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出家する前のブッダ29歳の苦悩(おごりの消滅)
アマラバティー出土出家レリーフ
南印度・アマラバティー遺跡から出土した出家シーンのレリーフ


わたくしはこのように裕福で、何不自由なく育ち過ごしていたが、次のような思いが起こった、(ディーガ・ニカーヤ、II、中村元訳より正観がもっと簡約しました。)

誰でも老いること
無学な人は、自分が老いてゆくものであって、また、老いるのを免れられないのに、他人が老衰したのを見ると、考えこんで、悩み、恥じ、嫌悪している。
実は、私もまた同じように老いてゆくものであると心から気づいた時、青年期の若さに対するおごりは、消え失せた。

誰でも病むこと
無学な人は、自分が病むものであって、また病を免れないのに、他人が病んでいるのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。
実は、私もまた同じように病むであろうと気づいた時、健康時における健康へのおごりは、消え失せた。

誰でも死ぬこと
無学な人は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している。
実は、私もまた同じように例外なく死ぬのだと心より気づいた時、生存時における生存へのおごりは、消え失せた。


 老・病・死という、命あるものであるならば誰もが避けられない普遍的現実、真理について、若き釈尊は苦悩されていたのですが、仏教の開祖、釈尊の出家のきっかけが、老・病・死は、避けることができないという、気づきにあったことを、明らかにしています。

私、藤野正観は、自分自身が「老い」や「病い」と付き合う67歳の今、やっと、この普遍的現実である「老・病・死」を、心の底から受け入れ、理解できるようになったのです。



仏教 | 09:22:14 | Trackback(0) | Comments(0)
日本の原風景を忘れないで
2018-06-24大原野にて
自宅近くの大原野の夕暮れ この日本の原風景を忘れないで欲しい


今月の4日からワシントンDCに住む長女家族が帰って来て、妻と二人だけの家が2年ぶりに、にぎやかになっています。
長女の旦那さんは仕事の都合で1週間ほど後に来て、23日には帰りました。
長女と子供二人は7月31日まで居るそうです。

一週間に一度、大阪に住む長男家族も来るのですが、その時は、我が家のリビングは、もう足の踏み場もなくなります。
9歳と6歳の孫たちは、長女の、「子供たちが日本を忘れないないで」という願いを込めて、帰国前に、近くの公立小学校へ通わせる手続きをしました。
2年ぶりで、しかも短期ですが、長女の通った小学校にお世話になっています。
文科省は、日本人の愛国心を育てるように短期帰国子女にも受け入れをしているそうです。

その孫たちは、日本のテレビを観るのは良いのですが、やはり、NHKのEテレでほとんど毎日放送しているアメリカの中学校の学園コメディ、「ゲームシェイカーズ」を喜んで観ています。
日本語放送をわざわざ英語に戻して楽しんでいます。
今や、孫たちは英語のセリフの方が、その内容がリアルに伝わるということのようです。

そういう意味でも、2年に一度ですが、短期の日本の小学校留学は有意義なのかもしれませんが、なんだか、これで良いのかなぁ・・・。
と、我が孫の行く末をちょっぴり心配する私なのです・・・。


うだうだ | 17:07:07 | Trackback(0) | Comments(0)
四万十~いのちの仕舞い


2010年にNHK教育の長寿番組「心の時代」に出させていただいたことがあります。
その時に、2週間ほどだったでしょうか私の仕事や日常の一コマを撮っていただいたて、古い写真等を挿入して私のそれまでの半生を、「仏を描く 祈りを描く」という1時間番組の為にすべての編集を担当されたのが、溝渕雅幸監督です。

先日、私の唯一所属する団体「仏教クラブ」の例会で「いのちの講演家」といわれる岩崎順子さんに講演していただきました。
クラブのホームページの管理人でもある私は、お話の全てを書き起こして、いつものようにそのホームページにアップしたのです。
そのページが、Facebookの岩崎さんのページにリンクされると、お友達の多い岩崎さんですから、その仏教クラブの講演をまとめたページへのアクセス数が通常ではあり得ない数字をたたき出しました。
Facebookでは、その話題で盛り上がっている様子が伝わってきます。
そんなおり、岩崎さんのお友達である溝渕雅幸監督が発言され、「書きお越しをされた藤野正観さんを撮ったことがある」とのこと。
その発言に思わず、私も懐かしさのあまりお話の中に入りました。
岩崎さんと同じように監督とお友達のご縁を結んだのですが、やはり、ネットは、忘れかけていた人を再び繋いでくれるんですね。

友人関係になると、岩崎さんや溝渕監督の動きが手に取るように分かるようになるのがFacebookです。
岩崎さんが、溝渕監督の最新作、映画「四万十~いのちの仕舞い」の上映で、監督とトークショウをされるようです。
うん?どういう関係?と疑問があったのですが、何れにせよ、溝渕監督の最新作が、「いのち」や「看取り」「人生の終末」にスポットを当て、四万十で在宅介護で看取りを支援する内科医小笠原望先生の日常と美しい四万十の四季折々の景色をふんだんにとりいれて作られた映画のようです。即座に観たいと思いました。
私を撮ってもらった時はわずか2週間ほどのお付き合いだったのですが彼の映画に対する思いを聞いたことがあります。
「お釈迦さんの映画、作ってよ」と本気半分冗談半分で言っていたことを思い出しました。

その彼が、撮った映画を、先日の日曜日、京都シネマまで観に行ってきました。
小笠原先生の日常と在宅介護という医療現場を丁寧に取材され、劇場のお二人のトークショウでも言っておられたように、出演といいますか出ておられる人たちの生の声がごく自然で、あの長い棒の先に着いた大きなマイクの存在を出演者が意識しておられないので、不思議なぐらいでした。
これも監督の「技」なんでしょうか、実は私の時も不思議と緊張しなかったのです。

そのせいか、映画を観る私が、その場所に居るかのように自分自身の実体験として生々しく記憶に残ることと思います。
また、監督の温かい目線で撮られた四万十の四季折々のドローン撮影も含めた美しい景色も最高でした。
京都シネマのスクリーンサイズがもう少し大きければもっと迫力あったと思うのですが、ちょっと残念でした。

トイレの近い私は、上映とトークショウが終わるとすぐさまトイレに駆け込み、そのまま阪急電車に飛び乗りました。
帰宅後、Facebookのメッセンジャーで、監督より即座にお礼のコメントを頂いたのにはびっくりしましたが、監督と小笠原先生のトークショウで明るくなった満席の劇場の一番後席中央に座わっていた私に気付いて頂いたのだと思いますが、その返事にこう書きました。

「帰る電車の中で、自分の終末はどんな終末なのだろう・・・。と考えてしまいました。
たぶん、今後も続くであろう私の医療環境では、目前に迫った終末期が、苦しい検査と治療の繰り返しで、地獄のように思えて来ます・・・。小笠原先生の居る四万十に、移住しようかと思ってしまいます(^o^) 
記憶に残る素晴らしいドキュメンタリー映画でした。ありがとうございました。また良い作品撮って、観せてください。」と。



うだうだ | 12:16:07 | Trackback(0) | Comments(0)
大腸検査と胃カメラ
没2018年5月号用-小さなポリープが2個あるが、異常なしと診断。(担当医師の説明より)
担当医師の説明図


 2018年3月、尿路結石の激痛で苦しみましたが、その二日後には、小便と共に排出となり、おかげ様で一件落着。 
 年を重ねると、日々今まで経験したことのない体調の変化に遭遇します。
その尿路結石が出た数日後、泌尿器科で造影剤入りCT撮影の結果を見ながら、「石が出て良かったのですが、腎臓にまだ三個、小さな結石がありますねぇ・・・。
医師は、気の毒そうに言います。私は、苦笑するしかありません。
その時、その医師は、「それと・・・、大腸にケイシツがいくつかあるので消化器科で診てもらった方が良いですねぇ。」と言います。「何ですかそのケイシツって?」と私。
「憩室」と書いて、大腸の内側にいくつかの窪みができていて、その窪みに大便が溜まる可能性があります。炎症を起こすと腹痛が起きたり、最悪、癌になることもあります。」と念を押されます。「消化器内科を紹介しますので、受診されますか?」
ついに、その時がやって来たのです。
今まで胃カメラと大腸検査を極力避けてきた私ですが、覚悟しました。

 一週間後、その消化器内科を受診しますと、四年前にも尿路結石で救急外来で診て貰った経験の浅い若い美人女医さんが担当でした。あれから四年。あの時の話をしてもお忘れでしたが、女性らしい優しい言葉の診察に、経験を積んだ医師としての落ち着きと自信が感じられます。
 「大腸の憩室は、お年を召された方なら誰にでもあり、そんなに心配されなくてもいいですよ。」と、図に書いて説明してくれます。泌尿器科の医師は、最悪癌に変化すると脅しましたが、この説明で私の不安が一気に無くなり、この医師の言う事なら全て受け入れようと、そんな気分になりました。
「藤野さん、この機会に大腸検査や胃カメラ検査を受けてみませんか?」
消化器内科を受診する段階で、覚悟を決めていた私は、その美人女医さんの優しいお勧めを拒む理由はありません。一週間後の昨日、大腸検査を生まれて初めて受けてきました。
 検査日の数日前から、通常野菜や海藻などの健康に良いとされている食品の摂取を控え、前日の夜から下剤を飲み、朝までに出るものは出します。当日、本人は運転して帰るなという注意書きを厳守し、「私なんか一人で行って、一人で帰って来たわよ!」と言う妻に付き添われ受付を済まします。
その日、検査を受ける人は、女性も含めると十五人くらい居たでしょうか、午前中は、洗腸液や水をたらふく飲みます。その間十回ぐらい排便し、その色が透明になるまで飲み続けます。初めての経験ですが、見事に透明できれいな水が出た時には感動ものでした。
 男女それぞれが、入れ代わり立ち代わり頻繁にトイレに行きますので、妙な連帯感が生まれます。大腸癌と宣言された患者さん等、何度か経験されている方がほとんどで、初めて体験する私は、「痛いですか?」と不安感丸出しで聞きます。この質問を、怖がりの私は医師にも聞いています。
 面白いことにその応答は立場によって全く違います。患者側の応えのほとんどは「下手な医師に当たると痛いですよ、何度か経験しましたが痛い時も平気な時もありました。」一方で、医師や看護師に聞くと「患者さんの大腸の構造によって個人差がありますのでいろいろです。」と濁します。
私の場合は・・・、とんでもなく『痛かったぁ!』
私は、担当の若い医者の経験と技術不足だと確信しています。
ほぼ一日かかった検査の結果、二個の小さなポリープがあるものの、おかげさまで異常なしでした。

 二週間後は胃カメラです。胃カメラは、今までの人生で過去に一回しか経験がありません。
以前は、関西医大付属病院でしたでしょうか、記憶は定かではありませんが、意識を飛ばしてから胃カメラを挿入する検査にしてもらいました。
私の場合は、口の中に何か異物が入るだけで、えずきます。特に歯医者などでは、困らせる患者なのです。
ですので、あんな太い管が長い時間、喉を出たり入ったりするなどとは、到底受け入れることができないわけです。
その時もそうでしたが、今回も、そんなことで、医師にお願いして、意識を飛ばしてもらい、その間、何も記憶にないのですが、目が覚めた時には、仮眠用のベッドに横たわっていたのです。
たぶん10分程度だったのではと思うのですが、見事に記憶がありません。
予め点滴用の針を血管に挿入しておき、口に挿入管が入る為の器具を咥えたその瞬間に睡眠薬?を投入するわけです。
よく効きます。それ以降何も覚えていないのですから、ほんとによく効く眠り薬です。
ですので、その睡眠薬のおかげで、私にとっては、大腸検査よりも、格段に楽な検査となったのです。
この結果も一ヶ月後の診察時に聞くことになるのですが、おかげさまで異状なし。
また一年後にどこの病院でも良いので検査してくださいとのことでしたが、2年後で良いのでは・・・と、内心では決めています。
 

老い | 16:39:37 | Trackback(0) | Comments(0)
図案家のルーツ
先日、ふとしたことから、明治期に活躍した図案家の名前を目にしました。
飯田始晃という図案家で、私の師と同世代である大先輩の師ということです。 興味を持って、ネットで調べますと、アマゾンで「飯田始晃筆 小倉百人一首」という古本が売っていました。ポチッとすると、3日後には我が工房に届きました。古本なので、宮崎県の古書店からの郵送でした。それでも、早いものです。
さっそく、この本を開きますと、昔、私も勉強したことのあるあらゆる古典といいましょうか伝統的な絵画が懐かしいタッチでそれぞれの歌に沿って描かれています。我が国の伝統絵画で装飾されたこれもまた国の代表的文学である「百人一首」。
美しい本です。

その本の末頁に、解説があり、私の「仏絵師」としてのルーツである「図案家」の歴史にも触れてありましたので、あまり、世に知られていない京都における図案家という職業絵師の成り立つに至った歴史の一端をネット上に残す意味で、OCRで読み取り、その部分となりますが以下に記録しておくことにします。


飯田始晃筆 小倉百人一首歌絵    
藤井健三(染織研究家)解説より部分 芸艸堂発行

iida


近代の王朝美と図案家・飯田始晃

 明治初めの染織図案の発展は、友禅染下絵を手掛けた日本画家の岸竹堂榊原文翠今尾景年らをはじめとした日本画家らによって形作られるようになった。
維新後の経済成長に伴って、多くの国民による絹繊維の利用ときものの普及が友禅模様図案の需要を増し、急成長した手描友禅や型友禅染の発展が、多量の図案を必要としたのだった。
また一九〇〇年に開催されたパリ万国博覧会の影響から海外の意匠図案が注目されて、美術や流行性の高い図案が求められだしていき、そこから現役の画家ばかりでなく美術学校を出た優秀な人材が図案家として育っていった。
こうした有能な図案家に京都の丸紅伊藤忠合名会社の意匠部で、裾模様を描いていた山本雪桂がいる。
雪桂は京都生まれで先輩の古谷紅麟雪山兄弟を師として、独特な京都風の図案を完成していた。
紅麟と雪山兄弟は近代琳派を創世した工芸図案家の神坂雪佳の弟子であり、雪桂もその孫弟子となって近代琳派の図案家として活躍する。ただ紅麟が雪佳の画風を得て美術工芸風だったのに対し、雪桂は産業的な独自の近代琳派を表していった。

 この山本雪桂に就いた図案家の一人に飯田始晃がいた。
始晃は明治ニ十九年に大阪で生まれ、幼い頃に京都へ移って育ち、書画に特別な才覚をみせていたという。成人後は別府市に移って絵画教師になるが、大正九年に再び京都に戻って山本雪桂の門に入塾し、図案家を志して日本画と友禅図案の技術を修得する。
その頃に、雪桂の弟子達が集まって設立したのが「桂友同机会」であり、雪桂を顧問に始晃を始めとして河原崎晃洞、磯田存在、宮川叢平、都路帖陽、下倉不宵、宮川麗明、竹内雪華、中川巌らがいた。「社友同机会 第一-三〇」、「秋物服飾図案創画集」、「創苑帖」、『四季花卉の巻一-一○輯』、「源氏模様」、「創華集」、『新考能楽模様』といった人気の図案書を多数刊行した。

 この桂友同机会でとくに活躍したのが始晃と河原崎晃洞(奨堂)であり、師の雪桂が優雅で鷹揚な図案を著したのに対して、弟子の二人は繊細優美で技巧的な図案を得意としていた。独立後の始晃は昭和三年に「晃友会」を組織して、『晃友』、『方圓帖』を刊行して独自な図案世界を確立していった。
そうした析、始晃は昭和七年に佐々木信綱著の著す『百人一首講義』を読んで特別な想いをすることとなり、独白の絵風で百人一首の歌絵を描きたいと発念して製作にかかる。
早くも、昭和十年に描き上がった一部を極彩色摺りの木版画で『小倉のにしき』と題する第一巻を芸艸堂から刊行し、昭和十二年に構想より五年有余を経て全五巻を完結する。

飯田始晃の『小倉のにしき』

 始晃が『小倉のにしき』を著した昭和十一年頃は第二次大戦を控えた五年前で、日中関係のみならず世界との関係が一段と深刻になっていった時期である。
満州事変を経て中国北東部満州に傀儡政権を作って大陸への侵略を進めようとしていたし、天皇機関説が唱えられたり二・二六事件があって国情が騒然としていた。社会政党もファッショ化を進めて世に軍国の風潮が増して国際連盟の脱退へと進んで国政が極右へと傾いていた。
また昭和初期はプロレタリア文学が退潮して、文芸復興の波のもとに耽美的なロマンス文学が喜ばれだしていたし、絵画の世界も新時代の後期印象派やキュビズム(立体主義)、フォービスム(野獣派)といった西洋の流行を受けて洋画界が独自な新世界を開いていった。
一歩リードする洋画界を倣って洋行によってのみ新しい境地を模索していた日本画の世界は、日中戦争を間近にして自らの立場を捕らえかねて動揺していたのだった。
世の動きと共にそれは洋化から和様へと方向転換を見せ、古典の東洋絵画や歴史画の復活へと向いていったのである。

 欧米から渡ってくる大胆なモダン意匠に洗脳されながらも、戦争を目前に右傾化していく国民感情の狭間で、歴史画や古典美術、伝承図案が回帰していく様了が見られた。
洋風のみを由としない和装の図案家達が、王朝風の描写や花模様で美的感性を際立たせていたのであって、そんな古典文様をモダンな明るい色調で、流行の大胆さを明快に表した和様図案が作られた時期だった。
また、こうしたモダンと伝統の極端が入り交じる図案界の流行事情を受けて、日本画や洋画はややもすると古典的な表現にのめり込まざるを得ない時代感があった。
始晃自身も絵画性の強い美を図案に求めて、歴史と文学性のある華やかな王朝美を現代感覚で表そうと試み、有職故実を踏まえた自然な写生描写で描いた。
ただ始晃の著した「小倉百人一首歌絵」は、図案というよりは絵画の意識で描かれたのはいうまでない。

 またこの頃に風俗的ではあるが、関西の宝塚少女歌劇団の俳優名の多くが『百人一首』に因んで命名されている。
歌劇団開設の大正二年から戦前までの人勢が、そして以降も多く見られる。
年配者の知る「雲井浪子」や「天津乙女」「小倉みゆき」「霧立のぽる」、戦後でも「神代錦」「淡島千景」「越路吹雪」「小夜福子」「存口野八千代」らがいる。大正から昭和前期とはそんな風だった。
 始晃の『小倉のにしき』には特徴のある絵様が幾つか指摘できる。
その一つは「道長取り」などの継ぎ紙装飾による意匠構成であり、二つに古典の装飾経に見る模様表現や山水屏風に貼付される色紙取り、また絵巻や絵伝の風景の図法など古典的な図画技法の応用がある。
こうした執拗な古典画に対する技法研究が知れる。

 道長取りの継ぎ紙装飾による構成は、天智天皇、柿本人麿、光孝天皇、在原業平、藤原敏行、中納言兼輔、壬生忠見、清原元輔、藤原道信、儀同三司母、和泉式部、紫式部、源俊頼、後京極摂政前太政大臣の図に見られ、十四図以上に及んでいる。また古典の装飾経や装飾色紙、粘葉装冊子に見られる繊細華麗な模様表現は、持統天皇、猿丸太夫、三条右大臣、皇嘉門院別当の図に窺え、さらに山水屏風に貼付される色紙の構図は、山部赤人を始めとして多くに見られる。
絵巻や絵伝の風景の図示法による図は、中納言家持、喜撰法師、素性法師、菅家、源宗于、壬生忠岑、恵慶法師、右大将道綱母、大納言公任、崇徳院とすこぶる多い。源氏絵や大和絵の描法は、阿倍仲麻呂、小野小町、僧正遍昭、伊勢、藤原義孝・実方、儀同三司母の図に見られる。

 他にも浮世絵風や蒔絵調もあり、『源氏物語絵』から引いた図柄や狩野派風の絵もある。近代では幸野楳嶺や今尾景年らの巨匠画家の絵を彷彿させるものがあり、同僚の河原崎晃洞の図案さえも思わせることがあって、参考や応用する于本の範囲が限りなく広い。
 『小倉のにしき』で始晃がこうした技法を駆使するのに参考にしたのが、『西本願寺三十六人家集』や『平家納経』、『佐竹本二十六人歌絵』である。
『西本願寺三十六人家集』は藤原公任が撰んだという三十六歌仙の家集を集めたもので、三十六人集の古写本でもっとも古く、書は藤原定実・定信親子ら二十人ほどの能書家の筆になり、料紙の美しさと併せて平安後期を代表する工芸品である。
全体で三十九帖が西本願寺に伝えられるが、伊勢集と貫之集が粘葉冊子の形を解体して、昭和四年に一葉づつの断簡に分割されて好事家の手元に割愛されて話題になった。
約六十種類に及ぶ文様の装飾唐紙や羅紋紙をはじめ、紫や紅、藍色紙や量し染をした染紙をちぎって継ぎ合わせる継紙装飾は、この上ない優美で華麗なものであった。
当時に印刷物で紹介されたのを利用したのだろうし、この継紙技法は染織図案に応用されて、「道長取り」と呼ばれて今日の染織意匠の代表にもなっている。

 始晃が『小倉のにしき』を手掛けるのに好機といえる『西本願寺木』の公開があったからこそで、その意匠が『小倉のにしき』に、ふんだんに応用されている。また、佐竹家に伝えられた似絵の画人藤原信実が描いたといわれる『佐竹本三十六人歌絵』が、その前の大正八年に各歌仙が切断されており、これなども始晃の図案資料として重要なものとなっている。
さらに、木版技術や印刷技術がさらに発達して『平家納経』や各種の絵巻、絵伝が模写や模刻、印刷されるなどして、『小倉のにしき』を描くに十分な態勢が世の中に見られたのである。
『平家納経』の金勧を使った優美な砂子に切箔や野毛箔の技法が、「小倉のにしき」の歌絵に華麗に再現されているのである。              (染織研究家)

参考本 『だれも知らなかった《百人.首》』 吉海直人 春秋社




神坂 雪佳(かみさか せっか、慶応2年1月12日(1866年2月26日) - 昭和17年(1942年)1月4日)
近現代の日本の画家であり、図案家。京都に暮らし、明治から昭和にかけての時期に、絵画と工芸の分野で多岐にわたる活動をした。本名は吉隆(よしたか)。
京都御所警護の武士・神坂吉重の長男として、幕末の京都・栗田口(現・京都市栗田口)に生まれる。1881年(明治14年)、16歳で四条派の日本画家・鈴木瑞彦に師事して絵画を学び、装飾芸術への関心を高めたのちの1890年(明治23年)には図案家・岸光景に師事し、工芸意匠図案を学ぶ。琳派の研究を始めたのはこの頃であった。1901年(明治34年)には、イギリスのグラスゴーで開催されたグラスゴー国際博覧会 (Glasgow International Exhibition) の視察を目的とし、世界各地の図案の調査を兼ねて渡欧。当時のヨーロッパではジャポニスムが流行し、日本美術の影響を受けたアール・ヌーヴォーが花開いていた。神坂もそこで日本の優れた装飾芸術を再認識したという。 琳派に傾倒し、デフォルメ、クローズアップ、トリミングを用いた大胆な構図や「たらしこみ」の技法など、琳派の影響を受けながらもモダンで明快な作風である。染織や陶芸・漆芸など暮らしを装う工芸品の図案も積極的に行った。蒔絵師の神坂祐吉は雪佳の実弟で、雪佳が図案した作品も多い。 1942年(昭和17年)1月4日、77歳で死去した。

鈴木瑞彦(すずき ずいげん1848-1901)
日本画家。京都生。号は文昇・松夢斎。画は塩川文麟に、詩文は市村水香に学んだ。内国絵画共進会や内国勧業博覧会などで褒状を受賞。のちに京都美術学校の教授として後進の育成に努めた。明治34年(1901)歿、54才。

岸光景 (きし-こうけい1839-1922 明治時代の図案家)
天保(てんぽう)10年9月15日生まれ。父岸雪にまなび,土佐派,琳派(りんぱ)などの影響もうける。内務省,大蔵省の製図掛となり,図案の改良にあたる。石川県や京都などの陶業・漆業地で図案を指導し,香川県に工芸学校を設立するなど,美術工芸の振興につくした。
帝室技芸員。大正11年5月3日死去。84歳。江戸出身。号は無宗。

岸竹堂(きし ちくどう 1826年5月28日生まれ: 滋賀県画家)
岸 竹堂は、日本の幕末から明治時代に活躍した日本画家。幼名は米吉、名は昌禄、字は子和、通称は八郎。竹堂は号で、他に残夢、真月、虎林、如花など。岸派の4代目で、明治期の京都画壇で、森寛斎、幸野楳嶺とともに3巨頭の1人に数えられた画家である。 ウィキペディア

榊原文翠(さかきばら ぶんすい日本画家。江戸生 明治42年(1909)歿、86才)
幕臣榊原長基の子。幼名は芳太郎、名は長敏、別号に佳友・鶴松翁・気揚山人。初め谷文晁の門に入り、のち大和絵を描く。有職・歴史的人物画を能くする。京都に住した。


今尾景年(いまお けいねん 画家 1845年9月13日~ 1924年10月5日, 京都府 京都市)
今尾 景年は、日本の明治から大正にかけて活躍した四条派の日本画家。幼名は猪三郎、のち永観。字は子裕。景年は画号で、別号に三養、聊自楽、養素斎。 色彩豊かな花鳥画を得意とし、「綺麗濃褥」と評された。 ウィキペディア




うだうだ | 10:18:48 | Trackback(0) | Comments(0)
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