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ブッダガヤ Bodh Gaya


10年ぶりに訪れたブッダガヤの町は、ものすごい活気と信仰のエネルギーに満ち溢れていた。
インド人ガイドのマルカス氏も、ここは、一番、様変わりしました。言葉は通じません。ここはインドではなくなりました・・・。と興奮して言う。

なるほど、町を歩く人達はほとんどが外国の人達、一番多いのはチベット僧、チベット人、タイ人、台湾人、香港人、それに白人や世界中から集まったバックパッカーも多く見かける。
夜でも、10時を過ぎてもチベット人の開く店には客が居る。 
10年前にも、ややその傾向があったが、ものすごい仏教のパワーを感じる町となった。

10年前にも泊まったスジャータホテルのすぐ横の空き地は相変わらずゴミだらけで汚いが、その周辺の様子は、まったく変わっていた。
聖地ブッダガヤに限らないが、ここは特に人が多くなったせいか、汚れていた。
牛の糞や皮膚病の犬たちの存在は仕方が無いにせよ、特に捨てられたビニール、発泡スチロール、プラスチック製の袋や容器が、土に戻らず町のあちこちに散らかっていた。
インド全土がこの傾向にあって、貧しくても美しい町並みや自然を汚している。どうにかならないものだろうか・・・。いったん遺跡の中に入ると、ゴミひとつ無くきれいに掃除が行き届いているわけだから、インド人の美意識に問題があるようには思えない。
まだ、職業差別のカーストが残っていると聞くが、清掃職の仕事を犯すまいとしているのだろうか・・・。
お掃除隊ツアーでも組んで、ブッダガヤの町だけでも一気に清浄にしたいものだが・・・・。世界遺産のある町、仏教徒の聖地なのに・・・。 話がそれた。元に戻そう。

しかし・・・、仏教のパワーを感じるといってもそれは、チベット仏教で、いたるところに臙脂色の僧衣を着た年配の僧(ラマ)や若い僧、それに子供の僧が忙しそうに往来する。
タルチョといわれる経文を印刷した旗が、仏跡のいたるところで風にたなびき、そのチベット仏教的雰囲気を荘厳している。
チベット仏教は、ポン教に仏教が融合し、ラマ教という俗称があるが、7世紀から14世紀にかけてインドから直接に仏教を取り入れたため、インド仏教の伝統が途絶える寸前の時代に伝来した後期密教が伝わっているので、チベット僧の行きかうブッダガヤに居ると、ナーランダ大学が隆盛だった頃の様子を感じることができるのだ。

そんなことで、釈尊が悟りを開いた町、ブッダガヤの町は、国際的な仏教の聖地として強力に変貌していた。

大塔のある大菩提寺は、昨年のテロの為か、二重のボディチェックを受け、靴を脱いで参拝しなければならい。

菩提樹の辺りには、各仏教国の特徴ある読経があちこちから聞こえ、それは交じり合って濃厚な祈りの渦となって大塔を包み込んでいる。

そこに居る誰もが、自身の本体がその祈りの渦の中に引き込まれていくのを感じているはずだ。

大菩提寺は、世界中の仏教徒の熱気で溢れている。
たまたま、その日と時間に釈尊の面影の元に集まった確固たる縁者なのだ。同じ心の人達、和合衆でごったがえしているのだ。

そのブッダガヤの町に、1973年に落慶した印度山・日本寺で、世界平和を祈る法要を執り行った。 テーラワーダ(上座・原始仏教)の僧とチベット仏教(大乗仏教)の僧を客僧に迎えた。

仏画でいうなら、私の好きな画題で、『出山釈迦図』にその様子が描かれているのだが、この釈尊が瀕死の苦行では何も得られないと悟り(仏教の根本思想:『中道』)山から降りて、ボロボロになった身を清めなおした、尼連禅河(ネーランジャラー河)では、遠くに見えるその苦行をされた山、前正覚山を拝みながら、砂を採取した。

法要を終えた時、日本寺に出張中の日本の若い僧にお聞きしたのだが、何でも、この砂、亡くなった人の額にちょっと乗せてあげると、釈尊の功徳がいただけるとか・・・。

我々仏教徒にとってはガンジス川の砂より、この『尼連禅河の砂』が何よりも『ありがたい砂』ということのようだった。

半ば挫折に近い状態の釈尊は、この尼連禅河で身を清めて、セーナ村のスジャータという娘に乳粥を貰い、元気を取り戻して、ブッダガヤの聖なる樹、菩提樹の下に再度座り直されるのだ。
次は、その乳粥を差し出した娘、聖人となったスジャータのストゥーパを参拝する。

| 09:01:54 | Trackback(0) | Comments(0)
ナーランダ大学跡 Nalanda university Ruins


このブッダガヤの北東に位置する町、ナーランダという地は、ゴータマ・ブッダ が時おり訪れ、"Pavarika" と呼ばれるマンゴーの木立の下で説法していた。
弟子の智慧第一と言われるシャーリプトラ(舎利弗)、神通力第一のマウドゥガリヤーヤナ(目連、モッガラーナ)の幼馴染の二人は、このナーランダ出身だ。
釈尊より早く亡くなった舎利弗の墓もここにあった。大学遺跡の中心的存在のストゥーパがそれで、後に建造されるナーランダ大学もこの智慧第一の舎利弗の墓を中心に規模を整えていったようだ。

当時のナーランダ大学には、釈尊の入滅後900年経った4世紀頃、仏教を学ぶ重要な場所となり、10,000人までの学僧が滞在した。
世界最古の大学で、それまでの歴史で最大の居住型の学校、最多で1万人の学僧と、1,500人の教員がいた。
高い塀と、1つの門、図書館は9階建てだったという。多様な分野の教科の講義があったという。西洋に大学ができる800年も前のことだそうだ。

チベットに残された記録によると、大学が建造された時代と合わないと思うのだが、高僧で日本仏教の祖、龍樹(ナーガールジュナ)(150~250年頃に活躍した大乗仏教の祖)が講義を行ったとされるらしいが、これはたぶん、舎利弗のストゥーパが、そういった講義を受けるのにふさわしい場所だったのだろう。そういった雰囲気が大学の建造に結びついていったのだろう。

大学の元となった建物はグプタ朝(427年頃)時代に、クマーラグプタ1世によって建造され、645年(唐時代)には、唯識派のシーラバドラ(戒賢:古代インドの僧、唯識派)は、玄奘三蔵に唯識を伝え、玄奘は657部に及ぶ経典(般若心経等)を中国に持ち帰った。

761年に中観派のシャーンタラクシタ(寂護:ナーランダ大僧院に所属していたインドの大乗仏教・中観派の僧)がチベット仏教を起こし、774年にはニンマ派の開祖パドマサンバヴァ(蓮華生)がチベット仏教に密教をもたらしたとされる。

サムイェー寺(チベットに建立された最初の仏教僧院 792年~794年)の宗論によると、インド仏教のカマラシーラと中国仏教の摩訶衍が宗教論争を行い、チベット仏教の方向性を決定した。

1193年に、トルコイスラム人の侵略によって、このナーランダ大学は破壊された。
インド仏教の衰退はグプタ朝時代から始まっており、イスラム侵入以前にも、ほぼ衰退していたが、イスラム勢力によるナーランダー大学の破壊はインド仏教の滅亡を決定づけた。

私が現聖護院門跡の宮城泰年師とご一緒に訪れたのが、2004年だから、今から10年も前になる。
その時に比べても遺跡の数が増えていた。まだまだ発掘途中なのである。
来るたびに遺跡が広くなっている。
全て発掘が済むと、5km×10Kmぐらいはあるそうだが、周辺の住宅にまで広がるらしい。学僧で埋め尽くされた大きな町のようなキャンパスだったことがうかがわれる。

結局、時間が少なく、ここに居たのは1時間ぐらいだっただろうか・・・。
私の大好きな場所なので、もっともっと長く居たかった。

次回は、このナーランダや霊鷲山あたりに、ゆっくり滞在して時空を越えたひと時を過ごしたいと思う・・・。


| 11:32:28 | Trackback(0) | Comments(0)
ラージギル Rajgir


霊鷲山(りょうじゅせん)  Grdhrakuta

クシナガラからケサリアを経てガンジスを渡りパトナを通り過ぎると、大平原の一角が岩山で囲まれたラージギルがある。かつてのマガダ国の首都だ。

デモの通行止めに遭って遠回りを余儀なくされた我々一行は、到着予定時間をはるかに過ぎた午前4時過ぎ、「法華ホテル」にたどり着いた。
ベッドに体を横たえようものなら、いっきに眠りに落ちることは誰もが知っていた。
荷物を部屋に置き、各自参拝用の衣服に気替え、休息も朝食も摂らないままロビーに集まった。
5時半には、霊鷲山に向かってホテルを出発した。

2度目の参拝である。その時、6年前にも早朝の登山だったので、同じような時間帯だ。辺りは真っ暗で、東の空が明るくなりつつある状態だった。この登山参道ではやはりウキウキする。

インド第一の強国マガダ国の王、頻婆娑羅(ビンビサーラ)が、お釈迦さまに頻繁に会いたいが故に、寄進した道である。ビンビサーラロードと呼ぶ。

私は、仏絵師なので、過去に観経変相図(当麻曼陀羅)を思い出せないぐらいの数を描いている。
この曼陀羅の構成は、韋提希(いだいけ)夫人の懇願により釈尊が説かれたのが『観無量寿経』で、この釈尊の教えが図式化されている。

図の向かって左側には、韋提希夫人が、釈尊に救いを求め、西方阿弥陀浄土に導かれる様を描いた、「王舎城の悲劇」の物語が描かれているが、その舞台も、ここ王舎城なのだ。
そして、図の右側には十六観想のうちの十三観想、下には下品(げぼん)から上品(じょうぼん)までの九品が描かれる。
その向かって左側に描かれた韋提希夫人の物語の一番上段に、鷲の頭のような大きな岩山の窟の前で、説法する釈尊を描く。

34歳からそんな仏画を描かせて頂いているが、45歳ではじめて仏跡に呼ばれたような気がして、縁あって実際にスリランカに行った。そこから、私の仏跡に対する思いが募っていくことになるわけだ。

それまでは、曼陀羅の舞台は、私にとって、単に想像の風景でしかなかった。
過去に描かれたほとんどの仏画には、中国の建物や景色が描かれているわけだから、本来のインドの風景を感じるには、実際にインドに行くしかないのである。

ほんとうに、マガダ国があって、国王ビンビサーラの寄進した道路があったし、その岩山があった。弟子たちが瞑想した洞穴もあちこちにある。まさに2500年~2600年前の遺跡なのだ、日本のどの遺跡よりも古く、言うなら縄文時代の後期にあたる時代の遺跡だから、これは凄い。
ブッダの入滅後アショカ王が仏足跡を定めるために旅するのが、弥生時代の前期・・・と、やはり古い。

霊鷲山、耆闍崛山(ぎじやくせん)ともいう。その名の如く、そのままだった。上空には鷲が旋回し、大きな鷲が翼を休めているような岩がある。曼陀羅の図、そのままなのだ。

ここには2回目の参拝だが、やはり、厳かな気分になる。

一年ほど前に、肺癌の疑いで、肺の4分の1を切り取っている私にとって、またここに元気に来られたことと、訪れた今、間違いなく聖なる霊気に包まれている自分に、感謝の念がふつふつと沸いてくるのを感じさせてくれる・・・。

80歳になったブッダは、ここ霊鷲山から、生まれ故郷を目指して『最後の旅』に出発する。

この辺りの仏跡には、最初の仏教寺院である竹林精舍、名医ジーヴァカの寄進したマンゴー園という名の病院跡、王舎城の悲劇の舞台(母韋提希と父頻婆娑羅の息子阿闍世が父を幽閉した牢獄跡)、南門の城壁跡、それにブッダも湯に浸かったであろう現役の温泉(温泉精舍)もある。


| 11:27:30 | Trackback(0) | Comments(0)
ケサリア kesaria stupa 2014

ケサリアは、ヴァイシャリ(ベーサリーとも呼ぶ)から北西に48㎞、ケサリアから7㎞南東のガンジス川を渡るとパトナ。その先にナーランダやラージギルがある。

我々一行は、ネパールから陸路でインドに入ったので、ルンビニを最初にお参りした。
したがって、インド側のカピラバストゥからクシナガラを目指したので、『ブッダ最後の旅』とは逆に訪ねることになる。これを「順打ち」に対して、「逆打ち」というらしい。

クシナガラからケサリア経由でヴァイシャリを目指している時のこと、何の抗議デモか知らないが、通行止めに伴う大渋滞に遭遇し、ヴァイシャリ行きを断念せざるを得なくなり、大幅に遠回りしてパトナに向かうことになった。

車が横転するほどの凸凹悪路にサトウキビの輸送トラックで渋滞する中をノロノロとラージギルに向かった。ラージギルのホテルに到着したのは、予定の時刻を8時間ほど過ぎた早朝の午前4時だった。

ヴァイシャリは、ブッダ出家後の最初の訪問地でもあり、最後の旅でクシナガラに向かう最終の長期滞在説教地でもあり、また、仏法に帰依し教養もある遊女アムラパリの心温まる接待を受け、弟子たちに自身の死を予告した地でもある。

最後の旅でヴァイシャリの町を後にした頃、執着から解き放たれたはずのブッダが、巨大な象が大きく振り返るように身をひるがえし、なつかしそうにヴァイシャリの町を眺めながら「ヴァイシャリの町は美しい・・・人生とはなんと甘美なものだろう・・・。」と名残惜しんだといわれている。
その場所は、見返りの丘として仏跡のひとつに加えられている。
今回は行けなかったが、この丘も、田園に囲まれ、大きなマンゴー樹が聖樹として大切にされている。

さらに、ブッダの前世を綴るジャータカ物語(本生譚)によれば、ブッダが前世で菩薩であった時、この王国を支配したということになっている。

ブッダと同じ時代に生まれたジャイナ教の創始者マハーヴィラもここの出身だし、ブッダの死後100年には、ここが第2回目の結集(経典編集の集まり)の地になった。

ヴァイシャリのリッチャヴィ族は、ブッダのご一行をここケサリアまで見送ったが、涅槃を迎えるブッダが「見送りは、ここまでで結構」と別れを告げ、托鉢椀を記念に与えられ、リッチャヴィ族は、その記念に泥のスートゥーパを作ったという。これがこのケサリアストゥーパの基礎となったといわれている。

瀕死のブッダとアーナンダ一行(数名)は、ここから入滅の地、クシナガラまで旅を続ける。ここから80Kmほど先となるのだろうか・・・。

さて、私は、ここケサリア遺跡には初めて訪れたのだが、そのストゥーパは、開放的な自然の環境にその美しい姿を半分だけ現した、当時の姿を感じさせる生々しい魅力的な様子だった。
ご一緒した人達と、まるで、そのブッダの時代に迷い込んだような、そんな気分にさえなる。

広い敷地の端にある入場門から見える小高い丘がそれだった。門から見ると右半分が丘で、左半分が掘り出したストゥーパだ。
アショカ王の時代250年頃から800年頃までかかって造築といえば良いのだろうか、付け足しながら大きくなったのがこのストゥーパだ。

まだ、発掘途中なのである。最下層の基壇は、地震で沈み地面の下にあるといわれている。
インドネシアのジャワ島にあるボルボドゥール遺跡もこのケサリアのストゥーパを見本としているそうだ。
このボルボドゥールのストゥーパと同じようにいづれ世界遺産になるのだろう。

辺りが整備されないうちに、ぜひ、またゆっくり時間をとって行きたいものだ・・・。




【動画】けなげに働く少女に出遭った・・・。

インド全土で、こんなシーンによく出くわすのだが、ここケサリアでも、けなげに働く子供たちの子供らしい姿に、私の幼い頃の懐かしさと、「頑張れよ!」と、エールを送りたくなるようなシーンに出くわした。

記録ビデオにたまたま写っていたので、私のこころの動きを表現したくて、別に編集してみた。

遺跡に入場する中流以上の子供連れの家族の横を、汚れたボロボロの服を着た少女が、頭に刈った草を大量に乗せて、こちらに歩いてくる。

昭和30年代の日本、私の幼い頃の光景と似ているが、大人も子供も皆前を向いて希望に胸を膨らませ生きていた。

ここインドではどうなのだろう・・・法律では禁止されているカーストが色濃く残るこの独特の社会で生きる人達の、特に下層の人達やカースト外、つまり不可触民のことが気になる。

どんな気持ちなのだろうか・・・。この少女の心の中を覗いてみたい・・・。




| 09:03:31 | Trackback(0) | Comments(0)
クシナガラ Kushinagar 


クシナガラといえば。涅槃の地。
釈尊最後の旅の終着の地だ。

何度、この旅の終着地点の出来事である「仏涅槃図」を描かせて頂いたであろうか・・・。

ここクシナガラは、釈尊が涅槃に入った地である。上の動画は今回、私が撮って、編集した。

2004年依頼2度目だが、あの時はもう夜だったので、辺りの雰囲気の印象がないし、当時の写真もない。
でも、今回も早朝なので、濃い霧が立ち込め、まるで、墨絵の世界がそこにあった。あいかわらず、辺りの景色が見えないのだ。つまり、余計なものが一切見えないのだ。見えるのは涅槃堂と沙羅樹と周辺の木々の間から見えるご来光のみ。

涅槃像には相変わらず、ミャンマーの仏教徒が掛けたという袈裟のような布が頭部と足を残し覆い掛けてある。
一度その布を取って拝みたいものなのだが、そうもいかない。今回も、御尊体の部分の造作は見ることができなかった・・・。

●お釈迦さまの最後について、『大パリニッバーナ経(大般涅槃経)』には次のようなことが書かれている。

ある日、釈尊は死を予感し、生まれ故郷を目指して、弟子アーナンダと二人で最後の旅に出る。
霊鷲山から出発してガンジス川を渡り、釈尊が好きだった街ヴァイシャリの町へ向かわれます。
ベルーヴァ村で雨安居に入られた時、「恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こった」という。
釈尊80歳。老いと衰弱は避けられなかった。

アーナンダよ、そなたたちのために説いた教えと戒律とが、私の死後、そなたたちの師となるのだ。

また、今、そなたたちは互いに『友よ』と呼び合っているが、私の亡き後はその習慣はやめなくてはならない。
年長の修行僧は、新参の修行僧を、名または姓を呼んで、あるいは『友よ』と呼びかけてつき合うべきである。
新参の修行僧は、年長の修行僧を『尊い方よ』とか、『尊者よ』と呼んでつき合うべきである。


ここで、仏陀は、「年上の僧や先輩の僧を敬うべきである。年下の僧や新米の僧は、決して年上の僧や先輩の僧を友」などと呼んではなるぬ」と言っている。
 在家の社会システムにおいても同じことが言えるとすれば、仏教が我が国に輸入される過程において、中国で儒教の教えに影響され、仏陀の直接の教えではない「倫理」が説かれるようになったと勘違いしている私を改めさせた一説であるが、これはたぶん、師が居なくなった時点で、誰をよりどころに修行するのかという弟子たちの不安に応えたのだと思われる。つまり仏法を、自分より知る人を、敬い、そしてよりどころとすれば良いということになる。在家にとっては、自分より仏法を知る人は、「僧」ということになる。)

私の死後、修行僧の集いを望むなら、ささいな戒律は廃止してもよい。

この、ささいな戒律・・・とはどんなことをさすのだろう・・・。
たぶん、仏法を学ぶことの本質から外れた戒律のことをさしているのだろう。例えば、修行者が集団を組織するがゆえに必然的に生まれる決め事などは、どうしても行き過ぎる傾向があるが、原点に立ち返って思考すれば、その必要性が見えてくるということなのかもしれない。現代の仏教寺院の組織にもそれが言えるような気がするのだが・・・。

 アーナンダよ、ひねくれ、戒律を守る気持ちを欠いている修行僧チャンナには、私の死後、「清浄な罰」を加えなさい。
「清浄な罰」とは、チャンナは何を言ってもかまわないが、他の修行僧は誰も彼に話しかけず、忠告もせず、教えさとすこともせず、彼を独りにしておくことだ。
それが彼を立ち直らせるであろう。


※ここでも、仏陀は、僧団の規則の守れない修行者に対して、自身が、その規則、規律の必要性に気付くまで、求めるまで、誰も何も言うな、諭すな、と言っている。求道の心が生じて初めて仏法が理解できるといったところだろうか。

また、修行僧の誰かの心に、ブッダについて、法について、僧団について、道について、あるいは実践について、疑問が生じるかも知れない。もし、そういうことがおこりそうならば、今尋ねなさい。

後になって、『師の目の前にいながら、師に面と向かって尋ねることをしなかった』と後悔することがないように。」

この言葉に修行僧たちは黙っていました。
お釈迦さまは同じことを3度繰り返されましたが、修行僧たちは沈黙したままでした。
そこで告げられました。

「修行僧たちよ、お前たちは師を尊敬するがゆえに尋ねないのかも知れない。仲間が仲間に尋ねるようにしなさい。」
このように言われても修行僧たちは黙っていました。そこでアーナンダは尊敬する師にこのように言いました。

「尊敬する師よ、不思議なことです。驚くべきことです。1人の修行僧にも疑い、疑念が起こっていません。」

「アーナンダよ、そなたは清らかな信仰からそのように語る。

私は、このように認識している。
『この修行僧の集まりにおいては、1人の修行僧にも疑念が起こっていない。この5百人の修行僧のうちの最後の修行僧でも聖者の流れに入り、堕落から身を守り、至高の智に到達する』と。

さあ、皆にもう一度思い出させよう。
一切の事象は衰滅していくものである。

心して修行に励みなさい。」



と、言い残し、2本の沙羅樹の間に、当時の縁起が良いとされていた習慣にのっとり、頭を北にして静かに涅槃に入られたのである。
その場所こそが、ここクシナガラの涅槃堂のある位置なのだ。

全ての事象や姿、形のあるものは、ことごとく無くなるのだよ。執着すれば苦しいだけ。
大切なのは、人として修行に励むこと、つまり「善」を求めて生きることが、結局「楽」なのだよ。と教えている。

仏跡は、何処に行っても、どうしてこんなにのどかでいつまでも居たくなるのだろう・・・。
お参りする人々の直向で素直な信仰心が辺りを幸福のエネルギーで満たしているからだろうか・・・・。




| 09:59:14 | Trackback(0) | Comments(0)
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