の入口に、緑色のドレスに身を包んだ上品な中年の女性が、入口を脊にこちらを向いてたたずんでおられた。

私が近づくと、その女性も近寄って来られ、挨拶を受けた。

「安達原と申します。藤野先生でいらっしいますか?」 安達原・・・? 「あぁ、あの安達原先生ですか!」とビックリする私。

私が仏画を描き始めようと、手当たり次第に資料本をかき集めていた頃、その中にこの安達原先生の書かれた、「写仏教室」という本もあったことを思い出した。

こういった類の写仏や仏画の教本で、仏画とはこういうものか、出版された先生方には悪いがこの程度で良いのか、この程度の描画力でいいのかなどと、それまでの自分の勉強してきた描法に確信と自信を持つことができ、当時の仏画制作の現状を知ることができたわけである。

朝から昼過ぎまで、ご一緒に食事を摂りながら、いろいろお話をお聞きしたり私も仏画に対する思いを語ったりと話が弾んだ。

その長い話の中で、印象に残った話で、今も気になっていることがある。

先生がお亡くなりになったとお聞きして、未だに私の仏画に対する想いが伝えられていないことが心残りであり、かといって、その役が私にとって適人かどうか、自信がないところでもあるのだが・・・。

その話というのは、こうだ。

その当時、私が中外日報にエッセイかコラムか何か知らないが書かせていただいていた。
隔月で6年ほど続いたと思う。

その記事の中で、現代の仏画関係の出版物や仏画教室、そして描法が、あまりにも素人相手の無責任な指導内容に対して疑問を書いたのだが、先生はそれをお読みなって気になっておられたらしい。

「私は、曼荼羅に出会い、その白描を写すことで満たされ幸せを感じている。その幸せを一人でも多くの方にも経験して頂きたくて、勧めもあって本を出版した。
(写仏)と言う語句も、日貿出版社の石田編集者と造語した。このことに後悔はしていないが、確かに先生(私)の言われるように、伝統的な仏画の制作を目指す方にとっては間違いが多いと思う。
自分も仏画展の案内を頂き、東京に出向いてもがっかりすることが多い。これも、私がこういった素人にも描けるといった写仏を広めたせいで、伝統的な仏画の制作と勘違いされた方が増えたのではないかと思っている。このことに責任を感じている。
今日、山梨から出向いた理由は、伝統的な仏画を制作されている先生(私)に仏画の体系化をお願いしたいという思いで来たのです・・・。」
簡単にまとめると、こいうことだった。

私は、当時はまだ52歳で、仏画を描き始めて未だ18年程度。
まだまだ駆け出しの仏画制作者で、今もそうだが、いただいた仕事を一生懸命しなければご飯が食えない身だった。
なので、「仏画の体系化など、現役を退いてからのご奉仕仕事ですね。」などと、こんな意味のことを、お伝えしたのを覚えている。

今年の10月で、私は65歳になろうとしている。

せっかく、遠方から来て頂いた先生に対し、あの時の私の返事は、あまりにも現実的で生活じみていて、先生の想いや期待にまったく応えられなかった。

私の考え方をきちんとまとめて、お知らせせねばと、ずっと気になっていた・・・。
いづれ、手紙を書いて読んでもらおうと思っていたが、さて書こうとすると、構えてしまいうまくまとまらなかった。
その後、先生からのお手紙や展覧会のご案内をいただく度に、そのことが気になり、先生への申し訳ない思いが増幅していった。

私の母親と同じ年の86歳で、あちらへ逝かれたことになる。
私が初めてで最後にお会いしたのが、逆算すると73歳だったということになる。
そんなお年だったとは、あのソフトで燐としたお姿から感覚的に感じ取れていなかった・・・。

このページを借りて、先生のご冥福を心から祈念しよう――。



仏画 | 18:06:25 | Trackback(0) | Comments(0)
京都・仏画館のただ今の陳列作品


京都・仏画館
は、8月末の「西院曼荼羅復元図」の完成披露展に続き、元禄本の両界曼荼羅(仏画工房 楽詩舎蔵)の写本をメインに展示替えをしました。

今回の完成披露展では、あらためて、曼荼羅のファンが多いことを再認識したわけですが、実は、当工房には、1997年に彩色が完成した、東寺に伝わる元禄時代に描かれた元禄本の縮小図があったのです。
縮小図といっても、先日、展示した「西院本」と同じぐらいのサイズです。

2年を費やして描き上げたまでは良いのですが、依頼してきた、ある出版社が内部崩壊の末、解散。責任者の社長さんも担当者も行方不明・・・。どこの寺の依頼であったかも分からず、結局、無収入のまま2年が過ぎたことになります・・・。

ということで、当工房に残ったのが、幸か不幸か、この曼荼羅です。

でも、この曼荼羅、過去に何度か自治体や新聞社で催していただいた「藤野正観の仕事展」では、メインの作品として会場を盛り上げてくれました。

なかなか、貧乏工房がこんな大作を手元に置くことはあり得ません。

また、ご寺院では、内陣に掲げられ、間近では観ること、拝むことができません。

ぜひ、ここ、仏画館に来て、仏画に癒されて下さい。 入館は、無料です。

京都・仏画館




仏画 | 10:53:32 | Trackback(0) | Comments(0)
曼荼羅とオーブ?
曼荼羅完成披露展

2014年8月29日から31日まで、2年間に渡って描いてきた「両界曼荼羅」の彩色完成披露展を、施主のご厚意で開催した。
たった3日間だけだったが、200名以上の仏画ファンにゆっくりご覧いただくことが出来た。

東寺に伝わる彩色曼荼羅では世界最古といわれる「西院曼荼羅(伝真言院曼荼羅)」を写した。施主のご希望だ。
どこの国で描かれたのか、どんな描き手なのか、その描法も、いわれも、何も特定できていないミステリアスな曼荼羅なのだ。
他に例を見ない、その隈取技法や面相などから、請来本とも言われる。インドらしい趣から、インドの仏画が中国に渡って、日本に入って、日本の大和絵師が、縮小して写した・・・など説がいろいろあって、楽しい。

その曼荼羅の写本が完成したので、仏画に関心のある方に観てもらおうと、各紙(京都新聞・読売新聞・毎日新聞・中外日報等)に広報をお願いした。
29日の朝には、ひっきりなしに電話が鳴り、新聞の威力を思い知った。
3日間だけというので、小さなギャラリーは、ほとんど誰も居ない状態はなかったように思う。それでも200名超えだそうで、人数的にはたいしたことはないのだが、来られた方々は皆さん、仏画や曼荼羅に関心のある方たちばかりで、案内係りの弟子たちも質問にタジタジだった。

今回の披露展は、まだ納まる前の曼荼羅、何かあってはいけないと防犯カメラを設置して、監視していた。
実は、曼荼羅制作は2年間工房の場所が塞がるので、このギャラリーの床にベニヤ板を敷き詰め、ここで描いていた。つまり、ギャラリーは2年間閉鎖状態だった。

曼荼羅を描き終え、大きな布を掛けてその日の作業を終えるわけだが、そろそろ完成するといったその頃赤外線カメラを設置した。披露展の3日ほど前だ。

モニターでチェックをしていると、曼荼羅の上を不思議なものが飛んでいる。 赤外線に映し出されたそれは、まさしくあの白い半透明の球体、オーブだ。

下のビデオに映りこんでいるそれよりも10倍くらい大きなサイズだが、設置した当初は、ビデオボタンがあるのを知らなかったので動画はない。
インドのエローラ等で撮影した写真に写りこんでいたあれだ。静止画なので、埃か何かが、たまたまフラッシュに映りこんで映ったのかもしれないと、100%信じてはいなかったこともあり、今回の動くそれを見た時は、感動ものだった。

怖いとか気持ち悪いとかそんなおぞましい気持ちというより、何か清らかな何かを見たといった感じなのだ。心が洗われるようなそんな気分にさえなる。不思議な体験だった。

そんなことで、下の動画は、「曼荼羅とオーブ?」というタイトルでお客様の居ない時の様子を編集してみた。
実は、入館者の多い時も、けっこう映っているのだが、なぜか手を合わせて曼荼羅に向かう人の周囲に多いように思えたのだから、不思議体験として、書かざるを得なかったわけである。



仏画 | 17:31:50 | Trackback(0) | Comments(0)
杉本哲郎画伯の言葉
杉本哲郎画稿


人の住むところに宗教があり、宗教のあるところに芸術がある。
宗教が芸術の力を借りて立体化され荘厳され、芸術はまた宗教的情操によって深められる。
宗教から芸術を引いたら何が残るのか。
それなのに今は完全に袂を分かってしまって、宗教はその魅力を失い、芸術もまた空疎化して感覚だけを追っている。
二つの復縁がならなければ、共に衰亡の道を歩むだろう。


この言葉は、私と同じ滋賀県に生まれ、また同郷の山元春挙に学び、後には中央画壇と袂を分けた宗教画家 杉本哲郎が、 昭和36年、62歳の時に発した言葉である。

今、私も63歳。 まったく同感なので、この偉大な画家の存在をご紹介し、この言葉を記して、継承させていただくことにした。

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■杉本哲郎 Sugimoto Tetsurou

1899-1985 大正-昭和時代の日本画家。
明治32年5月25日生まれ。山元春挙に師事。昭和12年インドでアジャンタ壁画を模写,その後も東南アジアの仏教美術を調査する。
55年「世界十大宗教壁画」を完成した。昭和60年3月20日死去。85歳。滋賀県栗東市出身。京都市立絵画専門学校(現京都市立芸大)卒。本名は哲二郎。
既成画壇とは離れ独自の宗教画世界を築く。印度国立中央大学教授。京都市文化功労者。
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仏画 | 08:06:24 | Trackback(0) | Comments(0)
平成釈迦金棺出現図、19~21日まで無料で特別公開。(午前9時~午後4時)
2011年3月16日付け京都新聞より

平成の釈迦出現図披露 長岡京・長法寺が制作
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京都府長岡京市長法寺谷田の長法寺がかつて所蔵していたとされる国宝の「絹本著色・釈迦金棺出現図(しゃかきんかんしゅつげんず)」をベースに描いた仏画「絹本著色平成釈迦金棺出現図」が完成し、このほど同寺の奉賛会の地元住民らに披露された。

 寺伝によると、織田信長の比叡山焼き打ちの際、山で寺務をしていた末寺の長法寺の僧が釈迦金棺出現図を持ち帰って秘蔵し、戦後、外部に譲り渡したという。現在は国宝指定を受け、京都国立博物館が所蔵する。

 出現図は、摩訶摩耶経(まかまやきょう)が説く釈迦再生説法の場面を描く。母の摩耶夫人が、涅槃(ねはん)の場に駆け付けると、釈迦が身を起こして世の無常を説いた様子を表現している。

 寺の歴史をくんだ新たな仏画の制作を、京都市西京区の仏絵師藤野正観さん(60)に依頼。国宝である平安時代の出現図を元にする一方、鎌倉時代以降の涅槃図の特徴でもある数多くの動物を新たに描き込むなど、藤野さんが、関係者の意向も聞きながらオリジナリティーを加え、3年がかりで色鮮やかな平成版の金棺出現図(縦1・7メートル、横1・6メートル)を仕上げた。

 このほど、本堂で開眼法要が行われ、関係者約80人が東日本大震災の被災者への黙とうをささげた後、完成したばかりの釈迦金棺出現図に手を合わせた。

 川西延隆住職(27)や奉賛会のメンバーは「寺の宝が帰ってきたようで、末永く大切にしたい」と話し、四半世紀以上にわたり仏画を描き続ける藤野さんも「依頼を受けて光栄。(自らの作品の中でも)最高峰の出来で、人生の集大成になった」と振り返った。

 寺では同図を19~21日まで無料で特別公開する。午前9時~午後4時。



仏画 | 14:00:27 | Trackback(0) | Comments(0)
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